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海と精霊の娘2 魔女の翡翠の城

その夜、長いこと夜風に当たって冷え切っていたライラを気遣い、管理人夫婦は熱く心地好い湯を用意し、生姜の入ったミルク紅茶をその後に出してくれた。

「これで風邪なんて引きませんよー。いいえ、うちの住民にそんなもの引かせられませんよー」とのんびり笑ったリディーシュドゥアーの言うとおり、おそらく翌日病にかかる心配はないだろう。しかし万が一にもという事をきつく言われたライラは、早めにベッドの中に入ることにした。騎士たるものレディのお誘いに熱を出していけなくなることなどあり得ないとクシェルが言ったのだ。

結局ライラにつき添うようにクシェルも同じ時間に眠ったが、残された双子はなかなか寝付こうとはしなかった。

そんな双子を相手にルスが、管理人夫妻が貸してくれた「この地方に昔からあるカードゲーム」をしようと誘ったのは、月の光だけが静かに降り注ぐ時間帯の事だった。

こう言った勝負事にいつでも強いのは誘った当人だったが、今回はリリエルがここぞという時の勝負強さを見せて勝ち続けていた。最初はやり方に戸惑っていたようだが、コツをつかむと初心者とは思えないゲーム運びを展開したのである。

リリオンはこう言ったことには興味がないのか、遊びながら「僕は農場を経営するゲームの方が好きだな……」と呟いたが、ルスは彼らのゲームを運ぶ「手」を見ながら、あることを確信した。

「リリオン王子、リリエル王女」

呼ばれた双子は手を止めた。ルスがこのように改めた、正式の呼びかけをしてくることはめったにないことである。

「あなた方はこのゲーム、いえ、このゲームのもとになったゲームを遊ぶのは、初めてではありませんね?」

「そうだよ」困惑している妹の手を安心させるように握ってやりながら、顔色一つ変えずに落ち着いて答えたのはリリオンだった。「まあ、僕はあまり興味をそそられるゲームではなかったから、十人並みの腕しかないけれど」

ルスは目の前に仲良く座る双子の兄妹を改めて見遣った。まず目を惹いてやまないのは、鴉のぬれ羽色のつややかな黒髪と雪のように白い肌、そうして見るものを吸い込むような魔術めいた鳩血色の瞳だった。高い頬骨、華奢で繊細な、少し力を加えれば折れてしまいそうな小柄な骨格。妹の柔らかさを帯びたまろみやかな身体を包む曲線と髪の長さだけが、性別の違いを物語っていた。彼らは、現代を生きる人々とは、同じようであまりにも違う身体の構造をしていたのである。

「このルリーンはあなた方の故郷なのですね」

ルスは柔らかい笑みを浮かべてそう言った。咎める口調などではなく、目の前にいる数奇な運命を背負う友人に対する、心からの気遣いと敬意に満ちた言葉であり、口調であり、表情であった。

この双子と出会ったのは、ここから遠く離れたある遺跡を探索していた時のことだった。その遺跡は遥か昔に人々を恐怖と絶望に陥れた、暗黒と狂気の神の遺産が眠る遺跡であった。遺跡の奥で眠る遺産の一つこそが、棺の中で手をつないで胎児のように眠っていた、この双子なのである。

おそらく数万年もの長い眠りに就いていたこの双子を起こしたのはライラだった。いつもなら彼の軽挙を舌打ちしながらでも咎めるルスだが、あの時彼が行った行為は、今にして思えば心から讃えてもいいものだと思う。そのおかげで、彼らは何物にも代えがたい友を得たのだから。

「あなたが考えているように」リリオンは言った。

「僕らは数万年もの遥か昔に滅びた古代セルシャール帝国の正統なる後継者であり最後の血脈なんです。あなたも知っているある理由のために、長い眠りについたのちに目覚めたにすぎない。

このルリーンはかつてセルシャールの領地の一つだった。こんな小さな田舎の町が、今でも貿易の要所として栄え盛大な市が催されているのは何故だと思いますか? かつて広大なる勢力を誇った帝国の首都のすぐ近くにあった、貿易の要所だったからなんです」

「別に私は……」ルスは言った。白い陶器のカップに入った暖かいジャムの入った紅茶に、優雅を額縁に飾ったような仕種で長い髪を払いのけ、口づけてそれを少しだけ飲んだ。

「あなた方が故郷に帰ってきたことに関して何か言いたいわけではありません。……ただ、気をつけてくださいね。あなた方に言うまでもなく、セルシャールは暗黒の魔術の栄えし夜の絢爛たる大国だった。あなた方自身がそうであるように、その魔術の遺産があちこちに眠っているでしょう。善きにつけ、悪しきにつけ」

