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標本箱  作者: はんどろん
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頁三


 お養父さんが亡くなった。

 子供のようによく笑う人で、その笑顔は可愛らしかった。

 穏やかな喋り方や物腰が私は好きだったし、私達はどこか似通ったところがあったと思う。

 周囲には私たちは子供のようにふわふわと夢見がちに見えていたかもしれないけれど、子供は意外と大人の期待を裏切って現実主義者だ。自分たちだって子供時代があったにもかかわらず、そのことを忘れてしまっている。

 お養父さんは私に鉱石の標本の入った木箱を遺してくれた。

 私が以前じっくりと見ていたのを覚えていたのだろう。病床であげるよ、と言われた。

 小さい頃から私は理科室や図鑑やらが好きだった。どうして、と聞かれても答えに詰まってしまうけれど、自然と心が惹かれてしまう。

 夫と出会って、その結果お養父さんとも出会って、私は夫と出会った時よりも喜びを感じた。

 この人とは、根本的なところが同じものでできている、となんとなく思った。それは蒐集癖とか、好きなものが似ているというだけじゃなくて、会話している内に感じるものだった。

「お姉さん、それは誰の標本箱?」

 後ろで聞こえた声にはっとして、振り返って見た。小学校高学年位の男の子だ。積み重ねられた荷物で顔は見えないけれど、まだ声変わりのしていない澄んだ声をしている。

 多分、親戚の子供だ。

「これは、おじいちゃんの物よ」

「ふうん。からっぽだね」

少し楽しそうに男の子が言ったので、私は訝しく思いながらも無意識で手に持っていた標本箱を覗き込んだ。

 からっぽ。

 首を傾げる。前に見た時は確か色んな色の蝶が入っていたと思うのだけど。

「前はたくさんの蝶が入っていたのよ」

「けど、からっぽだ。その蝶たちはどこに行っちゃったんだろうね」

 変なことを気にする子供だわ、と思ったけれど、子供の気にすることなんて結構変なことだったりするものかもしれない。

 その子供の顔を見ようと思ったけれど、ぺたりと座り込んだ状態の足を動かすのが億劫で、結局その子供の体の方に視線を寄せるだけに止めた。

 少し色の白い子供だ。

 なんとなくお養父さんが子供の頃、体が弱くて余り外で遊びまわれなかったと言っていたことを思い出す。もしかすると男の子もそうなのかもしれない。夫は健康な体で生まれたけれど、夫の弟も体が弱かったらしい。一族にはよく体の弱い子供が産まれると聞いたことがある。娘もそうだった。

「お姉さんは、じいさんが好きだった?」

 唐突な質問に、私は思わず苦笑した。

「大好きだったわよ。すごく、いい人だったでしょう? それに、趣味が合ったの」

「へえ、じゃあお姉さんも、子供みたいな遊びが好きだったんだね」

 本当の子供に言われると、可笑しくなって笑ってしまう。

 子供みたいな遊び。確かにそうなのだろう。大人になって虫を嫌いになるなんてことはちっともなかった。自然の中でできた鉱石に、心惹かれた。不思議な実験道具に、興味が湧いた。

「ええ、大好きよ。おじいさんがいなくなっても、きっと嫌いになんかなったりしないわ」

「そう? それはよかった」

 妙に大人びた口調で喋る子供だ。声変わりもしていないような少女に近い声も、そのせいか落ち着いて聞えた。私もこの年頃の時、こんなものだっただろうかと考えてみたけれど、自分のことはなかなか思い出せないものだ。

 白い足の男の子は、妙に軽やかな足取りで数歩近づいてくると、両手を掲げた。ちょうど逆光で顔は見えにくいけれど、愛らしい少女の様な顔をした子だ。血の繋がりか、笑顔はあの人を彷彿とさせた。

「その標本箱、僕にくれない?」

「え、ええ……」

 吸い寄せられるように見つめていた子供の顔からなんとか目を離して、標本箱を見た。硝子に傷もなくて綺麗だけれど、木は古びている。もしこの子供が夫の弟夫婦の子だとしたら、迷惑がられないかと躊躇した。義弟の奥さんは、あんまり会ったことはないけれど少し潔癖なところがあったのを覚えている。

