頁四《完結》
ひらひらと蝶が舞う庭で、少年は微笑む。
蝶が案内役だと母に聞いたのは、少年がほんの小さな頃のことだった。母はそれを言った数日後に亡くなった。蝶たちが戯れるように飛ぶこの庭で、倒れた母を見つけたのは少年自身だった。あれからもうどれだけの年月が過ぎ去っただろうか。彼の母を知る者は、もう殆ど残っていないだろう。
先日も、この家で一人の老人が命を引き取った。老人は病床でこの家に帰りたいと言った。家族達はその願いを聞き入れ、最期の時を迎えようとしている老人を病院からこの家へと移した。老人は縁側の硝子戸を挟み、この庭を見ながら息を引き取った。
時間は誰の前にも平等で、簡単に過ぎ去っていく。じきに彼のことを知る者もいなくなるだろう。少年の母親の様に。
少年はふと、縁側に座る少女に目をやった。黒いワンピースに同色のタイツに靴、艶やかな黒髪に囲まれた顔はまだ幼く滑らかで白い。彼女は大きくて愛らしい目で少年の方を見た。その目が少年に問いかける。
お兄ちゃんだあれ、と。
少年は目を細めて懐かしげに微笑んだ。
「姿は変わってしまったけれど、君は僕のことを知っているはずだよ」
少女は大きな目を更に大きくしてきょとんとした後、記憶を辿る様にぐるりと目を回した。少女の予想通りの反応に、少年はくすりと笑いを漏らす。少女のその仕草は、彼女が考え事をする時の癖だ。恐らく母親の癖がうつってしまったのだろう。
結局少女は少年の記憶を掘り当てることができなかった様で、問いかける様に首を傾げて少年を見つめた。
「十秋だよ」
少女はますます首を傾げた。聞き覚えが無い訳でもない気はしたが、やはり思い出せない。
その様子に少年は寂しげに微笑んだ。それは、その少年の年頃には似つかわしくない笑みだった。
「そうか、君は僕の名前を覚えていないんだね。まあ、それも仕方がないか」
少女は不思議そうに少年を見つめる。その様子を愛しむ様に少年は少女の頭を撫でた。少女は何かを思い出した様に目を大きくする。それとは反対に、少年はそんな少女の仕草を見て懐かしそうに目を細めた。
遠い昔のことだった。まだ言葉も覚えきれてない小さな彼女の手を引きながら、彼が雑草の生い茂る公園を歩いたのは。その時の彼女の手の暖かさを、頭を撫でた時の髪の柔らかさを少年は今でも覚えていた。遠いと言っても、彼の母との記憶ほどには遠くなく、けれど近くもない遠さ。
「小鞠、父さんと母さんに挨拶はしたかい?」
少年が少女の名前を呼ぶのは久しぶりのことだった。
少女は素直に頷く。なにしろ彼女が両親に会うのも久しぶりのことだったのだ。彼女が挨拶をすると、彼女の父親は驚いた様に目を大きくした。母親は、彼女が挨拶したことにさえ気づかなかった。それはほんの少し彼女に寂しい思いを抱かせたが、それを悲しむことはなかった。母親は自分を愛してくれていると、彼女は痛いほどに知っていたから。
「そう。えらいね。うん? 僕? 僕はもういいよ」
少年はほんの少し寂しさを滲ませて微笑んだ。
後ろ手に隠していたのか、平べったい木箱を少女の前に差し出した。硝子の嵌められた箱だ。少女はそれに見覚えがあった。彼女の祖父がまだ健在だった頃、内緒だよと言って見せてくれたものだ。そこには様々な色の蝶が磔にされていたのだ。けれど、少年が少女に差し出した箱の中身はからっぽだった。
伺う様に少女が見上げると、少年は笑みを深めて庭に目線を移した。少女もそれに釣られる様に庭を見た。柔らかな芝生に点々とある置き石、小さな池、小さな木々。そこにはたくさんの蝶がひらひらと舞っていた。
小さな指先を一匹の蝶に向けると、少女は呟く様に口を動かした。黒と青の羽が美しい、彼女が知る唯一の蝶の名前だ。
「そうそう。あれは烏揚羽蝶」
すっと少年は細い腕を上げて、少女と同じ方向を指差した。
「そして、あれが麝香揚羽に青条揚羽」
少年が名前を言った蝶以外にも、まだたくさんの蝶たちが庭を色づかせていた。少年はそのどれもの名前を覚えているのだということを少女は知っていた。
「僕の母さんも蝶が好きなんだ。小さな頃、近所に生物学者が住んでいてね。その人に標本の作り方を教えてもらって持って帰ったら怒られたことがある」
少年の母はきっと生きている蝶が好きだったのだ。そして、生きているものの命を簡単にとってしまうことを彼女は酷く嫌っていた。それがたとえ自身の血を吸う蚊であってもだ。
「小鞠は、僕の母さんに会ったことがある? ……そう。けど、今ならきっと会えるよ」
少女は目をぱちくりさせると小首を傾げた。少女は表情こそ薄いものの、大きな目はその時その時の考えや思いをありありと映し出す。
「それにしても、君はずっと此処にいたのかい」
どこにいけばいいかわからなかったから、と少女は言った。実際にその小さな口から声が発せられたわけではないが、少年には少女の言いたいことが自分の考えのようによく分かった。
