彼は勇者 私は災厄
観衆はパレードを囲み歓喜を叫ぶ。さまざまな色に溢れ、音が踊り、そこは活気に満ちていた。
ただ一つの無を置き去りにして。私にはそれが異質に映った。
大群衆の喧騒を高くそびえ立つ時計棟の上から眺めた。
街の人間が道を作り、騎士たちが煌びやかな正装で行進している。
しかしひときわ目立つのは、馬に騎乗し中央を闊歩する者たちだ。ある者は深緑の重厚なローブを纏い、ある者は神聖な純白の衣を翻し、ある者は異民族の旅装束に弓を携えていた。
そして1番最後尾。黒い甲冑を身につけ、鴉の濡れ羽色のような髪を風に靡かせた男がいた。若い女性たちから熱の籠った眼差しを一身に受けている。
全身を漆黒に包む美丈夫であったが、その顔からは一切の感情が欠落していた。
色とりどりに描かれた美しい絵画に、墨汁が一滴落ちた異質さだった。
私は都心の大学に通う、ごく普通の女子大生だった。
大好きな両親に将来楽をさせてあげたくて無理して合格を勝ち取った大学だった。仕送りはそのまま貯蓄と化し、その分アルバイトを頑張る毎日だった。
自分の事で精一杯だった私にも彼氏が出来た。華やかに大学生活を楽しむ周りとは違い、いかに堅実に過ごしていくことが出来るかに全力を注いでいた私にとって晴天の霹靂であった。
私には過ぎた彼氏であったが、彼から始まった交際の中で私もどんどん彼に惹かれていった。ただただ、楽しかった。
そして終わりは唐突だった。
その日は彼の車で私の実家へ赴く事になっていた。母親に彼と帰る旨を伝えると、母の黄色い悲鳴の後に喧騒しあう声が聞こえ、父親が「来るな!」と言っているのを無視して電話をきった。
社会人であった彼がけじめだからと言い出した事であったが、緊張のあまりガチガチに固まって挨拶の練習をする姿に何度も笑い声を上げてしまった。
気分転換に海が見える道を通る事にした。道路の脇に車を寄せ、開放的な空間に腕を伸ばした。
近くにあった階段から浜辺へと降りる。その瞬間、私の足元に大きな真っ暗闇の穴が広がった。
悲鳴を上げる間もなかった。
バランスを崩し歪んだ空間に落ちていく私が最後に見たのは、必死に手を伸ばす彼の姿だった。
そこからは、思い出すだけで背筋が冷える日々が始まった。
身一つで落ちた先は森の中だった。近くに川があった事だけが救いであったが、夜はどこからともなく聞こえる獣の鳴き声に震えて過ごした。
何日もかけて歩き続け、ようやく開けた場所に出た時には身体中の痛みを忘れて走った。
良かった助かった。あの森の中こそ守られていたのだと気付いていなかった私は、人里を見つけると一番近くの家に駆け込んだ。
待っていたのは思い描いていたものでは無かった。悲鳴から始まり、恐怖や畏怖を含んだ眼差しが私を貫いた。
動揺し転がる様にその家を出ると、悲鳴を聞きつけた人達が集まってきた。更に沢山の絶叫に囲まれ、女子供は逃げて行った。
身に起こっていることが何一つ理解できないまま私はへたり込む。全身に増悪を宿しながら男達は武器になるものを掻き集め襲いかかってきた。
元々満身創痍だったことも忘れ力の限り走った。その間も後ろから聞こえ続ける怒号は恐怖でしかなく、一度も振り返る事が出来なかった。
結局、何日もかけて抜け出したというのに森の中へと舞い戻ってしまった。男達は森の入口から追っては来なかった。
否応無しに思い知らされてしまった。何度も勘違いだと目を逸らしてきたものは、事実として私の中を駆け巡った。
村人達は日本人離れした顔立ちをしていた。話す言葉も聞いた事がない言語であった。
夜に浮かぶ月は異様に大きく感じた。森で見かけた生き物の中に、明らかに異形の姿をしたものがいた。
しかし何より異質であったのは、私自身であった。おおよそ一ヶ月弱、ここでの生活を余儀なくされているにもかかわらず、たったの一度も空腹を感じた事が無かった。
肩から覗く髪は真っ白だった。怖くて見れなかった自身の顔を、この時ようやく川の水に映した。
白髪と薄い金色の瞳で、泣きそうに顔を歪める私が覗いていた。
ここは、私の知らない世界であった。