「あげたい子がいるんだ」

 私の思考を呼んだかのようにその子は言った。

 誰にも貰われなければ、どうせ捨てられるのだ。お義父さんの思い出を全部とっておくのは流石に難しい。それなら、誰かがどこかで使ってくれるほうが嬉しい。

 標本箱を手渡すと、その子は嬉しそうにはにかんだ。そんな顔をすると、ますますお義父さんに似ている。

「ありがとう」

 一言そう言うと、その子供は身を翻してあっと言う間に走り去ってしまった。

 そのすぐあとに部屋に入ってきた夫は、部屋を感慨深げに見渡したあと、荷物に塗れて床に座り込んでいる私を見つけて一瞬驚いた顔をした。

「どうしたんだ? 放心して。疲れたのか?」

 私は苦笑して首を振った。たしかに少しの疲れはあるけれど、放心するほどではない。ただ、なんとなく不思議な気持ちだった。はっきりと子供の顔は見えなかったのに、逆光で影になってぼんやりと見えた表情が妙に印象的だった。

 夫はそうか、と呟くと自分も床に座り胡坐をかいた。高く積まれた物たちをきょろきょろと見上げ、苦笑する。

「ほんとうに、ガラクタばかりだな」

 そう言いながら自分のすぐ横の山の上にある小さな四角い缶を手に取る。緑色のその缶は所々錆びているけれど、白い花が描かれていて、黒い文字で英文が書かれているのが分かる。蓋を開けると、中にはシャンデリアのパーツがたくさん入っていて、急に入ってきた光りをきらきらと反射した。

 部屋の硝子窓には、夫が少し前に持って来た虹製造機が外の光りを受けて、部屋の中に華奢な虹をいくつも作っている。部屋自体は古い木造校舎の理科室みたいな雰囲気で、古びた木枠の大きな硝子窓が、ずらりと並んでいて庭の様子がよく見えた。窓から差し込む明かりは同時に、部屋の中にたくさんある物のすぐ隣りに大きな影を作る。

 私はふいに、お義父さんがひょっこり顔を出しそうな気がして、部屋中にある山の間に目をやった。

 やあ、冗談だよ。ちょっとした冗談さ。まだまだ遊び足りないからね。そう簡単にくたばれないよ。

「親父はほんとうに、変わった物が好きだったんだなあ。自分の世界を持ってる人だった……俺にはやっぱりちょっとわからないよ」

 夫はシャンデリアのパーツの一つを摘むと、窓から差し込む光りに透かしながら言った。

「そうでしょうねえ。あなたとお義父さんじゃあ、百八十度くらい性格も好みも違ったもの」

 私がくすくす笑いながら言うと、夫は苦笑する。

 本当に大げさではなく、夫とお義父を比べると、親子だと言うのに性格も好みも似通ったところがあまりなかった。彼は現実主義者で、無駄な物を好まない。その癖、娘の気を引こうとブローチやお菓子や髪留めを分かりもしないのに毎日のように買ってきては与えていたけれど。どこか不器用なのだ。それに比べてお義父さんはマイペースなのに、娘の気をしっかりと惹き付けていた。二人が似ているところをあえて言うと、二人とも人に対して優しいというところくらいかもしれない。それはとても大切なところなのだけれど。

「その点、どういうわけか血の繋がりもないお前の方が、親父と馴染んでたよ」

「あら、嫉妬ですか?」

 冗談めかして言うと、夫はふと優しく微笑んだ。そんな風に笑った時の目は、少しお義父さんに似ているかもしれない。

「いや、はたから見てておもしろかった。なんだか二人とも子供みたいでなあ……確かにちょっと嫉妬も混ざってたかもしれないけど。親父もお前といる時は生き生きしてたよ。お袋が死んでからはこの家にずっと一人だっただろう? ちょっと寂しかったのかもしれないな」

