海と精霊の娘1 夜の消失
太陽の森のエルフの国シアルファの公子ライラルスウェンが、故郷を遥か遠く離れた森の街道を抜けて辿り着いた海岸の町ルリーンで、旅の仲間と離れて一人で市場に買い物に出たのは正后を過ぎて間もない昼間時であった。
ルリーンの町に十日に一度、七の日に立つ市場は非常に大きな規模を誇り、近隣諸国の魚や貝類はもちろん、遥か遠くの国の茸や山菜などの山の幸を商う店も多く並んだ。また、葡萄酒や麦酒やミルク酒や蜂蜜酒をはじめとする酒類に珍しい香料や塗料、美しい織物や布地や衣服、宝石なども並ぶ。魔除けや護符をはじめとする少し妖しい魔法の品にも事欠かなかった。ルリーンは小さい町であったが、とにかくここに集まらぬものはないと言っていいほどにその市は盛況であった。
ライラがその市を歩きながら探し求めていたのは、今夜の夕食の食材であった。彼も料理をしないことはなかったが、これは自分で作るための食材を買いに行くのではなかった。いわゆるお遣いというものだ。
それでもいつも料理を作ってくれている連れとの別れ際に「今日は君の好きな物を作るから、心置きなく好きな物を購ってきてくれ」と言われていた。ライラの心は軽やかに弾むと同時に、錘につながれた海の船のように重かった。
何故と言えば、ライラの今食べたいものと言えばそのほとんどが甘いデザートだったのである。しかし、どう考えてもそれを皆の夕食にするわけにはいかないだろう。それを喜ぶのは、何よりもチョコレートと甘味が好きな亡国の王子のリリオンくらいだ。
結局ライラは異国の特産品が数多に並ぶこの市で、地元ルリーンの特産品であり初物でもある新鮮な牡蠣と野菜を購った。芸のない選択であると言われそうであるが、彼が今デザートの次に食べたいものが磯の香りのするクラムチャウダであったのだ。
午后1時を告げる教会の鐘が、太陽の眩しさにつられ、蜃気楼のようにぼんやりと鳴った。両親に言ったら穏やかな顔で窘められそうだが、この国が主神としてどの神格を祀っているのか、このエルフの若者の記憶からは綺麗に抜け落ちていた。それでも彼は昔からの習慣でそうするように、鐘の音を聞いて彼の信じる神である運命と時の神セラウィンリアに瞑目して祈りを捧げた。
夏の残照が照りつける秋の日だったからなのだろうか。目を開けた時に思わず、ライラのそのすらりとした長身がよろめいた。軽い眩暈を覚えたのだ。ライラの目の前で商いをしていた、黒い大きな瞳がかわいらしい若い娘が「大丈夫ですか?」と声をかけてくる。ライラはひらひらと手を振ってにっこりと笑い「ん、平気。ありがとうね、お譲さんも気をつけて」と言葉を返した。娘の白い頬が紅く染まるのを見てライラはかわいい子だなと思ったが、しばらく後には少女がどんな顔をしていたかすらも、その残り香しか思い出せなくなっていた。それほどまでに、すれ違う人の往来は多かったのである。
眩暈を覚えたこともあったのかもしれない。自分が健康そうな見かけに反して病弱と認識される類の人種であると自覚しているライラは、少し遠周りで昼間から薄暗い道を通ることになったとしても、人の少ない道を通って帰ろうと思い至ったのである。つまり、細道である裏のまじない通りを通って帰ろうと思ったのだ。あそこなら繁盛は夕方から夜だと聞いたので、この時間なら人通りもまばらであろう。
そう決めてしまうと、ライラはまじない通りに向かって歩きだしていった。
しかしやっぱり魔術とかまじないとかいうものは、自分にとってはどうしても親しくなれない知人の様な存在であるらしいと実感したのは、ライラがまじない通りに足を踏み入れてからいくらも経たないうちであった。
細く狭い通り一面に、麝香の様な甘く脳を痺れさせる香りや阿片や大麻の独特な香りが漂ってくる。軒を連ねる天幕や小さな店のそれぞれは全く統一性の取れていない毒々しい紫やオレンジなどの、鮮やかな色で装飾されてひしめき合っているし、見るからに怠惰と享楽を提供することが仕事の、官能的な生白い肌もあらわな娼婦や踊り子が客引きをしている。
この何処か退廃的な、隠者的な雰囲気というものが、ライラにはどうしても理解できないものの一つであったのである。