再び外へ助けを求めに行く事など到底無理であった。あの表情と声を思い出すだけで私を萎縮させた。
月日というものは良い意味でも悪い意味でも森での生活に順応させた。この身体は食料を必要としなくなってしまった様で、たまに喉を潤す程度に川の水を流し込むだけになってしまった。害がないと判断したのか、大型の動物に出会っても襲われる事も無かった。
行動範囲はそれほど広くはないが、生活圏内であればある程度の事が理解出来た。だから動物達が森の奥へ奥へと移動し、草木が堅く戦慄いた時、森の外が騒がしいことに気がついた。
そしてそれは、私にとって良くないものだという事も感じ取っていた。
動物達の流れに沿って私も移動し始めた僅か2日後、いきなり現れた男達に捕まった。唯一見た村の人間と違い、彼等は均一に武装していた。野蛮さや粗野は感じられず、洗練された甲冑姿はこの世界の中でも上流層である事を感じさせた。しかし彼等も、私に人間としての尊厳等与えてはくれなかった。
服を剥ぎ取られた。抵抗すれば殴られ、逃げない為に足を剣で貫ぬかれた。背中に熱した鉄を押し付けられ、悲鳴を上げれば再び気絶をするまで殴られた。
痛みで朦朧とする中意識を浮上させると、全身を拘束され運ばれていた。抵抗出来ないまままた意識が途切れ、次に目を覚ました時はいつもの川の側に横たわっていた。
全身を駆け巡る激痛を堪え、視線を巡らす。あの男達は居らず、静かな瞳をした綺麗な男が座っていた。
彼はたまに私に会いに来ては、色々なものを与えてくれる様になった。
最初は死にかけの私を川に放り投げた。今度こそ殺される!と震え上がった私は、徐々に和らいでゆく体の痛みにようやく男の意図を知った。背中と足には歪な傷が残ったものの、治癒の力が宿っていたらしい川の水は私を癒してくれた。
次に会ったのは、靴の底が捲れてしまった時だった。ローブのような物とブーツを無言で置いて行かれた。本当は下着も欲しいのだと言えない自分は、顔を深く隠す事の出来るローブを今でも大変重宝させて貰っている。
3度目は、初見の村とは森を軸に三時の方角にある町にいた時だ。この時には、死にかけた事により自己防衛よりも現状打破の方が勝っていた。町に溢れる声や看板が全く理解出来ないと途方に暮れていた時、またも突然現れた男は指先一つで私に言葉をくれた。
それからも、何かあればひょっこり現れる男のお世話になること数年。
私の白髪は腰まで伸び、自分の置かれた立場を理解していた。
この世界に名前は無かったが、私がいる国はリリースェナと言った。隣にある武力国家と同盟を結んでおり、精霊と対話出来る者を多く排出している精霊都市とも呼ばれていた。
世界には他にも大小様々に国はあったが、私は何処からも同じ様に呼ばれていた。
〝災厄〟
それは人の形をした禍である。虚無である白い髪を垂らし、月の雫を受けて黄金色に染まった瞳を持つという。災厄が現れたその時は、ありとあらゆる不幸の根源が雨のように降り注ぐと言い伝えられている。
子供たちですら知っている寝物語だけの存在のような〝災厄〟は、過去の文献を漁れば歴史の節目に多く目撃されており、これがただの空想ではない事は大人たちの大半はよく理解していた。
私の背中に反逆者を拘束する力があるという奴隷の刻印を打ち付けた男たちは、リリースェナの王都の騎士達であった。村からの通報を受け、災厄を捕らえに来たのだという。噂によれば、彼等はまほろばの森に行く手を阻まれ、惑わされ、森の食糧にされてしまったのだという。
私がいるあの森全体は息吹いており、ひとたび足を踏み入れれば食餌の糧にされてしまうと言われていた。確かにあの騎士達の後は誰も来なかったなと結論付け、納得した。
「西のロイヒェンが浄化された」
私一人しか居なかった筈の時計棟最上階の見晴台。すぐ横から私へと言葉が落とされた。突然の登場にはとっくに慣れた。
私に並ぶように街中を見下ろす男を振り返る。作り物めいた秀麗さは、相変わらずの無表情を貼り付けていた。
「この凱旋パレードはその為のものだからね。次は東の地だと皆が言っていたよ」
およそ1年かけ、瘴気に見舞われたロイヒェンの国は本来の姿を取り戻したという。
