今日は死ぬのに一番いい日。(アメリカインディアンのことわざより)
今日は死ぬのに一番いい日。(アメリカインディアンのことわざより)
「今日は死ぬのにとてもいい日だ」
生きているものすべてが、わたしと調和している
すべての声が、わたしと歌をうたっている
すべての美が、わたしの目の中で休もうとして来る
すべての悪い考えは、立ち去っていった
今日は死ぬのにとてもいい日だ
わたしの大地は、わたしを穏やかに取り囲んでいる
畑には、最後の鍬を入れてしまった
わたしの家は、笑い声に満ちている
家に子供たちが帰ってきた
うん。今日は死ぬのにとてもいい日だ
(プエブロ・インディアンと生活するナンシー・ウッドの詩より引用)
私も半世紀以上生きてきて、
「死ぬべきときに死ねなかった不幸というものもあるんだなあ、」と、最近つくづく思うのである。
というのはほかでもない、長く生きるほど友人、知己、家族、兄弟、姉妹などと別れを経験しなければならないからだ。
そして恐らく100歳以上も生きたらそれらのほとんどとお別れしなければならないだろう。
つまり自分ひとりだけこの世に残ってあとは皆あの世に行ってしまっているという状態なのだ。
子どもだって死んでいるかもしれない、
自分が100歳なら子どもは70歳?
70歳まで生きられない人は一杯いるからね。
新しく友人をつくればいいって?
冗談じゃない。80~90歳になってそうそう簡単に友人なんか作れますかってーの。
体力気力もなく、ほとんど家にいてテレビでも見てるしかないだろう老人にはもう無理だ。
自分ひとり切りになってしまって、赤の他人の、老人ホームでインドネシア人介護師に片言の日本語で
介護される毎日は果たして幸せだろうか?妻もいない、自分ひとりっきり、
私はイヤダ。
妻や子や友人がまだ生きているうちに死にたい。
それらの人々に囲まれてあの世とやらへ旅立ちたいと切に思う。
100歳まで生きて、妻もいなく家族も死んでいない、
兄弟もいない、そんなになってまで、
最後までこの世に残りたいとは思わない。
泣いてくれる妻がいて、子どももいて
そんなときに死んでいけるって、
実はほんとはとてもしあわせなんだってこと。
100歳まで生きて妻もいなくて子どもすら死んでしまって
養護老人ホームで他人の中で死んでいく。
それは必ずしも幸せではあるまい。