第9話 選ばれる理由
視察団が王都へ逃げ帰ってから三日。
ゼムスの街を流れる空気は、どこか誇らしげに変わっていた。
役所の壁に貼られた予算執行の進捗表。
そこにある数字は、もはや単なる記号ではなく、街を照らす灯りや補修された道路を意味している。
朝一番に、私は長官室に呼び出された。
「入ります」
重厚な木の扉を開ける。
長官のバルトロメウスは、いつものようにパイプをくわえていた。
だが、その視線は以前のような値踏みする鋭さではなく、親愛を込めた厳しさに変わっている。
「エルフォード。いや、リュシアと言ったほうがいいか」
「肩書きで呼んでいただければ幸いです。長官」
私は足を揃え、背筋を伸ばした。
長官は机の上に、一枚の分厚い書類を置いた。
そこにはゼムス役所の公式な刻印が押されている。
「補助官の任期は、本日をもって終了とする」
「……そうですか。予定より早いですね」
私は淡々と答えた。
契約を打ち切り、王都へ送り返すというのなら、それも一つの選択だ。
荷物は一時間でまとめられる。
だが、長官が差し出したのは解雇通知ではなかった。
「今日からは正職員だ。役職は『財務統括主査』。新設のポストだ。お前には、カイルと並んでこの街の財政と企画の全権を握ってもらう」
「主査、ですか」
予想外の言葉に、私は一瞬だけ言葉を失った。
補助官から主査への昇格。
それは本来、数年の実績を積んだ文官に与えられる地位だ。
「お前を『使えるかどうか』で判断すると言ったはずだ。結果は出た。お前がいなければ、この街は今頃まだ横領の温床だっただろう」
「……過分な評価です」
「謙遜するな。これは取引だ。お前の能力を、俺はこの街のために買う。拒否する権利はないぞ」
長官は獰猛に笑った。
それは、私がこの場所で「選ばれた」ことを意味していた。
王都では、私は家名や噂というフィルターを通してしか見られなかった。
けれどここでは、リュシアという一人の人間が、その実績によって定義されている。
「謹んで、お受けいたします」
私は深く一礼した。
部屋を出ると、廊下でカイルが待っていた。
彼は私の顔を見ると、全てを察したように頷いた。
「聞いたか。主査への就任」
「ええ。驚きました」
私たちは並んで、執務室へと歩き出す。
カイルの横顔は、朝の光を浴びて清々しく見えた。
「君が来てから、この役所は変わった。……いや、私が変わったのかもしれない」
「カイル?」
彼はふと足を止め、窓の外の街並みを眺めた。
「私はかつて、王都の財務局にいた。そこで見たのは、数字を弄んで私腹を肥やす貴族たちだけだった。真面目に計算をする者が馬鹿を見る世界。それに絶望して、私は自ら辺境を志願したんだ」
初めて聞く、彼の過去だった。
彼の徹底した合理主義と冷徹さは、汚職への忌避感から生まれた防壁だったのだ。
「だが、君は違った。不利な状況でも、誰かを恨むこともせず、ただ最善の数字を積み上げ続けた。君の計算盤の音を聞いていると、自分が信じてきた『正しさ』が間違っていなかったと思えるんだ」
カイルが私に向き直る。
その瞳には、強い光が宿っていた。
「リュシア。君はこの街の、そして私の希望だ。これからも、隣で共に戦ってほしい」
「カイル……」
私は答えようとして、口を閉ざした。
彼の言葉は、あまりにも重く、温かかった。
「助ける」という慈悲ではない。「共に」という対等な誓い。
それが私の胸に、静かな波紋を広げていく。
執務室に戻ると、私の机の上に一通の手紙が置かれていた。
またしても王都の消印。
だが、今回はアルヴァ伯爵からではない。
差出人は、父――エルフォード卿。
私は嫌な予感を覚えながら、その封を切った。
『リュシアへ。
お前の活躍、王都でも聞き及んでいる。
今までの無礼、父として恥じるばかりだ。
お前の勘当は取り消すことにした。
これは父の温情だ。
すぐに王都へ戻り、エルフォード家の再興に協力しなさい。
お前のための、新しい縁談も用意してある』
指先が冷たくなるのを感じた。
怒りではない。
あまりの身勝手さに対する、呆れだ。
都合が悪くなれば捨て、価値が出れば拾い上げる。
彼は私を、実の娘ではなく、高価な調度品か何かだと思っているらしい。
【ナレーション】
(王都のエルフォード家は、リュシアが考案した魔導演算システムのライセンス料が途絶え、経済的に窮地に陥っていた。彼女を呼び戻すことは、家門の存続をかけた必死の工作であった)
「……リュシア。顔色が悪いぞ」
カイルが心配そうに覗き込んでくる。
私は無言で、手紙を彼に見せた。
カイルは読み進めるうちに、その表情を怒りに染めていった。
「絶縁を撤回する? どの面を下げて……! 冗談ではない。君はゼムスの主査だ。王都の腐った実家になど、指一本触れさせない」
カイルが手紙を握りつぶそうとしたが、私はそれを止めた。
「いいえ。これは大切に保管しておきます。私が、二度とあそこへ戻らない理由として」
私は冷静にペンを執った。
事務用の簡素な便箋に、たった一文だけを記す。
『私は現在、辺境都市ゼムスの主査として公務に従事しております。王都の民間人からの個人的な要請に応じる時間はございません。以後、書状の送付はお控えください』
父という言葉も、娘という言葉も使わない。
それは、家族という関係性の完全な終焉を意味していた。
「……これでいいわ。カイル、次の仕事は何かしら」
私は計算盤を引き寄せた。
過去の残骸に費やす時間など、今の私には一秒もない。
「次は、街の学校の改修予算だ。……ああ、そうだ。君の言う通りだ、リュシア。過去ではなく、未来の数字を書こう」
私たちは席に着いた。
窓を打つ風の音は激しくなりつつある。
王都の影が、再び私を飲み込もうと手を伸ばしているのを感じる。
けれど、今の私には、共に戦う仲間と、守るべき場所がある。
静かな才女は、もう二度と噂の外側で泣いたりはしない。




