頁一
死んだおじいちゃんがくれたのは、標本箱だった。
標本箱と言っても、虫ピンに刺された蝶やらの昆虫の姿はない。からっぽだ。わたしが昔おじいちゃんに見せてもらったこの標本箱には、確かに色とりどりの蝶の屍骸が突き刺さっていたのに。おじいちゃんは何故かその蝶を全部出してしまった上で、この標本箱をわたしに遺したのだ。
わたしに遺してくれたのはたったこれだけ。
「懐かしいなあ」
まだ黒いスーツを着たままのお父さんが感慨深げにそう言いながら、わたしが腰掛けている縁側によっこらせ、と座った。お父さんに遺されたものは、蓋が透かし彫りになっている銀色の懐中時計と古びた銅製のコーヒーミルと、猫の額ほどの土地。その土地はおじいちゃんよりもっと前にいなくなってしまったおばあちゃんが、細々と畑をしていた土地だったけれど、おばあちゃんの死後は草ぼーぼーの昆虫達の楽園みたいになってた。わたしは今よりも小さい頃におじいちゃんとその土地で昆虫を採ったことがある。
わたしは両手に持った、平べったい大きめの標本箱をなんとなく覗き込んだ。古びた木縁に薄い硝子の向こうは真っ白だ。昆虫達がはり付いていた跡なんて全然ない。
「中に入っていた蝶々は?」
知らない、と私は首を横に振る。お父さんは不思議そうに首を傾げる。
お父さんも見たんだ。この標本箱に色んな蝶々がいたのを。
あおいろきいろみどりいろむらさきいろくろいろ。
「もしかしたら親父の道案内に行ってしまったのかもなあ」
みちあんない。
首を傾げると、お父さんは縁側から見える、前に来た時よりも草が増えた庭を見たまま、微笑んで頷いた。調度その時、がらり後ろの硝子戸が開いてお母さんが顔をひょっこり出してお父さんを見つけた。
あら、こんな所にいたの。色々話し合うみたいだから、あなたも来てちょうだい。
お母さんがそう言うと、お父さんは膝に片手をついて立ち上がる。わたしは座ったままその様子をじっと眺めた。お父さんは一度振り返ってにっこり笑うと、庭の方を指差して直ぐに行ってしまった。お父さんが指差した方には、ちょうど蝶々がひらひらと雑草の上を落ち葉みたいに飛んでいた。黒っぽい蝶々だ。
時々葉っぱや花に止まっては、直ぐに何かから逃げるように飛び立ってはひらひらしている。
捕まえてみようか。
からっぽの標本箱は、なんだか寂しい。
わたしは立ち上がると標本箱を縁側に置いてゆっくりと蝶々の方へ近づいた。
ひらひら、ひらひら。
優雅に飛んでいるだけに見えて、意外とすばしっこい。わたしはムキになって葉っぱに止まった時だけじゃなく、飛び回る蝶も蚊を叩くときみたいに手のひらをぱんぱんいわせながら追いかけまわした。
ぱんっ!
逃げ回っていた蝶が目の前にやって来た時、わたしはびっくりして思わず反射的に両手で蝶を挟んだ。手を開くと、翅を覆う鱗粉が手のひらに薄っすらと広がっていた。すべすべとした不思議な感触が気持ちよくて、足を僅かに動かす蝶の翅を指先とそっと擦ると今度は指先に鱗粉が付く。
「うわあ、殺しちゃったのかあ」
後ろから聞こえた直接的な言葉にわたしはぎょっとして振り返った。
「けど、そんなにしたらもう標本にはできないね」
そっか。手の中で惨めな姿になってしまった蝶々は、標本にするには少し不恰好だ。体は潰れて少し体液が出ているし、鱗粉の取れてしまった翅の模様は微妙に変わってしまっている。それでも足だけはまだもがくように動いている。
ちょっとぞっとして、手のひらがこそばゆくなった。
「ほら、これ」
そう言って差し出された、三角に折られた薄い紙の束を不思議そうに眺めていると、差し出したお兄ちゃんは苦笑いした。
「本当は虫とり網で捕まえた蝶を、この紙で包んで持って帰って、それから標本箱に刺すんだ。じいさんの部屋にあったから、君に渡すようにって」
わたしはようやくその紙の束を受け取ると、お兄ちゃんは少しほっとしたようだった。
そういえば、おじいちゃんがこの紙に挟まれた蝶々の屍骸をピンセットでとって、翅を広げているのを見たことがあった。
「まあ、その蝶は捨てるといいよ。この庭は蝶道になってるみたいだから……ほら、まだ飛んでるし虫取り網とって来ようか? じいさんの部屋にあったけど」
いい。わたしは横に首を振るともう一度手の中の蝶々を見た。さっきまで動いていた足ももう動いていない。殺しちゃった。
学校の先生が言っていたことを思い出す。
小さな昆虫にも、花にも、みんな人間と同じ。いのちはあるんですよ。