しかし夢の中の世界を歩いているかのように、この一帯は激しい残暑とは無縁であった。そこは冬のように冷たく、厳しい場所なのである。時間の流れ方が違うのだろうなと思いながら、ライラは求めてやまなかった涼しさの中で、心ゆくまで息を吸っていた。気だるい身体が、まさに息を吹き返すようであった。
ライラには魔術の才がなかったし欲しいとも思わなかったが、それでも彼と魔術にはいつでも不思議な縁があった。父親は神官であると同時に、高名な魔術師としての名前を各地に噂されるほど魔術に熱心であったし、彼の友人であり共に旅するリリオンも、誰よりも尊敬している吟遊詩人のルスも、魔術に親しかった。
そして何より彼自身、いかなる運命の悪戯か、裏切りと魔術の神であるとある邪神のアーティファクトを所持してしまい、この神である魔術師とは切っても切れない仲になってしまったのである。ライラが故郷を遠く離れた海辺の町で旅人として過ごしているのも、そのアーティファクトを安全に捨てるか、封印するための場所を探し求めているからなのだ。
しかし彼らの旅は何をおいても急がなければならないような切羽詰まった大冒険とは、少し様子が違っていた。名前を言うのも憚る裏切りと魔術の神は遥か昔にその存在を封印された古き神の一族であり、現在でその名前を記憶にとどめているものは少なかったのだ。信仰しているものとなれば尚更に稀であった。神とは信仰する人々がいて初めて人に干渉できるものだと父が言っていた。もちろん、神の中には人々の信仰を必要としないものもいるのだが、裏切りを糧とするこの神には、何よりも人々の心が必要だったのである。
口にしたことはないが、ライラ自身もこの神に対して奇妙な紐帯めいたものを感じていた。この旅の目的自体は間違いではないと心底そう思っているが、この旅の涯に何が待っているのかということについて考えるとき、ライラはなんとも言えないさみしさとも悲しさともつかないものを感じてしまうのである。そのことを考えると、ライラはむしろ自分が邪神の使徒になってしまうのも厭わずに何もかも投げ捨てたいような、そんな気分になってしまうのだ。
どうして俺だったのだろう? ライラは今となっては意味を持たない、何度となく繰り返してきた問いかけを心の中で反芻した。
その時のことだ「お兄さん。鷹の目のように紅い髪をしている、あなたですよ」と声をかけてくる少年の声があった。耳によく響く、銀の鈴のように涼しげで怜悧な声だった。自分の事だと思い、ライラは振り返った。
「まじない師の客引きかい? 悪くないね それとも俺に一目ぼれしたとかか? 俺そういう趣味はないけど、君ならキス位してもいいかもな」
ライラは人と接する時いつもそうであるように、少しおどけた陽気な態度で、わけ隔てなく呪い師の少年に答えた。
実際、ライラに声をかけてきた少年は確かにかわいらしい美貌の少年だった。年頃の娘が見たらため息をつきそうな、磨き上げた黒曜石のようにつややかな黒髪を、白いターバンで覆っている。褐色の肌に輝く翡翠の瞳には賢者が覗き込む湖のように澄んだ叡智が感じられた。白い衣服の胸から脇にかけてのあたりに緋色の糸で、塔の上に留まる鷲の刺繍が丁寧に施されている。何処だったか思い出せないが、由緒ある魔術師の組合に所属している証だった。
ライラは心からの敬意に目を少し見開き、それから穏やかな微笑みを浮かべた。
「これは失礼。未来の賢者殿に対して口が軽すぎましたね。癖なので気にしないでください」
「とんでもない」
少年はライラの態度にくすくすと笑って首を横に振った。低い声と大人びた優雅な挙措の一つ一つに反して、目だけは年相応の少年のように輝いていた。
「声をかけたのはこちらですから。それに、貴い方であるあなたとキスをするのも光栄かもしれないと思いますよ。なんと言っても……」少年の瞳が悪戯を思いついた猫のように輝いた。「娘たちが嫉妬して心乱れる様を見るのは、なかなか面白いかもしれません」
少年のその言葉に、ライラはにっこりと笑った。それから、弟を見遣る兄の様な眼差しを少年に向けて訊ねた。ライラには年の離れた兄がいたが、欲しいと思っていても弟というものはついぞ持てなかったのである。ライラは少年をじっと見遣った。少なくともこの少年は、このような猥雑とした薄暗い場所にいることが似つかわしくない、泉のように清廉で気高い雰囲気を纏っていた。ライラは彼に声をかけられたことで、また何処か次元の異なる世界に誘われてしまったのではないかという錯覚を抱いてしまったほどである。