それもこれも、私達の遥か下方を騎乗して行進する彼らが成し遂げた偉業であった。
「ねえ、マオー。マオーは恐くはない?」
じっと下方を一瞥した。
世界各国から集まった強者達は、ここリリースェナに集結した。総勢7名。少数の精鋭であったが個々の実力は計り知れない程膨大だという。
彼等の使命は、一丸に世界の脅威の抹消であった。そして世界の脅威こそ、ここにいるマオー様であった。
「何を恐れる事がある。それが世界の理というものだ」
「すべてを〝そうだから〟で片付けちゃうのって大人の悪いところだよね」
「……お前はたまに、難しい事を言う」
この世界は数百年から千年に一度、歪みが誕生する。
少しずつ少しずつ蓄積された瘴気はやがて世界のバランスを崩し、突如として溢れ出し、一つの巨大な歪みとなる。
形作った歪みを人は魔王と呼んだ。
「ちょっと、マオー。あなた目立つんだからもうちょっと隠れるかしてよね。下の英雄達にバレたら私なんて即死だよ」
「む、…そうだな」
魔王様は下から死角になる場所へとしゃがみ込む。彼の燃えるような深紅の髪は、艶やかに地べたへと広がった。頭の横から突き出た鋭利な2本の角は、魔王をさらに魔王然としていた。
「にして、お前の目当てはいたのか」
言葉の意図を辿って、視線は漆黒の英雄へと注がれた。
「聞くまでも無かったか。あれか。とりあえずは、息災のようで何よりだ」
「ちょっと、人の彼氏に向かってアレは止めてよね」
「では、勇者か」
「勇者って柄じゃあない気がする、彼」
「黒いの、ではどうだ」
「黒い何よ。まっくろくろすけか」
「まっくろくろすけ。それでいこう」
「長い」
私が落ちてから、この世界の暦でおよそ三年が経った時、魔王の誕生に憂う人々は過去の歴史を紐解き打開の策を講じた。結果、勇者となりうる人間を異世界から召喚する事に成功した。
唯一魔王を断つ術を持つ剣を扱える者がこの世界に存在しなかった事も理由の一つであるが、歴史上の伝説を再び現代に蘇らせる事で人々に希望をもたらす為でもあった。
どんどん加速する瘴気は魔物を次々に生み出し、人々の絶望は日々広がってゆく。そんな中、光の子は産み落とされた。
「……どうして彼だったんだろう」
光の子は、私の恋人だった。
異世界から魔王討伐の為の勇者となりうる者が呼び出されたのは約2年ほど前である。当時、自分と同じようにこの世界へと落とされた人間に関心はあったものの、私とは違い手厚く保護させているであろう招かれた者の機微を知るまでには至らなかった。
ようやく彼の存在に気付けたのは、英雄達の帰還の朗報が世界中を駆け巡った時だ。僅か、今から一ヶ月程前の事である。
一躍時の人となった英雄達の似姿が出回り、中に良く知る人物の顔が描かれていた時には、魔王に事の真相を詰め寄った。そして、その口からは事も無げに彼の事が語られた。
「災厄よ、あれは篩にかけられて選ばれたのではない。億の中からの一ではなく、唯一であったのだ」
分かっている。
そして私は彼を呼び寄せたものに迂闊にも足を踏み入れ、運悪く巻き込まれてしまったのだという。異世界は突発的に入り込んだ不穏分子を災厄という形に変えた。
「今見て分かった。この世界は彼も変えてしまったんだね」
彼は少年のように無邪気に笑う人だった。
よく笑って、怒って、泣いて。どちらが歳上なのか勘違いしてしまうくらいに自分の感情に正直な人で。呆れてしまう事も沢山あったけれど、それ以上にお日様みたいな彼が大好きだった。
「……あんな顔、はじめて見た…」
パレードは既に下を通過し、此処からは彼等の背中しか見えなくなっていた。
黒の英雄と呼ばれる彼を思い出す。
感情という感情を削ぎ落とされて、残っていたのは精巧な能面のようであった。無表情とは違う、そんな生易しい表現では例えられなかった。
「…あの人には、いつだって笑っていて欲しかった…!」
いつだって、私はあの笑顔を守りたかった。大好きだった。
だからこの世界に落ちてきて一頻りボロボロになって咽び泣いた後、悲観する事は止めた。待っている人達がいた。