おじいちゃんにも命があった。だったらこの蝶々にも。でも、目の前で死んだにも関わらず、蝶々が死んでもちっとも悲しくなんかならない。先生の言葉を思い出して少しだけ可哀想なことをしたかな、と言葉で思っただけで本当は心なんてこれっぽっちも動いていない。ちょっと不快には感じたけれど。
おじいちゃんの時には、少し泣いた。前に道端で車に轢かれて死んでいた犬を見た時も、可哀想だと思った。どうしてだろう。
「多分、人間には小さい生き物の命を感じ取る力が少ないんだよ。生きてるって頭で分かっていても、本当のところ、それを感じ取ることは難しい」
喋らないからかな。そういえば、飼っている猫が死んで泣いている子は見たことがあるけれど、飼っている昆虫が死んで泣いている子をあんまり見たことがない。
「どうだろう。けど、翅音とかだけじゃいまいちぴんとこないよな」
どうして標本にするんだろう。
「綺麗だからじゃないかな。あと、好きだから。置いておきたくなる。それに思い出があったらもっと置いておきたくなる。その内その意味も忘れるのに……いや、物みたら思い出すのかな」
物と一緒だね。わたしも、ソーダーの瓶に入ってたビー玉を集めてた。
「うん。屍骸は物と一緒かも。ほんの一瞬前まで生きていても、生きていた時とは明らかに違うし。それにしがみ付こうとするのは生きてる人間だけだよね」
そう言ったお兄ちゃんはちらりと硝子戸の方を見たあと、私を見た。今頃お父さんやお兄ちゃんの両親は、戸の向こうで何か話し合ってるんだろう。 おばあちゃんの畑跡は、どうしようもないので売ってしまうらしい。もう誰も住むことの無くなってしまうこの家も、売り払うんだろうか。
「じいさん、あとから燃やしに行くらしいよ」
そうなんだ。おじいちゃんはあとちょっとで骨だけになっちゃうらしい。それはちょっと寂しいかも。今でさえ生きていた時のおじいちゃんの顔を思い出すのは難しいのに、燃やしちゃったら写真を見て思い出すしかない。
おじいちゃんを標本にできないの。
私が言うとお兄ちゃんは微妙な笑い方をして、無理なんじゃないの、と言った。
標本にすれば、いつでも会えるのにね。
「会えるんじゃなくて、見れるんだよ。死んだ人には、もう会えない」
そっか。もう、会えないのか。
「……母さんが呼んでる。行くよ。その蝶、どうするの」
標本にする。
「汚くない?」
汚いのかな。
「だって、人間だったらそれ内臓とか出てる状態なんじゃない」
そうなのかなあ。そう思うとちょっと気持ち悪いかも。
「捨てなよ。同じ風なのいっぱい飛んでるだろう」
うん。そうだね。
わたしは蝶の翅を指先で掴むと、手のひらにくっついた体を引き剥がして地面に落とした。ひらひらと飛んでいた時よりも速くに蝶の屍骸は地面に落ちた。手のひらについた鱗粉を払おうと両手のひらを擦り合わせたけれど、全然おちるどころか手のひら中に広がってしまう。
「手を洗うと綺麗にとれるよ」
うん、と頷いてわたしは標本箱を掴んで抱きしめた。からっぽの標本箱はやけに軽いような気がする。
お兄ちゃんの言った通り、やっぱり中に入れるなら、どうせなら綺麗な生きてるみたいな蝶々の方がいい。
おじいちゃんも蝶々が入ったままでくれたらよかったのに。
「蝶々? 元々入ってたの、その箱に? 元からからっぽじゃなかったっけ」
ううん。入ってた。色んな色の、ぴんっと翅を張った蝶々たちが。
「ふうん? どこに行ったんだろうね。まあ、いいや。行こう」
わたしは手が鱗粉に塗れていたことも忘れて、差し出されたお兄ちゃんの手を握った。お兄ちゃんもさっきのことなのに忘れてるみたいで、大きな手でわたしの手を包み込む。
すべすべした感触にお互い気付かない。
跡形も、なくなる。
わたしたちの記憶の中からも。
綺麗な標本箱に、わたしは何を残そう。忘れたくないものは、きっとこの小さな標本箱には入りきらない。それに、それはきっとその内ただのものになる。
やっぱり、蝶々かな。他の虫はちょっと苦手だし。意味はないけれど、せっかく箱があるんだからやってみるのもきっと楽しい。
「屍骸を並べて楽しむなんて、人間って悪趣味だよね」
屍骸は、物と一緒なんでしょ。
「うん。生きてる時の姿を知らなければ。だって、僕にとってじいさんの死体は物みたいなものだもの」
おじいちゃんは、おじいちゃんだよ。
「うん。君にとってはね。見て、いっぱい飛んでる。みんな越冬した蝶たちだ」
お兄ちゃんの視線を追って振り向くと、庭はさっきよりたくさんの蝶々が飛んでいた。
あおいろきいろみどりいろむらさきいろくろいろ。
全部捕まえると、多分標本箱が綺麗に埋まる。
「捕まえる?」
いいや。今は。暖かい内だったら、いつでも採れるもの。
お兄ちゃんはそっか、と呟くと微笑んでわたしの手を引いた。