「あなたと出会って一分くらいかな? 記憶をたどっても、この一分が俺らの最初の一分で、以前に共有した時間があった覚えがないのだけど……。ぶっちゃけあなたの様な方が俺に声をかける理由が判らないな。教えてもらえますか?」
「あなたの運命は面白い版図を描いていますね」穏やかな声で少年が告げる。ライラを覗き込む瞳は、海の底のように不思議なきらめきを放っていた。
「運命ね……」ライラはその言葉を、甘酸っぱい柑橘類を食べたような時の顔でゆっくりと反芻した。「そいつは、いつでも俺を悩ましてしかたない、魅力的なレディの名前だ」
今度は少年がにっこりした。
「せいぜいお悩みになることです。そんなあなたに私から一言忠告を贈りたいのですが、受け取ってくださいますか?」
「残念。運命という女神から仲介者を介して贈られる林檎は、贈り主の友情というおまけがないと受け取らない主義なんだ」わざとらしく肩をすくめて、ライラはそう言った。
「結構なことだと思いますよ。ならば望む以上のものをお付けして贈りましょう。……まずは、近づいてくる女性にはよくよく注意をなさることです」
その言葉に、ライラの秀麗な眉があがった。そうしてその湖のように透き通るアイスブルーの瞳は、鷹の様な鋭さを持ったのだ。ライラは訊いた。「それから? 俺は来るものは拒まない主義なんだけど」
「それからもう一つ。薔薇の花にもお気をつけなさい。それは、そうですね。愛ではなく、あなたの心という海の中に浮かぶ悲しみになりましょう。悲嘆に暮れているあなたが見えるようです」
「ありがとう。心にとどめておくよ」
それから、ライラはこの少年ともう少しだけ話をしていたいような不思議な感覚にとらわれた。そのためなら、多少の危険や不可解なことは覚悟しようと思ったのだ。その感覚に従うままに、彼は言った。
「何かお礼を。お茶でもどうかな。この街には来たばかりだから、案内は君がすることになるんだけど」
「おかしな方ですね。そう言う言葉は大切な女性のために取っておかれるべきではないのですか。それを抜きにしても、今回はお断りしましょう。その代わり、あなたの愛用している手作りの矢を一本いただけませんか? そうですね、一番心をこめて作ったものが好い」
「そんなもので好いんですか?」
ライラは思わず訊き返した。彼は弓に親しむエルフの中にあっても確かな腕を持つ射手であり、弓矢も自身で作ったものを愛用していた。彼にとってそれは息を吸うように自然で簡単なことであり、呪い師や予言者が対価として求めるものとしては安すぎるもののように感じたのだ。
しかし少年は「ええ」と頷いたので、ライラは背中の矢筒から、矢を一本取り出した。トネリコの木と高貴な鷹の羽根で作った、彼がもっとも愛用している矢の、その最後の一本だった。
彼はそれをためらうことも疑うこともなく少年に差し出した。
「さようなら、貴いひと」
少年は言った。その時、ライラは少年の瞳にふとした物悲しさが宿るのを感じた。それは少年が纏う彼の性格とか雰囲気とか言うもので、少年にとっては気にかけるべくもない些細な物であったかもしれない。しかしライラは気付いた時には、少年のその細い褐色の腕を引き留めていた。それは思ったより筋肉の付いた、猫のようにしなやかな腕だった。
「待って」ライラは囁いた。「そんな悲しい顔していると、本当に喜びたい時に、やっぱり涙が出てしまうって。せっかくの美少年がもったいないぜ」
少年がその神秘的な瞳を大きく見開いている間、ライラは少しだけ屈んで、兄が弟にするような親愛のこもったキスをその褐色の両頬に落とした。少年は年相応の幼さをその顔に宿して目を瞬かせて、自分の身に何か起こったかを考え、そうして半ば混乱したような顔を隠すように俯いた。
やっぱり、この少年は親兄弟や友人たちが何気なくするようなキスの一つもされたことがなかったのだ。おそらくは幼いころに両親に捨てられるかして、体よく魔術師の組合に入れさせられたのだろう。魔術師の組合は血筋による派閥をよしとしないので、捨てられた子を引き取り養育するのはよくあることなのだと父から聞いたことがある。