「だからこそ、わたくしたちは行かなくてはなりませんの」

リリエルが清らかな水辺のようにけがれない、純粋な声で言った。その声は、かつての王女としての誇りに満ちていた。

「そうでしょうね」ルスはただ頷いた。その繊細な長い指は、決着のついたあとのカードの墓場をきれいに片づけ始めている「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

双子の声が重なった。その声は教会の聖歌の様な響きを奏でた後に、夜の闇の中に溶けて、消えた。


一行が魔女と呼ばれた娘であるシェリンドラの小さな城に顔を出したのは、遅い夕暮れ時の事であった。貸住居の子供たちに勉強を教えるなどしていつもと同じように午前中を過ごしていた彼らのもとに、翼ある黒猫が招待状を携えてやってきたのだ。こちらの人数を知っているかのように、きっかり四枚。招待状からはかすかな花の香りが添えられていた。勿忘草の花だった。

招待状には、身一つで構わない旨と、ぜひ一晩泊ってほしいとの旨が丁寧にしたためられていた。ライラたちはそのつもりで、失礼にならない程度の、質は良いが簡素な服に身を包んで城を訪れた。

残念なことに、天候はあまり良くなかった。快晴の時にはどこまでも澄み渡るのだろう紺碧の海も、どこか憂鬱そうな波を立てて寄せては返している。

城はむき出しの崖の上にたたずんでいた。翡翠の岩石と珊瑚で形作られた重厚で古めかしい刻まれた歴史を感じさせる雰囲気のある物静かな城であった。見上げれば、海を眺められる踊り場が目に留まる。

重厚な翡翠の扉には双頭の鷲のレリーフが刻まれていて、ライラたちが近付くと音を立ててひとりでに開き、彼らを迎え入れた。

「ようこそ……。お待ちしておりましたわ」

ドアを開けてすぐの広間に、この城の女主人である少女がゆったりと椅子に腰かけて待っていた。シェリンドラだ。

彼女は立ちあがって優雅にお辞儀をすると、安心したようににこっと微笑んだ。翡翠色の壁に映える淡いサフラン色のドレスが、細い肢体を包んでいた。

「心配していましたの。来てくださって本当に嬉しい」

「お招きくださってありがとう」

ライラはよどみない仕種でお辞儀を返した。

シェリンドラは頷き、シャンデリアと燭台の蝋燭が輝く中を足音もないほど軽やかに歩いて、一行を円卓の置いてある部屋に案内した。ここで食事をするということだろう。この部屋に来るまでの間、ライラは失礼にならない程度に城の構造を観察した。やたらと扉の多いことが気になる。つまり、部屋が多い構造なのだ。城というのはどれも似たようなものではあるが、まるで迷路のようだな、とライラは思った。

「お恥ずかしいことですけれど、料理をするのも久しぶりなのです。いつもは魔法で済ませてしまって……。でも、魔法の料理って、美味しいんですけど、なんだかとっても味気ないんですよ」

そう言って円卓に腰かけたシェリンドラは少しだけはにかむように微笑った。

料理を運んでくるのはネズミのメイドであった。沢山のネズミがきびきびと料理を運ぶ様は賑やかで、ちょっとしたカーニバルを見ているようだった。実際、リスや猫と言った小動物たちが楽団を結成して食前に音楽を奏でてもいた。料理の数は決して多くはなかったが、どれも手作りなのだろうという事がそのために判る。それが魔法ならば、いくらでも食事を供することが出来るはずだからだ。

女主人であるシェリンドラがまず挨拶をしたので、ライラたちも自己紹介を兼ねた挨拶をする。普段こう言ったことは詩人であるルスが引き受けてくれるのだが今日は居ないので、クシェルが代わりに行った。双子はこういう場所では普段から口数の多い方ではなかった。今日は尚のことである。

「彼はライラルスウェン。エルフの国シアルファの神官長フリオール殿の次男です」

「まあ」シェリンドラは嘆息した。「エルフの国の神官長は、<女王(レイディ)>の従弟だと聞き及んでおります。では、ライラ様は、王族に連なる方でしたのね」

ライラは曖昧に頷いた。確かに彼の父は<女王>の従弟であり、母は優れた姫巫女だった。ライラは自分の生まれを疑ったことはないが、王族であるという自分の身分が、時にひどく不似合いなように思えることがあるのだ。

