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親父が俺に遺してくれた物は、銀製の懐中時計と、銅製のコーヒーミルと、狭い土地だった。
土地はどうしようもないし、ちょうどいいことにその土地の所らへんに道を作るという話しがあったので、売ることになった。どうせお袋が死んだ時からほったらしになっていた場所だ。
「あら、これ何かしら」
妻が不思議そうに言いながら平べったい木の箱の鞄を差し出してきた。
親父の部屋には生きていくには、不必要そうな物がたくさんある。大きな水槽や大きな地球儀、色とりどりのびいろど玉を詰め込んだ瓶に、中身が入っていない海外の缶詰の缶。 その他にも不思議な物や、剥製やら石やらが所狭しと置かれている。
窓硝子には、先月位に俺が見舞いに持ってきた虹製造機が、外から差し込む光で部屋の中に人工的な虹をつくり出していた。何か欲しい物があるか、と聞くと親父は虹製造機、と言ったのだ。だから、虹製造機。ネットで調べてそれが何かようやく知って、通販で買った。親父はどうしてこんな物知ってたんだろう。というよりも、こんな物を欲しがるなんてまるで子供のようだと少し呆れた。この部屋も、子供部屋のようだ。小学生の時分は、自分の部屋があるのにこの部屋が羨ましくて殆どこの部屋に入り浸っていたものだ。
「これはね、標本を作るセットだよ。ほら、虫ピンとか入ってる。昔親父、これ肩に下げて虫捕り網持ってよく蝶とか捕まえに行ってたなあ ……あれ? 三角紙は入ってない」
「まあ、変わってるわねえ」
妻が変わってる、と言ったのは勿論親父のことではなく、この標本セットのことだ。親父が変わっていたことなんて、妻はとっくの昔に承知している。それでも妻と親父は仲が良かった。妻も少し変わっているのだ。俺がガラクタみたいだと思うような物に興味を示し集める、所謂、蒐集癖みたいなものがある。それの方向性も親父と似通っていた為か、話も合ったのだろう。まだ新婚の頃に親父と妻が、大きな麦わら帽子を被って二人して虫捕り網を持って出かけた時には、流石の俺も驚いた。
なのにその妻がこの標本セットのことを知らないのは少し意外だった。虫を捕まえていても、標本にせずにあの大きな水槽で飼っていたのだろうか。けれど、その小さなジャングルのような水槽の中には虫一匹見当たらない。
「虫の命は短いんですよ。お義父さんが寝込まれてから、少しずつこの水槽の中にいた虫も死んでいったの。少し可哀想なことしたかしら」
妻は俺の視線を追うように水槽に目を向けた。何かを思い出しているのだろうか。じっと水槽を見たまま薄く微笑んでいる。
妻は親父が寝込んでから、身の回りの世話をしてくれたり、この広い家の掃除をしてくれたりしていた。
「昔は、捕まえてきては標本にするのに夢中になってたんだけどなあ」
「それは、あなたが小さい頃?」
「ああ」
「まあ」
可笑しそうに妻はくすくすと笑う。
「どうして笑う?」
「だってそれ、きっとお養父さんは、その標本をあなたに自慢したかったんだわ」
え、と思い少し目を丸くしてしまったが、そうだったのか、とも妙に納得できる。
小さい頃俺が感嘆の声を上げたり、興味深々でその様子を眺めていると、親父は嬉しそうに微笑んでいた。その内に俺が興味を示さなくなると、それから親父も多分、展翅するのを止めていたのだと思う。今度は水槽に小さなジャングルを作っていた。
「あれ……そういえば」
「なあに?」
「結構な量を作ってたんだと思うけどなあ。標本がない」
「あら、誰かにあげちゃったんじゃないかしら。ほら、近所に小学校に上がったばかりの男の子が住んでるじゃない」
「晃君?」
「そうそう。あと、一つだけ標本箱があったんだけど、あなたが来る前に男の子が持って行っちゃったわ」
「勇作のとこの子か?」