 お義父さんは、お義母さんの死後、私たちが一緒に暮らそうと誘っても、この家を出ようとはしなかった。うちも家を建てたばかりの出来事だったので、こちらに移り住むということはできなかったから、その代わり夫が仕事の時は私と娘二人でよくこの家に遊びに来たものだった。夫が休みの日は、毎回の様に家族でやってきてはお義父さんと過ごした。娘もお義父さんに凄く懐いていたから、私がお父さんと子供のような遊びに夢中になるということは余りなくなっていたけれど、それでも時々天体観測や虫捕りを娘と一緒になって三人で楽しんだ。そんな時それを見守っていた夫は、三人の父親のようだった。

 それを思い出して私が少し笑うと、夫は訝しげな顔をした。

「あなたは父親のようだったわ」

 寂しかったのかなんて、私には分からなかった。一緒にいる時のお義父さんはいつも楽しそうにしていたから。

 夫は苦笑して肩を竦めると、夫曰くガラクタの山に手をつけ始めた。きっと殆どを捨てることになるだろう。三週間後には、義弟の家族がこの家に移り住む。その時には、この部屋は甥っ子の部屋になっている。

 人が死んでしまうのはなんて空虚なことだろう、と改めて思う。今は悲しくても、この悲しみは数ヶ月の内に薄れていくことを私は知っている。何年も経てば、思い出して哀しくなることはあっても、その人がいないことが当たり前になっている。再び同じ、胸を裂くような痛みが襲ってくることは、きっとない。乗り越えた気はなくても、気付けば薄れている。上積みされていく記憶の山の中に埋もれてしまう。無理に掘り起こしても、それはもう泥だらけで古びている。仕方のないことだと分かっていても、その事実がおそろしい。

 まだそんなに時間が経っていない今でさえも、もう頭の中は冷静だ。子供の頃のように、一つの感情で胸をいっぱいにすることも本当に少なくなった。

「あ、ちょうちょ」

 夫が独り言のようにぽつりと言って、窓の方を見ていたので、私もそちらに目を向けた。木枠の古びた窓は、硝子が少し分厚く、気泡が中に入っていたり緩やかなでこぼこがあったから、そこから見る外の景色は透き通った水の中を覗いているみたいだった。その前を、ゆらりと蝶が泳ぐ。黒と、鮮やかな緑色をした蝶だ。

「そういえば、あれはどこいったんだろう」

 独り言の延長のように言って、夫は方々で何かを探し始めた。積み重ねられた荷物が床に置かれて、みるみる散らかっていく。

「なにを探しているんですか」

「んん……図鑑だよ。さっき飛んでたちょうちょの名前、なんだったっけなあ」

 答えながらも夫は手を止めようともしない。仕方なく私も積み重ねた本の中からその図鑑を探すことにした。暫くして随分と散らかってしまった部屋のなか、小さな木箱に入った器具を見つけた。ピンセットに半透明の油紙に溝の入った木の板。

 なにかしらと思わず声を漏らして首を傾げると、意外にもその答えをくれたのは夫だった。どうやらそれは標本を作るセットらしい。私は標本箱を先ほどの男の子にあげたことを思い出した。あの子はそれを誰かにあげると言っていたけれど、貰った子は標本をつくるのだろうか。

 夫が出て行ってから散らかった部屋を片付けていると、親戚の女性が呼びにやってきた。夫の従姉妹にあたる人だ。居間で今後のことを話し合うらしい。彼女が行ってから私は部屋を出て行った夫を探そうと縁側に顔を出した。すると、彼はそこに座り一人ぼんやりと庭の方を眺めていた様で、わたしを見ると少し驚いたような顔をした。

「あら、こんな所にいたの。色々話し合うみたいだから、あなたも来てちょうだい」

 そう言うと、彼は膝に手をつき立ち上がった。ふと、何かに気付いたようにまた庭の方を見る。その横顔が微笑んでいるように見えたのは気のせいだろうか。

 夫が部屋に入ってくる直前、縁側に小さな女の子がいた気がしたけれど、多分それも気のせいだろう。私は静かに硝子戸を閉めた。








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