「私はクシェル。彼の幼馴染で、両親が決めた婚約者です。でもそれ以上に、私は騎士なので、彼の最大の守護者なのだと思っています。」

クシェルは続けた。

「こちらの兄妹はリリオンとリリエル。一目でわかるとおり双子です。そして、不思議なこととお思いになるかもしれませんが……彼らは古代に栄えた王国の忘れ形見なのです」

紹介された双子は、静かに頭を下げただけだった。その仕草はごく自然な物であり、加えて流れるように上品だった。それが、先程の紹介が事実であることをなによりも物語っている。ライラはシェリンドラを見遣った。彼女はとても驚いた表情を浮かべて、特に双子の兄であるリリオンの顔を眺めていた。二人の視線が瞬間絡まり、シェリンドラのスミレ色の瞳がわずかに紅色に染まるのを見た。リリオンの鳩血色の瞳をその、大きな双眸に映しているのだろうとライラは思った。

「驚いたでしょう?」ライラはシェリンドラを気遣うように言った。

彼女は声をかけられたことに驚いたようだが、すぐに小さく笑って頷いた。楚々とした野の花のような仕種であった。

「……ええ、とても…………。不思議。こんな不思議な事って、本当にあるんですのね」

「俺もたまに不思議に思いますよ。彼らはつまり、生きた化石みたいなものですから」

「まあ!」その言葉にリリエルが、明るく、それでいて非難めいた声を上げた。子供の歓声のように無邪気だ。「そんな言い方はあんまりだわ!」

食卓を穏やかな笑い声が包んだ。それが食事を終える合図ともなり、シェリンドラは客人にハーブティを淹れて出した。珍しい白薔薇茶だった。

「中庭でお花を育てるのだけが、慰みですの。特に白い花が好きで……百合とか、薔薇とか、鈴蘭とか、オリーブとか……」

ライラは差し出されたその薔薇の茶を見た。香り高い甘美な湯気が鼻をくすぐった。大切に育てられた花なのだろう。ライラは、シェラハッドの言った言葉を思い出していた。「薔薇の花にもお気をつけなさい……」

それでもライラは、そのお茶をゆったりと口にした。心の安らぐ味だった。母上や父上が好きかもしれないなと、そう思った。

食後もしばらく、他愛もない話が続いた。シェリンドラは一人でこの城に住んでいる割には世の中の動向に詳しく、話し相手としては申し分のない教養も備えている。

楽しい時間は瞬く間にが過ぎ去り、その場はお開きとなった。小さい部屋しか備えていなくて個室になってしまうが、皆様には申し訳在りません。シェリンドラのその言葉に、ライラたちはとんでもないと首を振った。クシェルが言う。

「彼らとはいつでも一緒なんです。たまの事なら、大歓迎ですよ」

双子とクシェルが先にその場を後にした。二人っきりになったその場で、ライラが言った。蝋燭の小さな炎がゆらゆらと揺らめき、夜の部屋を照らしている。

「楽しかったです。あなたもそうだと良いのだけど」

「とても。こんなに楽しかったのは本当に久しぶり」

「善かった。……余計なお世話ですが、貴女は悲しそうだったので。その美しい顔には何よりも似合うかもしれないけれど、やっぱり笑っていた方がいいですから。俺はそう思います」

そう言って、ライラはシェリンドラの瞳を覗いてにっこり笑うとその小さな白い手をとり、そっと口づけた。

「おやすみなさい」二人の声が重なった。


用意された部屋に帰ってから、ライラは何よりも先にベッドにその身を投げ出した。一日中色々な事をしたので、疲れが一気に出たのだろう。肌身離さず身につけている忌まわしい邪神のアーティファクトの硬質な冷たさが、今はむしろ快かった。

だから、心地好い眠りが襲ってきても、ライラはすべてを受け容れて、その眠りへと身体をゆだねたのであった。


シェリンドラはハッと目を覚ました。

辺りを見渡すと、そこは見慣れてしまってもはや何も感じることのない、豪華な調度のあしらわれた自室であることに気付いた。自分の部屋に戻った後、どうやら少しだけ眠っていたらしい。

シェリンドラは立ちあがって、すぐ脇に置いてある鏡台の上の鏡を覗いた。銀色の長い髪に、大きなスミレ色の瞳。それはまるで怯えた子猫のように、鏡の中の自分を覗いていた。