「さあ? ちゃんと顔を見てないからなんとも……」
「そっか」
妻は滅多に会わない親戚の子達をまだちゃんと覚えていない。後ろ姿だけで誰かなんて分からないだろう。
「ちょっと風にあたってくるよ」
物が多いこの部屋は、埃っぽい感じがする。
妻は頷くとまた机の上を掃除し始めた。それを尻目に部屋を出る。親父が集めたものは、流石の妻でも手に余るような物が多いみたいで、恐らく殆どが捨てることになるだろう。少し経ったら兄貴の家族がこの家に住むことになるが、兄貴は親父の趣味なんかには全く興味がなかったし、その妻は綺麗好きな上虫が大嫌いだから、例え水槽に虫が入ってなくても見たら悲鳴をあげるかもしれない。それに確かこの部屋は、兄貴の息子が気に入って、使いたいと言っていた。妻はその時少し寂しそうに、だったら綺麗に片付けなきゃね、と笑った。
縁側を歩いていると、小さな少女が座っていた。娘だ。
黒いワンピースから黒いタイツを履いた細い足を外にたらして、じっと手元を見ている。
何かを持っているようだ。俺は娘の手の中にある物を見て、おやと思い思わず首を傾げた。親父の標本箱だ。その箱のことはよく覚えている。親父が始めて展翅した蝶が入ってあった、娘が持つと大きく見えるB4サイズくらいの古びた木縁のドイツ箱。けれど、その中には蝶の姿はなく、からっぽだった。一つだけあったと言っていたし、妻が言っていた標本箱とは、これのことだろうか。男の子が持って行ってしまったのではなかったのだろうか。
「懐かしいなぁ」
言いながら娘の隣に腰を下ろした。娘は標本箱から俺へと視線を移した。大きな、黒目がちの愛らしい目でじっと俺のことを見る。
我が娘ながら少し不思議な子で、何を考えているのか殆ど分からない。自分の子なのに、表情の余りない顔で、真っ黒な瞳でじっと見られると緊張してしまう時がある。娘との意思疎通は妻の方が上手だった。流石へその緒で繋がっていただけある、と時々感心させられてしまう。
妻は娘相手にいつもぽんぽんと話題を出して喋っていたが、俺には娘相手にどんなことを話せばいいのか分からなくて、いつも話題を搾り出す。
「中に入っていた蝶々は?」
娘は一瞬きょとん、とした後、ゆっくりと首を振った。
もしかしたら、標本箱を持って行った子が、中身を全部出してしまったのかもしれない。最後に見たのは確か結婚前か結婚した後だったが、色んな色の蝶が展翅されていた。
青色、黄色、緑色、紫色、黒色……。
そういえば、昔親父言ってたっけ。蝶々はお迎えだって。小学校の頃に聞いたその一言を今でも覚えてるってことは、その時の俺はその言葉を本気で信じていたのかもしれない。
お迎えだったら、虫ピンで挿しとくなんてまずいんじゃないの。
「もしかしたら親父の道案内に行ってしまったのかもなあ」
娘は首を傾げる。変なことを言ってしまったかもしれない。けど、確か親父が俺にそれを言った時、俺は今の娘くらいの歳だった。変な感じがして、思わず微笑んでしまう。
「――あら、こんな所にいたの。色々話し合うみたいだから、あなたも来てちょうだい」
がらっと開いた後ろの硝子戸から、妻が顔をひょっこり出して言った。
立ち上がる時、娘にじっと見られているのに気付いて、庭の方へと目を向けると指指した。
この庭は、蝶々たちの通り道になっているんだよ。
これも、前に親父が言っていた言葉だ。
自分が思っていたよりも、俺は親父の遊びが好きだったのだろうか。
蝶々の標本、鉱石の標本、世界で始めて作られたポラロイドカメラ、アヒルの子供の剥製、ドームガラスの内に作られた小さな箱庭に、大きな薬瓶に、絵の具のパレットに、虹製造機。
親父が、自分の小さな世界である部屋で、蝶の通る庭で、楽しそうに笑っている姿を今でもはっきりと思い出せる。
病床で過ごした人生の終わりに、夢の中でも子供のように無邪気に遊んでいたのかもしれない。