尋司
月緒は勤めの帰りひろしに会った。
ひろしは、疲れていた。寂しさに疲れたと言った感じ。
「いま抄子ちゃん、うちにいるよ。その内顔出してよ。兄さん。」
チェーン店舗の居酒屋にはいって、二人とも梅酒を頼む。酒には強くない。月緒はしっかりシーザーサラダを食べてから梅酒を飲んだ。
ひろしはぐぶぐぶと酒をあおる。
「兄さん。」
「月緒。かおるはどうしてる。澄江と同じ病気になったろう。一日中寝てたりはしないか。」
「そんなことはないよ。初めの頃は辛そうに布団で寝たり起きたりだったけれど。今はウチの主夫だよ。」
ひろしはめがねを外して笑い出した。個室で良かったと月緒は思った。
「澄江は違うんだよー。辛そうなんだよー。別に家事なんて完璧じゃなくて良いし、甘えてくれればいいのに。大丈夫大丈夫って、大丈夫じゃないじゃん。これは、俺が、遠回しに拒否されているのか。俺なんか、家にはいらないのかな。抄子も俺のことが嫌い。もう、俺の居場所はない。」
月緒はひろしの隣に座って、ひろしのネクタイを緩めジャケットを脱がしてやった。
シャツは襟元も綺麗。アイロンも効いている。
「兄さん自分で家事やってるの。」
「できるさ、もとは一人暮らしだったんだぞ。」
「抄子ちゃんさ、聞いてたよ。ウチで餃子やったんだよ。懐かしいだろ。餃子だけをおかずにしてご飯を食べるの。」
ひろしはにこにことして聞いている。
「お父さんはこれが良かったのかなって。十個食べたかったのかな。ウチのやりかたじゃイヤだったのかなって。」
ひろしは鼻を押さえて下を向いた。
「抄子ちゃん。かわいそうだよ。澄江さんもさ、病気だから仕方ないとは言え。二人はもっと穏やかに過ごさないと。抄子ちゃん精神科の薬飲み始めたよ。」
「えっ、抄子が、病気なのか!?」
酔いも醒めたらしいひろし。月緒につかみかかったままもたれている。
「いやいや、思春期だからむずかしくて、薬に頼るらしい。すごく繊細だものな抄子ちゃん。」
「ああそれは、ずっと澄江にべったりなせいで、俺のせいだ。抄子、バランスが悪いんだよ。」
チキン南蛮を月緒は食べた。月緒は酒に弱い自覚から、空腹に酒を飲むことを避けている。烏龍茶も飲みながら、酒を飛ばす。
ひろしは弱いのに酒ばかりを飲んだ。
帰りは仕方ないから自分のところにひろしを運ぼうと思っていた月緒だが、ひろしは意外にもはっきりと、自宅に帰っていった。
灯りの点いていない家を見て月緒は胸が痛い。ひろしが可愛そうに思えた。
ひろしは玄関口で両手を広げ、高く腕を夜空に掲げた。
「なあ月緒。灯りが点いていなかったら、自分で点ければいいんだよ。人生も自灯妙って言うだろう。俺はもっと強くなって、家の女どもを待っているんだよ。ここで。」
「ああ。」
澄江は病気があるし、ひろしのことで強く言えないしなあと月緒は思う。
だけれど弟として、こんな兄の姿は哀れすぎる。
澄江さん、もうちょっと入院とか我慢できないか。ふつうに主婦業をこなすのは無理なんだとしても。夜は灯りをつけて、ひろしを迎えてほしい。
ひろしに誘われて月緒はひろしの家でビールを飲んだ。つまみにイカを焼いた。
リビングから月が見える。
「風呂沸いたぞ。今日は泊まれ月緒。」
「いや、帰るよ。」
家の中は生活感はあるが荒れてはいなかった。キッチンでマカダミアナッツの瓶詰めを見つけた。不完全ながらも、ここが澄江のグラウンドホームなんだ。ひろしがマカダミアナッツなんて知ってるもんかい。
タクシーを呼んでいるあいだ、両親の話をした。
「また調整でヒト月、自宅で過ごさせるって。それまでには抄子ちゃん、帰ってもらわないと。」
尋は少し考えていった。
「抄子には両親の姿を見せた方が良いかも知れない。」
「兄さん。」
「精神科を軽く考えちゃダメだ。澄江も、治すなら治すで徹底しなきゃ。こうなるんだぞって。まじめに頑張って生きていても、病気だからこうなることもあるって。分かって良いはずだ。」
「兄さん。抄子ちゃん、いま難しい時期だよ。ここで治らなかったら本格的に病気になるらしいよ。」
月緒が帰ったあと、ひろしは風呂に入り、テレビを見た。
テレビでは精神病のことはやらない。国営放送をのぞいて。障害者がテレビに映るときは、必ずと言っていいほど、身体障害者。あとは知的障害も自閉症もまるでこの世に存在していないかのようだ。
ときたまやる障害者がテーマのドラマだって、綺麗事に作りすぎだ。とても見ていられない。
ひろしにとって、恋愛も、家庭を持つことも、統合失調症への理解を深める行為だった。それでよかった。ひろしが愛したのは澄江という、統合失調症者だったのだから。
それなのにいつのまにか、澄江が普通に出来ないことが苛立つようになった。ふつうの奥さんなら出来ることが出来ないことに疲れてしまう。
なんで、どうしてとひろしが怒鳴ると、アイロンのかかっていないひろしのワイシャツに澄江は焦ってアイロンをかけようとする。
「いいー。いいよっ遅刻すんだろっ」
邪険に澄江を振り払う。澄江は逆らわずに目を大きく開いて呆然と立っていた。
分かってはいた。澄江が朝起きられないのを。夜は薬が強くてなにも家事が出来ないのを。
そんな様子を高校生だった抄子は穴のあくほど見つめていた。
見せちゃいけないものを見せていたな。これで抄子は男嫌いになっているかも知れない。
男は自分勝手だ。わがままで、他人を思いやれない。自己中。だなんて思っているかも。