「あなたはすごい魔術師で、俺にはわからない方法で俺に友情以外のものをくれたのかもしれない。だけど、友情とか、誰かのために何かしたいっていう心は、こう言う触れ合いを通してでしか、生まれないんじゃないのかな」ライラは言った。「それと、もしよければ、あなたの名前を教えてくれよ。あ、偽名でも全然オーケーだから」
「シェラハッド」囁くような声で、少年はそう告げた。
それが偽名でもなんでもない少年の真の名であるということは、ライラにもすぐにわかった。
「ありがと、俺の名前も知りたい? 俺こんなに男前なのに名前は女の子だから、めったに本名は名乗らないんだけど」
「ライラルスウェン。知っています」これまた囁く様な声だった。ライラはにっこりと笑った。
「<夜>という意味の名前ですね。でもあなたは、まさしく太陽に向かって飛ぶ鷹の様な方だ」
その言葉は、ライラの中で不思議な暖かさを持ってこだました。ライラは瞬きをしたが、次に目を開けた時には、シェラハッド少年の姿はどこにもなかった。
あの、黒曜石の髪をした翡翠の泉を持つ少年は、俺がいつの間にか失くしてしまった思い出なのかもしれない。ライラは思った。
空を見上げれば夕暮れにさす一条のスミレ色の光が空にリボンをひいて踊っている。先程まで昼間だったが、どうやら不思議な魔法にかかったようだ。やっぱり魔術とは仲良くなれないなあ、とこぼしながら、ライラは急ぎ足でまじない通りを抜けようと歩いて行った。
その後ライラが仲間たちの泊っていると告げた宿屋に帰るために選んだ道は、海岸沿いにある森の小道だった。
木々に囲まれて見ることはできないが、海がすぐ傍にあるらしく、波の砕ける音が耳にまで届いてくる。潮のにおいが鼻をくすぐり、そろそろ食欲を掻き立てた。前方から何やら騒ぎが聞こえてきたのは、ライラが海の波に耳を傾けて鼻歌を口遊んでいた時のことだ。
突然、ライラの目の前の森の中のわき道から、女が息を切って駆け寄ってきた。
「誰か、助けて……!」
まだ少女と言ってもいい若い娘だった。まるで今の宵闇をそのまま切り取ったような、おびえ切ったスミレ色の瞳にライラを映すと、娘は縋るようにライラに身を寄せた。
娘の脅えが本物であるということが、触れ合った身体から伝わる震えを通してわかった。ライラは反射的に娘をかばうと、周囲に鋭い一瞥を投げた。するとしばらくして、見るからに野蛮そうな男たちが数人、娘を追うように現れたのだ。
野蛮な男たちの中でもリーダー格だろうと思われる、背の高い筋肉質な男が言った。
「兄ちゃん、その女は魔女だぜ、関わらない方がいい」
魔女という言葉を告げる男の口調は強気だったが、その言葉に含まれる怯えの様なものを、ライラは聞き逃さなかった。少なくともこの男は、彼女が魔女だという事を信じ切っているようだ。
こんな娘に本気でおびえているのか…? ライラは訝しげに眉を寄せた。
「あんたたちが魔女だというこの女の子が、あんたたちに何をしたんだ? こんな森の中で複数の男が女の子を追い回すなんて、いいものじゃないぜ」
「この魔女は俺の娘をかどわかして殺した」
「俺の女房をミイラにした」
後ろにいた痩せた頬の男と、やたら背の低いネズミのような男が言った。その黒い眼は何かに憑かれたようにぎらついていた。
「しかしなあ……」ライラはもう一度だけ、娘と男たち両方に視線を走らせた。娘の衣服はところどころ破けて、その白い百合のような肌があらわになっていた。娘の心底おびえ切った大きな瞳と目が合うと、ライラは安心させるように微笑んだ。
「女の子に対して暴行や危害を加えようとしている男を放っておくことはできないな。こう見えても俺は騎士なのさ。修道騎士。これでも敬虔なほうでね」
「魔女をかばう騎士だって、録でもねぇな」
男が唾を吐き捨てた。その言葉に、ライラは唇と瞳だけで微笑んだ。
「そうそう、俺本当に碌でもないんだ」
そう言うと、ライラは見るからに精巧な造りの長剣を一本、腰にさしていた鞘から抜いた。エルフ造りの魔法の守護剣で、エルフの<女王>からその身を案じて贈られた逸品だった。
ライラは天才的な冴えを見せる弓の腕前に比べれば、剣は素人程度にしか扱えなかった。しかしその剣を見た男たちは、かなりの名剣を目の前に、ライラもそれに見合う使い手だと勘違いして顔を青くし、一目散に逃げて行った。