歯を食いしばって、汚水をすする気で生きてきた。尊厳など無いに等しかった。でも日本にいる大切な人達を思い出せば、全てがどうって事も無い事だった。
特に、恋人が気がかりだった。自惚れじゃなく、私の事が死ぬ程大好きだった彼の事だから、今頃泣き腫らして御飯を食べれていないかもしれない。そう思っていた。
一刻も早く日本に帰る事。彼の存在に気付くまでは、私の中を占めていたのは一つだけだった。
「魔王、彼を守りたいの」
懇願だった。
ただ災厄であるだけのちっぽけな私では、今の彼の前に姿を現わす事さえ出来ない。それはお互いの破滅を意味していた。
御門違いなのは分かっていた。分かっているけれど、この世界で唯一言葉を交わせる魔王に縋るしか無かった。
あの時誓った涙は、再び決壊したように溢れ出た。悔しくて、悔しくて、声だけは押し殺して泣いた。
「ならば災厄よ。力が欲しいか?」
顔を上げれば、相変わらず静かな瞳が私を捉えていた。
「……ちから?」
「そうだ。私の一部をお前に受け渡す。さすれば、人を凌駕する力が手に入るであろう」
ぶるりと背筋が震えた。
彼を守る糧となるのなら、どんなものでも縋り付きたかった。
「…それは、どんな力なの?」
「はて、それは私にも分からない」
膝を抱えて、魔王は小さく小首を傾げた。胡乱げに私は目を細める。
「分からないって、マオーの力でしょう。何で分からないの」
「そもそもの概念が違う。力とは個々に潜在する根源なのだ。お前の言う力とは、其々の体内で変化させ伴った形で外に放出したものの事だ」
「つまり?」
「私が植え付けるのは先に述べた根源の部分。力がどのような形となって身体に定着するかは全てお前次第となる」
「……使えないようなカスみたいな場合もあると……」
「逆もまたしかり」
まるで博打のような提案だ。魔王の力の一部を貰っておいて、しょっぱい力にしかならなかったら随分落ち込むと思うよ私。
「使えない魔王様ね」
「……使えない……」
魔王は珍しく、ちょっぴり傷ついた様に見える表情で言葉の意味を咀嚼している。
「冗談だよ。これでもいつも助けて貰って凄く感謝してる」
「私は摂理の元動いているまでだ」
少しかがみなさい。
言われるがままに魔王の前へとしゃがむ。細くしなやかな指は私の額に触れた。じんわりと温かくなった後、私の鼓動は一度大きく高鳴った。
ドクン。
確かにその時、私の中に何かが落とされた。
「もうお前の一部となった。使い方はいずれ分かる」
今更、少しの緊張が走った。
この力が私にとって過ぎた力になりませんように。願わくば、彼を守る優しい光となるよう。
胸に手を置き、深く息を吐き出した。
「貴方に伝わらないと分かっていても、これだけは言わせて。本当にありがとう。この世界で唯一の友達だって思ってる」
彼はただただ私を静かに見返した。
「だから、マオーの望みは必ず私が叶えるから」
魔王の存在するただ一つの理由。自身の終わりを迎える事こそが彼の全てであった。
「必ず英雄達を貴方の元へと連れて行く」
一人でいるにはあまりに孤独すぎる極寒の地。
魔王の身体が眠る場所へと。
「しかと聞き届けた。お前たちを待っている」
災厄という運命を背負って、今ようやく私がどうするべきか分かった気がする。
魔王討伐の道標が私だったのだ。
「でもね、マオー」
空は青く澄み渡っていた。瘴気が世界を覆っているのが嘘みたいに。
雲がゆったりと流れてゆく。不思議と、私の気持ちは穏やかだった。
「私は、あなたにも笑っていて欲しいって思うよ」
いつかあなたに終わりを届ける私だけれど、それまでは。
「……そうか」
街の群衆は散り散りになり、いつもの街並みに戻っていった。英雄たちは王城で暫しの休息を得た後、また旅立つのだそうだ。
魔王の意識体は既に消え去っていた。本来の器の中へ戻ったのだろう。 また次会えるのは、そう遠くはない先のはず。
心を殺してしまった愛しい恋人と、この世界の端に眠るただ一人の友達を想って、私は空へと旅立った。
シリーズとなっております。
時系列
1、彼は勇者 私は災厄
2、彼女は災厄 俺は勇者
3、暁の魔王の子守唄
で完結となります。