03:過去を買う人
僕が働いているコンビニには、毎週火曜日になると、ひとつだけ不思議な袋が入荷する。
茶色い紙袋で、表には小さく「過去」と印刷されている。値段は決まっているが、何が入っているのかは分からない。水曜日までに売れなければ、廃棄することになっていた。
最初のうちは、誰も買わなかった。
僕も、変わった商品だなと思う程度だった。店長に聞いても「そういう商品なんだよ」と言うだけで、詳しいことは教えてくれなかった。
その袋を初めて買ったのは、ひとりのおじいさんだった。
ほかの商品と一緒にレジへ持ってきたとき、僕は思わず袋に目を向けた。今まで誰も手に取らなかった商品だったからだ。
「それ、買うんですか?」
口にしてから、少し失礼だったかなと思った。
老人は袋を見下ろし、穏やかに笑った。
「ええ。『過去』っていうのが気になりましてね。何が入っているんでしょう」
「さあ……僕もよく分からないんです。火曜日にひとつだけ入荷するんですけど」
「そうですか。じゃあ、開けてみてのお楽しみですね」
老人はそう言って、ほかの商品と一緒に会計を済ませた。
その日から、老人は毎週火曜日になると店に来るようになった。
次の火曜日も、その次の火曜日も、老人はあの袋を買っていった。
何度も顔を合わせるうちに、僕たちは少しずつ言葉を交わすようになった。
「今日は寒いねえ」
「そうですね。夜は冷えますから」
そんな、何でもない会話だった。
ある火曜日、おじいさんは会計のあと、ふと思い出したように話し始めた。
「うちの女房はね、花が好きだったんだよ」
「へえ、そうなんですか」
「ああ。庭に花を植えてね。私は花なんてさっぱり分からなかったが、女房が喜ぶから、毎年一緒に選んでいたんだ」
おじいさんは懐かしそうに笑った。
僕はレジの袋詰めをしながら、その話を聞いていた。
それから何度か、奥さんの話を聞くようになった。二人で旅行したこと、若い頃に暮らしていた家のこと、奥さんがよく作ってくれた料理のこと。
話し方はいつも穏やかだった。けれど、ある日、おじいさんは少し違う話をした。
「女房が亡くなったとき、私は仕事をしていてね。連絡をもらったんだが、すぐには抜けられなかった」
おじいさんは、レジの向こうで静かに笑っていた。
「結局、間に合わなかったんだよ」
僕は何も言えなかった。
「最後に、ありがとうと言いたかった。ずっと支えてもらっていたのに、そんな簡単な言葉すら伝えられなかったんだ」
おじいさんはビニール袋を持ち直した。
「もし、あの日に戻れたらなあ」
しばらくして、おじいさんは僕に尋ねた。
「君、昨日をやり直したいと思ったことはあるかね」
「ありますけど……まあ、誰でもあるんじゃないですか」
おじいさんは笑った。
「そうだな。だが、過去はやり直せない」
僕は思わず、袋に目をやった。
「だったら、そんな袋を買っても意味ないんじゃないですか」
自分でも、少し言いすぎたと思った。けれど、口に出してしまった言葉は戻らなかった。
「亡くなった人に、今さら何を伝えたって仕方ないでしょう」
おじいさんは、怒らなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
「……そうだね。君の言うとおりかもしれない」
それから顔を上げ、いつものように笑った。
「でも、どうしても戻ってみたい日があるんだよ」
おじいさんは会計を済ませ、ビニール袋を持って店を出ていった。
僕は、その後ろ姿を見送った。
何かひどいことを言ってしまった。そんな気がした。
けれど、過去は戻らない。亡くなった人に、言葉を届けることもできない。
僕はそう思っていた。
次の火曜日、おじいさんは来なかった。
その次の火曜日も、姿を見せなかった。
いつもなら、夜になると自動ドアが開き、ゆっくりとした足取りで入ってくる。僕はそのたびに顔を上げたが、入ってくるのは別のお客さんばかりだった。
謝りたかった。
あんな言い方をする必要はなかった。おじいさんの話を、もっとちゃんと聞けばよかった。
そう思っているうちに、何週間かが過ぎた。
ある日、常連のお客さんが、レジで近所の話をしていた。
「そういえば、あそこのおじいさん、亡くなったんだってねえ」