彼女は不安だった。美しい顔、と彼は言ってくれた。しかしシェリンドラは自分の顔があまり好きではなかったのである。

小さい頃から、おとなしくて引っ込み思案だった彼女は、内向的な性格であった。大きくて神秘的で綺麗と言われたその瞳で、いつもおどおどと周囲をみていた。この大きすぎる瞳も、なんだか自分のものではないように思えて、不思議な感覚で鏡を見ていた。

それでも確かに美しく成長した彼女は、その性格と相まって、男女問わず様々な嫌がらせの対象になった。どんな暴力を振るわれても、彼女は震えるだけで、おとなしくなされるままであった。そんな自分が厭でたまらなくて、強くなりたいと願い、魔術を学んだのも本当の事であった。

何故、こんな昔の事を今になって思い出すのだろう……? 彼女が感じたのは恐怖だった。あの瞬間、彼の瞳を覗いた時、こんな自分が見透かされているような気持ちになったのだ。そして、心の奥底にしまいこんでいたどろどろとした感情が溢れだす気がしたのである。

自分の顔を見ていることに耐えられなくて、彼女はテーブルに目を転じた。花瓶に挿してある一輪の薔薇と百合の花が目に留まる。大好きな花たちを見て、シェリンドラの顔がほころんだ。

この二輪の花は、昔あこがれていたある人との想い出にまつわる花だった。でもその想い出は昔の事過ぎて、とても大事な宝物のはずなのに彼女の胸の中でぼんやりと霧がかっている。

それでも、忘れないでいられることの暖かさがあれば、彼女はいつまでも生きていけるのだった。

その時、扉をノックする音が唐突に聞こえた。彼女はびくりとその細い身体を震わせ、反射的に近くに置いてあった短剣を握り締めた。それから、今日は久しぶりに自分以外の、客人がこの城に泊っていることを思い出す。

「はい」

彼女は恐る恐る扉を開けた。そうして、訪ねてきた人物に目を見開いたのだった。


ライラは、大理石のひんやりとした感覚を肌に感じて起き上った。

身体が重い。何か魔術的な力がこの場を包みこんで、有無を言わさず押さえつけられているような、そんな感じだった。ライラは無意識に、首からかけている禍々しいアーティファクトを指でまさぐるように愛撫した。よかった、これには何事もないようだと、彼は安心して息をついた。

彼が自身の置かれている状況を確認したのはそれからだった。

そこは彼が最後に意識を手放した、あの客室ではなかった。白乳色の大理石の床が広がる、広い部屋だ。薄暗く、扉はおろか出口らしいところは何一つない。つまりライラは今、牢獄とも言うべき部屋の中に閉じ込められているのだった。

おそらく、あの白薔薇茶は口をつけた者を操るための触媒が入っていたのだろう。お茶というものは飲んだ人物の本質を引き出すのには最高のものであり、ライラもそれを承知の上であのお茶を飲んだのであった。

自分が自覚して飛び込んだ状態ではあったが、だからと言ってこのまま閉じ込められているつもりはこのエルフの青年には毛頭なかった。彼はこの強大な力場が織りなす牢獄の中をゆっくりと歩きまわった。そうしてわかったことは、この場所がかなり強力な魔術によって抑えつけられているということだ。背景に、何か古くよくない神の存在が感じられる。そう考え至った時、ライラは自分がこの場所から抜け出せる方法を持っていることに気付いた。そうして苦笑いをする。それだけは、たとえ何があってもしたくなかった。

「ここから出ようとしているの?」

 部屋の中から声が聞こえ、ライラは身構えた。今までだれかがいる気配には、全く気付かなかったのである。声はそのようなライラの様子を見て楽しげに笑った。それは、美しく魅惑的な、低い女の声であった。

見れば、ライラのすぐ近くには女が立っていた。その女性を見て、ライラはそのアイスブルーの瞳を驚嘆に見開いたのであった。

鮮やかな、燃えるような薔薇色の波打つ髪が強烈な印象を与える美女だった。大きい二粒の翡翠色の瞳が、褐色の肌によく映え、猫のように輝いている。細いラインを描く身体を、薄布が完璧に覆っていた。露出している個所などなく清楚で神秘的な女性の雰囲気がありながら、それが薄布であるがために何も身につけていない豊満な胸や尻や腰のくびれがはっきりと見ることができ、そのにおい立つ彫刻のような造詣の肢体が、たまらなく扇情的だった。