どこにいけばいいかわからなかったから、ずっとパパとママといた。
少年は微笑むと、少女の頭を撫でた。少女は猫の様に心地よさそうに目を閉じる。
「じいさんのもうすぐ体が焼かれるんだ」
ごみを捨てるんだ、と同じくらい少年は平坦な声で言った。
少女の大きな目が、無くなっちゃうの、と少年に問いかける。
「いつまでも残っているものなんてないんだよ。だけど、暫くは残るし、何か形を変えて残るかもしれない」
そう言った後で、少年は自分に言い聞かせるように色づく庭を見詰めながら、そうだったらいいな、と呟いた。
此処は少年の生まれ育った家だった。祖父と両親と過ごした日々は、今でも少年の心だけに色濃く残っている。小さな頃はこの庭で鶏と犬を飼っていた。大きいけれど気が弱く優しい犬は、自分よりも小さな鶏によく虐められていたのを少年が救っていた。彼の祖父はよく情けない犬だ、番犬にもなりゃしないと言っていた。けれど、犬が老衰で死んでしまったあと、ぼんやりと寂しそうに縁側から庭を眺めていたのを少年は知っていた。
少年は身体が強いとは言えず、病気がちだった。よく学校を休んでは廊下側の部屋で布団を敷いて寝込んでいた。こっそりと障子を開けて、硝子戸の向こう側を眺めるのが好きだった。いつもと変わらない風景ではあったが、それは彼が愛していた場所だった。雲が風に流されていくのを、蝶がふわふわと宙を漂うのをいつも見てきた。
けれどそれは少年だけが知る光景だ。少女にとっては此処は祖父の住む家で、とても面白い場所だったのだろう。そして彼女の父もまた、少年とは違う目線でこの場所や人々を見てきたはずだった。彼女の父も此処で生まれ育ち、そして今、手放そうとしている。
雪の様に積み重なっていく人の営みを止める術はない。昨日亡くなった老人の遺体は焼かれ、無くなる。彼の人生の証拠とも言える物たちはその大体が他の人には手に余るもので、分配され、処分されていく。老人が使っていた部屋は彼の孫に引き継がれ、すっかりその形を変えてしまうことだろう。
哀しむのはいいが、それは当たり前のことで受け入れるべきことだ。
戸が開けられる音がして、二人が顔を上げて見ればスーツ姿の男性が縁側に出てくるところだった。
「箱の中身がないことを君の父さんが知ったら、不思議に思うだろうね」
男性は二人に気がついていないようで、暫く硝子戸の外を眺めていたが、横を向き歩き出すとほぼ同時に少女の姿に気づいた様だった。その時には少女はじっと標本箱に目線を凝らしていた。
「懐かしいなあ」
男性はそう言うと、少女のすぐ横に腰掛けた。少女を挟んで隣に座る少年には気づいていないようで、少女との会話の間、彼が少年を見ることはちらりともなかった。
妻に呼ばれて男性がその場を去る間際、彼は先ほどの二人と同じ様に庭の方を指差した。庭を見るその目は、少年に犬が死んでしまったあとの祖父の姿を連想させた。
なくなっていってしまうもののことを思うと、酷く哀しい。この庭の風景もいつかはなくなってしまうのだろう。
少年がそんなことを考えていると、ぱんっと小気味よい音がした。どうやら少女が手を叩いたらしい。少年が見ると、少女は小さな手の平を広げて呆然とその上にあるものを見つめていた。
「うわあ、殺しちゃったのかあ」
少年が苦笑交じりに言うと、少女はびくりと肩を震わせ見開いた目を少年に向けた。何か大きな罪でも犯したような怯えようだ。少年は小さく唇を歪ませる。それは、人にとっての罪ではない。
少年は少女に三角紙を手渡した。少し前に彼女の祖父の部屋から持ってきていたものだ。古びたそれは、祖父にとっての少年時代からの宝物だった。生物学者に貰った物で、彼はそれを使って標本を作ってきた。
懐かしい母の声が呼んでいる。
少年は少女の手を取った。鱗粉が付いた小さな手は、柔らかくすべすべとしている。生物の名残ももうそこにはない。けれど、少女だけはその感触を知っている。
それでいい。実のところ、少女の手の平で死んだ蝶も、老人もそう変わりない。
少年が手を引くと、少女はそれに従った。
長い廊下を進んでいく。そこから見える景色は新しくもあり古くもあった。丈比べをした木の柱には此処に住んでいた少年や少女の父の線が残っている。修繕を繰り返しながら古くから使われてきた硝子戸は、ゆらゆらと外の景色を揺らす。廊下の隅に置かれた藤の安楽椅子には少しだけ埃が被っている。
「随分と長い間待たせてしまったみたいで、ごめんね。これからは僕が一緒にいるよ」
少年が前を向いたまま囁くような声で言うと、少女は小首を傾げた。
その目はずっと? と問いかけている。
ずっと、なんてことは無いのだと先ほど少年は言ったばかりだ。けれど、そう思うのもいい。これからは、ずっと此処で少女と遊び続ける。
少年は返事の変わりにぎゅっと少女の手を握ると、軽やかな足取りで廊下を駆けた。