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世界の綻び

03:過去を買う人

作者: コトリ
掲載日:2026/10/12

僕が働いているコンビニには、毎週火曜日になると、ひとつだけ不思議な袋が入荷する。

茶色い紙袋で、表には小さく「過去」と印刷されている。値段は決まっているが、何が入っているのかは分からない。水曜日までに売れなければ、廃棄することになっていた。

最初のうちは、誰も買わなかった。

僕も、変わった商品だなと思う程度だった。店長に聞いても「そういう商品なんだよ」と言うだけで、詳しいことは教えてくれなかった。


その袋を初めて買ったのは、ひとりのおじいさんだった。

ほかの商品と一緒にレジへ持ってきたとき、僕は思わず袋に目を向けた。今まで誰も手に取らなかった商品だったからだ。

「それ、買うんですか?」

口にしてから、少し失礼だったかなと思った。

老人は袋を見下ろし、穏やかに笑った。

「ええ。『過去』っていうのが気になりましてね。何が入っているんでしょう」

「さあ……僕もよく分からないんです。火曜日にひとつだけ入荷するんですけど」

「そうですか。じゃあ、開けてみてのお楽しみですね」

老人はそう言って、ほかの商品と一緒に会計を済ませた。


その日から、老人は毎週火曜日になると店に来るようになった。

次の火曜日も、その次の火曜日も、老人はあの袋を買っていった。

何度も顔を合わせるうちに、僕たちは少しずつ言葉を交わすようになった。

「今日は寒いねえ」

「そうですね。夜は冷えますから」

そんな、何でもない会話だった。

ある火曜日、おじいさんは会計のあと、ふと思い出したように話し始めた。

「うちの女房はね、花が好きだったんだよ」

「へえ、そうなんですか」

「ああ。庭に花を植えてね。私は花なんてさっぱり分からなかったが、女房が喜ぶから、毎年一緒に選んでいたんだ」

おじいさんは懐かしそうに笑った。

僕はレジの袋詰めをしながら、その話を聞いていた。

それから何度か、奥さんの話を聞くようになった。二人で旅行したこと、若い頃に暮らしていた家のこと、奥さんがよく作ってくれた料理のこと。

話し方はいつも穏やかだった。けれど、ある日、おじいさんは少し違う話をした。

「女房が亡くなったとき、私は仕事をしていてね。連絡をもらったんだが、すぐには抜けられなかった」

おじいさんは、レジの向こうで静かに笑っていた。

「結局、間に合わなかったんだよ」

僕は何も言えなかった。

「最後に、ありがとうと言いたかった。ずっと支えてもらっていたのに、そんな簡単な言葉すら伝えられなかったんだ」

おじいさんはビニール袋を持ち直した。

「もし、あの日に戻れたらなあ」

しばらくして、おじいさんは僕に尋ねた。

「君、昨日をやり直したいと思ったことはあるかね」

「ありますけど……まあ、誰でもあるんじゃないですか」

おじいさんは笑った。

「そうだな。だが、過去はやり直せない」

僕は思わず、袋に目をやった。

「だったら、そんな袋を買っても意味ないんじゃないですか」

自分でも、少し言いすぎたと思った。けれど、口に出してしまった言葉は戻らなかった。

「亡くなった人に、今さら何を伝えたって仕方ないでしょう」

おじいさんは、怒らなかった。

ただ、少しだけ目を伏せた。

「……そうだね。君の言うとおりかもしれない」

それから顔を上げ、いつものように笑った。

「でも、どうしても戻ってみたい日があるんだよ」

おじいさんは会計を済ませ、ビニール袋を持って店を出ていった。

僕は、その後ろ姿を見送った。

何かひどいことを言ってしまった。そんな気がした。

けれど、過去は戻らない。亡くなった人に、言葉を届けることもできない。

僕はそう思っていた。


次の火曜日、おじいさんは来なかった。

その次の火曜日も、姿を見せなかった。

いつもなら、夜になると自動ドアが開き、ゆっくりとした足取りで入ってくる。僕はそのたびに顔を上げたが、入ってくるのは別のお客さんばかりだった。

謝りたかった。

あんな言い方をする必要はなかった。おじいさんの話を、もっとちゃんと聞けばよかった。

そう思っているうちに、何週間かが過ぎた。

ある日、常連のお客さんが、レジで近所の話をしていた。

「そういえば、あそこのおじいさん、亡くなったんだってねえ」

僕は、思わず顔を上げた。