僕は、思わず顔を上げた。
詳しいことは分からなかった。ただ、おじいさんがもうこの町にはいないのだと知った。
その夜、僕はひとりでレジを打ちながら、あの日のことを思い出していた。
最後に会ったとき、おじいさんは怒らなかった。
ただ、寂しそうに笑っていた。
あの人は、何のために毎週あの袋を買っていたのだろう。
奥さんに伝えたかった言葉。間に合わなかった最後の別れ。
おじいさんが本当に欲しかったものは、何だったのだろう。
その火曜日、袋はまだ売れずに残っていた。
閉店前の品出しを終えた僕は、棚の隅にある茶色い袋を手に取った。
水曜日になれば、これも廃棄される。
僕はしばらく、袋を眺めていた。
そして、レジを通して自分で買った。
何が入っているのか、少し気になっただけだった。
店を出て、袋を開いた。
中には、一枚の紙が入っていた。
そこには日付と、短い言葉が書かれていた。
僕はそれを見つめたが、すぐには意味が分からなかった。
次に気づいたとき、僕はコンビニのレジに立っていた。
店内の時計は夕方を指していた。いつもの蛍光灯、いつもの商品棚、いつもの自動ドア。
何も変わっていない。
僕はいつもどおり仕事を続けた。客の対応をし、商品の前出しをしているうちに、時間は少しずつ過ぎていった。
やがて、自動ドアが開いた。
おじいさんだった。
その姿を見た瞬間、僕は手を止めた。
これは、あの日だ。
いつものように、ゆっくりとした足取りで入ってきた。手には、いつもの茶色い袋を持っていた。
僕は、顔を上げた。
「こんばんは」
いつもなら、何でもない挨拶だった。
けれど、今日は違った。
「この前は……すみませんでした」
おじいさんは、少し驚いたように僕を見た。
「何がだい?」
「奥さんの話を聞いたとき、ひどいことを言ってしまって。過去をやり直したいって気持ちを、僕は全然分かっていませんでした」
おじいさんは、しばらく黙っていた。
僕は続けた。
「奥さんに、伝えたいことがあったんですよね」
おじいさんは、ゆっくりとうなずいた。
「……ああ。ありがとう、とね」
「そうだったんですね」
僕は、それ以上、何も言えなかった。
過去は戻らない。そんなことは、僕にだって分かっていた。
でも、戻りたいと思う気持ちまで、否定する必要はなかったのだ。
おじいさんは、レジの上に袋を置いた。
「今日は、ここで開けてみようと思ってね」
「ここでですか?」
「ああ。毎週買っているんだが、なかなか思ったものが出なくてね」
僕は、少し不思議に思いながら会計を済ませた。
おじいさんは袋を手に取ったが、すぐには開けなかった。
「一人で開けて、違ったらまた帰る。それも、少し寂しくなってね。今日は君に付き合ってもらおうと思ったんだ」
そう言って、おじいさんは笑った。
おじいさんは中から一枚の紙を取り出した。
そこには、日付が書かれていた。
そして、その下に。
「妻との最後の別れの日」
おじいさんの手が、少し震えていた。
「……今日、やっと欲しい過去が出たよ」
そう言って、おじいさんは笑った。
目には涙が浮かんでいた。
「今度はね、ちゃんと伝えられたんだ」
僕は、何も聞かなかった。
ただ、おじいさんの顔を見ていた。
彼は、泣きながら笑っていた。
その姿を見ているうちに、僕もなぜだか泣きそうになった。
おじいさんは、しばらくして袋を抱え直した。
「ありがとう」
そう言って、店を出ていった。
自動ドアが閉まる。
僕は、ぼんやりとその場に立っていた。
次の瞬間、目の前の景色が揺れた。
気がつくと、僕は袋を開けた場所に立っていた。
時計を見る。
ほんの数秒しか経っていなかった。
それなのに、僕は涙を流していた。
おじいさんが、奥さんに会えたこと。
伝えたかった言葉を、今度こそ伝えられたこと。
そして、僕自身も、あの日の言葉を別のものにできたこと。
いろいろな思いが胸の中にあふれて、止まらなかった。
本当に過去が変わったのかどうかは分からない。
けれど、あの一日は確かにあった。
少なくとも、僕はそう信じていた。
翌週の火曜日、コンビニにはまた、ひとつだけ茶色い袋が入荷した。
僕はそれを、いつもの棚に並べた。
今度は、誰がこの袋を手に取るのだろう。
夜の自動ドアが開いた。
僕は顔を上げた。