「これはこれは」ライラは、青年らしい内心の動揺を抑えながら言った。「こんな美しいマダムに気付かなかったなんて、俺もどうかしているな」

女はにっこりと笑って、そのほっそりとした腕をライラの頬に添えた。外見の年齢でいえば、成年に達して間もないライラよりも八つほど年上かというような女性である。

「誰かにあうのは本当に久しぶり」

「あなたは、ずっと此処に?」ライラは訊いた。

「ええ、そう」

 女は頷くと、ライラの頬を両手で挟み、そのままその薔薇の花弁のような唇で唇を覆った。好きなようにさせていたライラも、さすがにそれには驚いて思わずぎょっとした。

「マダム、いきなり何するんですか」

「これは失礼。いわゆる性格とか、癖というか、習慣なので、気にする事はないわ」

「それなら仕方ないですね」

ライラは前日辺りに自分が似たような事を言っていたことを思い出して苦笑した。そう言えばこの女性の瞳は誰かを思い出させるが、それが誰だったのかは思い出せない。

ライラは、女の腰のあたりを優しく抱きしめた。女がその身体をなお寄せてくる感覚を感じる。確かに、このむやみに広い牢獄の中では、こうして寄り添っているほうがずっと心強いのだろうと思ったのだ。

「あなたの名前は?」

「シェレハンナ。シェレーニと呼んでおくれ」

「シェレーニ?」ライラはその言葉に眉を上げた。「薔薇と炎の娘と言われた、女王シェレーニですか?」

 シェレーニは頷いた。ライラの胸に、薔薇色の髪が零れた。

「ええ。わらわの名前を覚えてくれているの? では、まだわらわの王国は存在しているの?」

「残念ながら」ライラはそっと呟いた。「俺があなたを知ったのは、昔話とか、伝説の中においてです」

「ああ」シェレーニは嘆息した。「わかっているわ、わかってる。でも、嬉しい。伝説になっても、覚えてくれている人がいるって」

「シェレーニは、俺の憧れの女性だったのです。美しくて、強くて、とても冷たい女性だった」

「そして残酷だった。そう伝わっていない?」

ライラは頷いて、答える代わりに今度は自分から彼女に口付けをした。そうして改めて彼女を見遣った。

その美しく燃えるような美貌から、薔薇と炎の娘と言われた女王シェレーニ。セルシャール帝国とともに栄えたもう一つの王国の女王として、その名をあまねく知られていた。

最上の美貌と魔術の才を持っていた彼女は、それを得るために神々と取引をした、欠けたるところのない女性だったと言われている。その存在そのものが、気まぐれな神の愛した芸術品だったのだ。そのために、彼女はこの世の栄華のすべてを手中に収めた。多くの贅沢と、名誉と、恋人と愛人に囲まれ、時に獣と共寝し、またその多くを処刑した。そうして、新たな愛人を探す旅の最中に、忽然とその姿を消したと言われている、謎の女王だった。

「俺は、あなたみたいに冷たい女性って、たまらなく好きなんです。でも、あなたに惹かれたのは、あなたが完璧すぎて、刹那的過ぎて、おそらく自分一人しか、愛していないさみしい人だったからじゃないかって、思ったからなんです」

ライラは言った。幼いころの自分も病弱で、友達と呼べる者がいなかったことを思い出す。状況は違うが、孤独というものは耐えられないものだという実感が彼にはあった。

「でも、今ではここから出ることもあたわず、ただ朽ちて行くばかり。あなたの言うとおり、わらわは、そう、傲慢だったの。昔、シェロンという、その世においては何事においても優れた、当代一の騎士がいた。彼はわらわに求婚した。しかし、欠けたるものなきわらわには、男の愛など邪魔なだけだった。だから彼を処刑した。そうしてわらわを満たすのは少女だけと思って、ここに住むという美しい少女を求めた。共に過ごすうちに、わらわたちはお互いを必要とするようになった。しかし彼女がわらわにその愛を告白してきたとき、やはり傲慢だったわらわは、少女の愛すらも恐ろしく邪魔なものだと感じた。しかし、彼女の術はわらわのそれをしのぎ、わらわは裏切りの代償として、ここに閉じ込められたのだ」彼女は続けた。「今にして思えば、なぜシェロンの愛を、シェリンドラの愛を断ったのだろうと思う。彼らの愛には、何一つ非難されるべき所などはなかった」

「愛することよりも、愛を受け容れることの方が、時に何倍だって難しいですよ」

ライラは乱れた彼女の髪を指で直しながら、そう言った。話を聞きながら今では彼女に、欲望ではない愛着を感じていた。憧れの女性としてではなく、一人の女性として彼女の事が好きだった。ライラは少し疲れたように笑って、言った。