詳しいことは分からなかった。ただ、おじいさんがもうこの町にはいないのだと知った。

その夜、僕はひとりでレジを打ちながら、あの日のことを思い出していた。

最後に会ったとき、おじいさんは怒らなかった。

ただ、寂しそうに笑っていた。

あの人は、何のために毎週あの袋を買っていたのだろう。

奥さんに伝えたかった言葉。間に合わなかった最後の別れ。

おじいさんが本当に欲しかったものは、何だったのだろう。


その火曜日、袋はまだ売れずに残っていた。

閉店前の品出しを終えた僕は、棚の隅にある茶色い袋を手に取った。

水曜日になれば、これも廃棄される。

僕はしばらく、袋を眺めていた。

そして、レジを通して自分で買った。

何が入っているのか、少し気になっただけだった。

店を出て、袋を開いた。

中には、一枚の紙が入っていた。

そこには日付と、短い言葉が書かれていた。

僕はそれを見つめたが、すぐには意味が分からなかった。

次に気づいたとき、僕はコンビニのレジに立っていた。

店内の時計は夕方を指していた。いつもの蛍光灯、いつもの商品棚、いつもの自動ドア。

何も変わっていない。

僕はいつもどおり仕事を続けた。客の対応をし、商品の前出しをしているうちに、時間は少しずつ過ぎていった。

やがて、自動ドアが開いた。

おじいさんだった。

その姿を見た瞬間、僕は手を止めた。

これは、あの日だ。

いつものように、ゆっくりとした足取りで入ってきた。手には、いつもの茶色い袋を持っていた。

僕は、顔を上げた。

「こんばんは」

いつもなら、何でもない挨拶だった。

けれど、今日は違った。

「この前は……すみませんでした」

おじいさんは、少し驚いたように僕を見た。

「何がだい?」

「奥さんの話を聞いたとき、ひどいことを言ってしまって。過去をやり直したいって気持ちを、僕は全然分かっていませんでした」

おじいさんは、しばらく黙っていた。

僕は続けた。

「奥さんに、伝えたいことがあったんですよね」

おじいさんは、ゆっくりとうなずいた。

「……ああ。ありがとう、とね」

「そうだったんですね」

僕は、それ以上、何も言えなかった。

過去は戻らない。そんなことは、僕にだって分かっていた。

でも、戻りたいと思う気持ちまで、否定する必要はなかったのだ。

おじいさんは、レジの上に袋を置いた。

「今日は、ここで開けてみようと思ってね」

「ここでですか?」

「ああ。毎週買っているんだが、なかなか思ったものが出なくてね」

僕は、少し不思議に思いながら会計を済ませた。

おじいさんは袋を手に取ったが、すぐには開けなかった。

「一人で開けて、違ったらまた帰る。それも、少し寂しくなってね。今日は君に付き合ってもらおうと思ったんだ」

そう言って、おじいさんは笑った。

おじいさんは中から一枚の紙を取り出した。

そこには、日付が書かれていた。

そして、その下に。

「妻との最後の別れの日」

おじいさんの手が、少し震えていた。

「……今日、やっと欲しい過去が出たよ」

そう言って、おじいさんは笑った。

目には涙が浮かんでいた。

「今度はね、ちゃんと伝えられたんだ」

僕は、何も聞かなかった。

ただ、おじいさんの顔を見ていた。

彼は、泣きながら笑っていた。

その姿を見ているうちに、僕もなぜだか泣きそうになった。

おじいさんは、しばらくして袋を抱え直した。

「ありがとう」

そう言って、店を出ていった。

自動ドアが閉まる。

僕は、ぼんやりとその場に立っていた。

次の瞬間、目の前の景色が揺れた。

気がつくと、僕は袋を開けた場所に立っていた。

時計を見る。

ほんの数秒しか経っていなかった。

それなのに、僕は涙を流していた。

おじいさんが、奥さんに会えたこと。

伝えたかった言葉を、今度こそ伝えられたこと。

そして、僕自身も、あの日の言葉を別のものにできたこと。

いろいろな思いが胸の中にあふれて、止まらなかった。

本当に過去が変わったのかどうかは分からない。

けれど、あの一日は確かにあった。

少なくとも、僕はそう信じていた。


翌週の火曜日、コンビニにはまた、ひとつだけ茶色い袋が入荷した。

僕はそれを、いつもの棚に並べた。

今度は、誰がこの袋を手に取るのだろう。

夜の自動ドアが開いた。

僕は顔を上げた。

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