男たちの影がライラの鋭い視力からも完全に消えてなくなると、ライラは自身の腕にその細く白い手を載せていた娘に振り返った。その手はあまりにも軽く、まるで精霊にでも触れられているかの様な気分になった。
「大丈夫?」
「はい。あの……騎士様、ありがとうございました」
娘は言った。
実際、その娘は本当に精霊を想像させる可憐さと軽やかさを身に備えていた。
淡く銀色の光を受けて輝くアメシスト色の長い髪は少女の踝にまで届きそうなほど長かった。その宝石色の髪をまとめるように、額には銀色のサークレットを身につけていて、それがまた彼女の雰囲気を何処か神秘的で、高貴な物にしている。まだ娘と言ってもいい年頃で、肌は百合のように瑞々しく若かったが、何処か成熟した甘い香りがにおいたつ肢体であった。おびえる瞳でライラを見やりながら、その瞳の奥には人を拒むような冷たさが感じられる。その瞳が、非常にライラの好みだった。
「気にしないでください、俺は実は神様に顔向けできない騎士ですから」
「いいえ、騎士様がいなかったら……わたくし……」
「とりあえず、無事で何よりだ」
ライラはそれ以上の謝礼を拒むようににっこりと笑って娘に自分がひっかけていた外套をそっとかぶせた。夕暮れともなればこの季節でも冷たい風が吹きつけてくるのだ。自分は明日熱を出すかもしれなかったが、どうということはないだろう。
ライラがかぶせた外套に娘は驚いたようだった。その反応を見て、ライラは自分が着ていたものがかなりの価値を持つ高級品だということを思い出したが、これもまた彼にとって、どうということはないことであった。
娘は言った。
「あの、何かお礼をさせてくださいませ……。たいしたおもてなしはできませんが、すぐ近くですので……」
「うん? どこに住んでるの?」
娘はその言葉に、おずおずと海岸の方を指差した。見つめた先の少し離れた場所には波打ち際の絶壁があり、そこには小ぢんまりとした城がたたずんでいる。ライラは驚いたが、聞いたのは別の事だった。
「一人で?」
娘が頷いたのを見て、ライラは言った。その時、ライラはもちろんまじない通りであったシェラハッドの言葉を思い出していた。「近づいてくる女性には注意なさることです……」しかし、ライラは緩やかに首を振るとこう答えた。
「どんな豪華な食卓でも、一人で食べたら砂を噛んでいるようなものでしょう。今日はちょっと無理なのだけど、そうですね。明日の晩でよければ喜んでご相伴にあずかります。連れも一緒でいいですか?」。
「もちろんですわ」娘の顔がぱっと輝き、花のようにほころんだ。
「ん、約束ですよ」
ライラはにっこりと魅力的な笑顔を向けると、娘の細く折れそうな指に指をからめて切った。
「あなたの名前は?」ライラは言った。
「シェリンドラ」少女は囁くような声で答える。
「そうですか、俺はライラ」
「まあ素敵、この夜が見せた幻みたいなお名前ね」少女はくすくすと笑った「約束ですよ」
ライラは本当にわずかな間、瞬きをした。するとその微風のような声だけを残して、目を開いた時には娘の姿はどこにも見当たらなかった。ライラは困ったようなため息をついた。娘の幻のような消失に夕方の出来事を思い出して、こう思ったのだ。
どうやら彼女が魔女だというのは、本当のことかもしれないな。この国の魔術の使徒は、忽然と消えるのが好きなようだから。
しかし彼女との約束を守ること以上の事は、この青年にとっては、やはりどうということはないことなのであった。
結局ライラがその夜、旅の仲間である馴染みの友人のもとに帰ったのは、夜の闇が完全に辺りを包みこんだ後であった。仲間は<銀の匙>という名前の貸住居に腰を落ち着けていた。リディーシュドゥアーとシェライアというまだ年若い夫婦が管理している、キノコの形が特徴的な、小さいが暖かみのある木造の建築だ。
管理人の夫婦は気持ちの良い人たちで、遅すぎるライラの帰りを安堵の声とともに迎えたが、友人たちは心配のあまり怒りをもって迎えたのであった。
帰るなり「そこに座りなさい!」と、その白い頬を紅潮させて怒ったのは小さい頃からの幼馴染であり婚約者であるクシェルだ。
「君が出たのはほんの昼間で、帰ってきたのは夜だよ。僕、いや皆がどんなに心配したか判っているのか?」
月の光のような金にも銀にも映える長い髪が心なしか青ざめた頬にもつれかかる。彼女のため息が、絹のようなその髪をそっと揺らした。