「話はわかりました。レディ・シェリンドラは伝説の魔術師としても名高かったあなたでもかなわない魔術の使い手であり、あなたですら彼女が作りだしたこの牢獄から逃げることはできない」

「彼女の背後には暗黒神の残り香を感じる。しかし、方法がないこともない。つまり、因果律を変えればいいのよ」

「因果律だって?」ライラは、この世で一番聞きたくない言葉を聞いたかのように、顔をしかめた。手は無意識に、彼の魂とつながり一部ともなったアーティファクトに添えられていた。「そんなことは無理だ」

「嘘吐き。あなたは出来るはずよ」シェレーニの声は鋭かった。

「出来るからと言って、命に代えてもしたいかという事にはなりません。それに、あなたが死ぬことになりますよ。因果律を書きかえる代償は命なのです」

シェレーニはその言葉を聞き、弾けるように高い声を上げて笑いだした。その声は冷たく、身も凍るような凄惨さを備えていた。

「わらわはもはや死人なの。今あなたが見ているわらわだって、幻に過ぎない。わらわの、高すぎるプライドが本来の姿をあなたにみせるのを拒んだだけ。本当は、干からびてしまったよぼよぼの、骸骨みたいな女なのよ」シェレーニが言った。「そう、まるであなたが共に過ごしている、裏切りと魔術を司るあの邪悪な神様みたいに」

「いやだ」シェレーニの鋭い緑色の凝視に、ライラが後ずさった「彼の名前を口にしないでくれ」

 ライラはその瞬間、時に彼の守護者であり、悪友でもある、しかし最高に禍々しい存在である邪神のことを考えた。誰も彼の名前を大声で口にすることを憚る、死と魔術と裏切りの神。大きな虚ろを映した目と手が印象的な、骸骨のような老人。

ライラは、正直言えば彼の事が嫌いではなかった。この神が、邪神と言われながらこの世界を愛しているのではないかと、ライラだけが思っていた。しかし、あの神をとても恐れているのも事実であった。彼はライラの身体と魂に巣食い、利用し、やがてライラという個性を乗っ取り、亡き者にしてしまうのではないかと思っていたし、彼の傍にいることでライラの本質や人間性が変化し、その魂が変質してしまうのではないかと恐れていたのだ。彼の傍で過ごしていると、時に自身の本質をまざまざと見せつけられる。残酷で、被虐的で、人の裏切りと不幸を喜び、嬉々として人を踏みにじる。

しかし、魂の冒涜はライラにとって命のそれ以上の冒涜であった。たとえ生きていたとしても、自分が自分でいられないのなら、いったい何が残るというのであろう。それは死にも勝る苦痛なのである。

「そうやってあなたは自分からも世界からも目をそむけるの? ならばわらわがあなたの代わりに神様にお願いしてもよいのだよ。その名を囁かれる死と魔術と裏切りの神…………」

「やめてくれ!」

そう叫んだ瞬間、ライラはシェレーニの細い肢体に馬乗りになっていた。爪を立てて頭をつかむと、何度も容赦なく、力を込めて大理石の床に叩きつける。頭蓋骨がひしゃげる不快極まりない音と、脳漿と鮮血が白い床に散った。

そうしながら、シェレーニの瞳はそむけられる事さえなくライラを見ていた。気のせいか、その翡翠色の思慮深い瞳は微笑んでさえいるように見えた。その瞬間、ライラは自分がその瞳をどこで見たことがあるのかはっきりと思い出した。半ば錯乱し、肩で息をしてぐったりとした女の身体をつかんでいたライラは、救いか、あるいは許しでも乞うかのように、その名前を口にした。

「もしかして……俺が殺したのは君か、シェラハッド?」

ふと再び女に視線を向けると、そこにはあのうるわしい薔薇色の髪の女の姿はなかった。ただそこに横たわっているのは、もうほとんどミイラのように干からびている、背の低い、醜い老婆の死体であった。

ライラは恐怖を覚えた。それはまるで、彼に彼の神を思い起こさせたからだった。しかし恐ろしい感情を振りきり、ライラは老婆の手を取って、その目を閉じてやった。

しかしその瞬間、古の神の大きな眼にのぞきこまれるような感覚に身体が痺れて、そのまま意識を手放したのであった。

そうしてその場に残ったのは、醜い感情の渦に満足した、邪悪なる神の哄笑だけであった。


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