恵まれない複雑な家庭の事情で、女性性を意識的に排除しようとしているクシェルはライラの知る限り五指に入る美貌の持ち主であったが、男性的な喋り方をして自分の事を僕という。そんな彼女は凛々しく、それでいて怒る時には最高に可愛いと、口に出したことはないがライラは思っていた。今日の説教も、愛情をこめて半ば余裕を持ち楽しく聞いていたのだが、よほど心配したのだろうクシェルが怒りながら泣きだしたのを見て、ライラはさすがにその余裕を捨て去った。
「何があったんだい?」と聞いたのは一緒になって話を聞いていた双子の兄妹の片割れであるリリオンだ。妹のリリエルはクシェルをなだめるように、そっとその肩を抱いている。父の友人でありライラの尊敬する友人でもある詩人のルスは、その中性的な美貌に非難と呆れをあらわにしてライラを見遣っている。ライラは友人たちを見渡した。この四人が、ライラと共に旅をしている仲間だった。
ライラは彼らに、昼間から今までにあった出来事をかいつまんで話した。まじない通りで出会った魔術師、魔女と言われ追われていたうるわしい娘……。そしてその女性と、明日の晩食事の約束をしたという事。
「つまり君は、その娘が魔女と呼ばれているのを承知で、そのレディを助けたってことか。人に心配をかけた君はどうしようもない騎士だけど、その女性にした行動において君は確かに騎士だったね。そのことに関しては、僕はとても好い事をしたと思うよ」
クシェルが泣きはらした赤い目をこすって、にっこりと笑った。彼女こそ、何より名誉と正義を尊ぶ女騎士だったからである。
「でも、魔女であるという言葉に慎重になった君は、約束を順延させてぼくらとともに行くことを考えた」謡うような声でそう言ったのはリリオンだ。
「そう言う事。危険だと知って来たるべきものに備えるのと、そうと知らず飛び込むのとではまるで違うだろう?」
「それでもライラは、危険に飛び込むのね」そう告げたのはリリエルだ。
「これもまたそう言う事さ。一緒に来てくれないかな?」
「僕は行くよ。僕は何より君の守護者なのだし、そのレディにも興味があるからね」
そう言ったのはクシェルだ。リリオンとリリエルの二人は、わずかにその、鳩血色の瞳を見かわした。双子がこんな動作を示す時は、互いの間で何か他者にはわからない意思疎通を行っている時だ。
「ぼくらも行くよ」リリオンが言った。
「ちょっと気になることがあるので……」そう言葉を継いだのは妹のリリエルだ。
ライラは頷いて、部屋の奥で腕を組みながら話を聞いていたルスを見遣った。ライラが認める五指の美貌の持ち主の一人であるこの吟遊詩人は、そのかんばせを厳しく難しい表情に形作っていた。そうしていると、まるで雪花石膏の彫刻のような佇まいだ。
「すみませんが」厳しさそのままに、ルスは言った。詩人らしい豊かな声が部屋に響く。「私は行く気はありませんよ」
「何故? あなたと食事ができるのを楽しみにしていたのにな」
「あなたは私がいないと食事もできないんですか? 私はあなたの父の親しい友人として、あなたが本当に小さい頃から、実の弟のように思って接してきました。でも、そんな甘えた脳足りんに育てた覚えはありませんよ」
心の底からにべもない年上の友人の返答に、ライラはしょんぼりと俯いたが、すぐにけろっとした顔で頷いた。
「まあ、あなたの考えていることは俺にはわかりませんよ。でも、そこがたまらなく好きなんです。どうぞ好きなようにしてください」
「一つだけ言うと」ルスは若い友人の態度に、口角を少しだけ上げた。
「私も明日の夜に、食事に誘われているんですよ。子供が病気になっても医者に診せることができないほど、日々の暮らしに一杯な家族の子供に、無償で薬を調法したのです。そうしたらお礼に夕食をと言われました。」ルスは続けた。「たとえその後に一国の王に同じことをして同じことを言われても、ライラ、あなたならどうしますか? 親子の真心にこそ価値があり、最初の約束を守るというそのことこそが、人の心なのだと思いませんか」
「まったくその通りですね」
「それに」厳しい表情を崩して、ルスは言った。そうする彼の表情は非常に柔らかく、優しいものであった。「あなたたちが帰ってきたときに、おかえりなさいを言う人物がいてもいいでしょう?」