第8話 噂の歪み
王都からの視察団は、砂埃を上げて役所の前に現れた。
立派な馬車から降りてきたのは、磨き上げられた靴を履き、鼻持ちならない香水の匂いを漂わせた文官たちだ。
「おやおや。これはまた、随分と……歴史を感じる建物ですね」
先頭を歩く男が、扇子で顔を仰ぎながら言った。
エドガー・ハイン。
学術院にいた頃、私の助手の一人だった男だ。
彼は私を見ると、目を見開き、それから唇を歪めて笑った。
「これは驚いた。リュシア・エルフォード……元先輩じゃないですか。こんな辺境の役所で、泥にまみれて何をしているんです?」
私は立ち上がり、一礼した。
感情を動かす必要はない。
彼は今、私の目の前で「観察対象」として存在しているだけだ。
「行政補助官として職務に励んでおります。ハイン様」
「補助官! ははっ、あの天才リュシアが、ただの書き写し係ですか。王都では、貴女が禁忌の術式に手を出して発狂したという噂で持ちきりですよ。ここなら、誰も爆発に巻き込まれなくて安心だ」
エドガーの背後にいる文官たちから、忍び笑いが漏れる。
彼らの視線は、憐れみと嘲弄に満ちていた。
その様子を、隣のカイルが冷めた目で見つめている。
「……ハイン様。本日の目的は、ゼムスの予算執行状況の監査ですね。私的な再会を喜ぶのは、後にしていただけますか」
カイルが割って入る。
その声は氷のように冷たかった。
エドガーはカイルの官服を一瞥し、鼻を鳴らした。
「ああ、失礼。ここの担当官ですか。まあ、適当に見せてもらいますよ。どうせ杜撰な計算で、中央からの予算を食い潰しているんでしょう?」
私たちは彼らを会議室へと案内した。
長官は不在。
あえて「現場の人間」だけで対応しろというのが、長官の指示だった。
【ナレーション】
(王都の文官たちは、地方都市の役所を「無能の溜まり場」と見なす傾向が強い。特にゼムスのような辺境は、書類の体裁すら整っていないと高を括っていた)
エドガーは机にふんぞり返り、顎で「出せ」と促した。
私は用意していた一冊の綴じ込みを、彼らの前に置いた。
この一ヶ月、私とカイルが作り直した、最新の予算再編計画書だ。
「……何だ、これは」
エドガーが最初の一頁を捲った瞬間、顔から余裕が消えた。
彼は目を擦り、もう一度紙面を睨みつけた。
「項目別の流動資金の可視化。それと、回収した横領金による公共投資のシミュレーションです。現在のゼムスは、王都からの補助金に頼らずとも、自立した財政再建の軌道に乗っています」
私は淡々と説明を付け加えた。
エドガーの指が震え始める。
二頁、三頁。
捲る速度が上がるにつれ、周囲の文官たちも身を乗り出してきた。
「この、複雑な魔導計算式の応用は……何だ。税収の予測モデルに、三元演算を使っているのか?」
「はい。不確定要素を排除するためには、それが最も効率的ですので」
会議室に沈黙が降りた。
王都の最新の学術理論を、行政の実務に完璧に落とし込んでいる。
それは彼らが王都の快適な研究室で、空論として語り合っているものよりも、遥かに高度で、かつ実用的だった。
「……リュシア。君は、王都で何をしていた?」
エドガーの声から、嘲りが消えていた。
代わりにあったのは、隠しようのない恐怖だ。
彼は、私が「失墜」などしていないことを、目の前の紙切れ一枚から悟ったのだろう。
「研究をしておりました。不純物の混じった触媒が、いかに真実を歪めるかという研究を」
私がそう告げると、エドガーの顔が真っ青になった。
かつての事故の際、彼が誰の指示で動いていたか。
私は断定しない。
だが、私の視線を避けた彼の態度は、十分な「答え」を示していた。
「あ、ありえない……! 貴女は危険思想で追放されたはずだ! なぜ、こんな……こんな完璧な仕事ができる!」
「数字に思想は関係ありません。正しく計算すれば、正しい結果が出る。それだけです」
カイルが私の横に立ち、腕を組んだ。
「視察団の皆様。これで監査は終了ということでよろしいですね? 納得いただけたのなら、早急に王都へ戻り、正確な報告書を提出していただきたい。我々は忙しいので」
エドガーたちは、這う失意の中で立ち上がった。
彼らが持ってきた「爆弾令嬢」という噂の盾は、すでに粉々に砕けていた。
彼らがこれから王都へ持ち帰るのは、私の狂気の証拠ではない。
「自分たちよりも遥かに有能な女を、王都は捨てた」という、残酷な事実だ。
【ナレーション】
(視察団の報告は、後に王都の官僚組織に大きな波紋を呼ぶことになる。リュシア不在の学術院で、同様の研究がことごとく失敗していた事実が、この日を境に明るみに出始めるからである)
馬車へ戻るエドガーの背中は、ひどく小さく見えた。
彼は一度だけ振り返り、何かを言いかけて、結局そのまま馬車に乗り込んだ。
「……リュシア。いいのか、追い打ちをかけなくて」
カイルが、去り行く馬車を見送りながら尋ねてきた。
私は首を振る。
「彼らにかける言葉はありません。私の価値は、彼らが決めるものではありませんから」
私は執務室へ戻るため、歩き出した。
復讐でも、逆転でもない。
ただ、静かに自分の仕事を続けるだけ。
それが一番、彼らに対して残酷な回答になることを、私は知っていた。
「さあ、仕事に戻りましょう、カイル。午後は物流の再計算があります」
「ああ。……全く、君には敵わないな」
カイルの笑い声が、廊下に響いた。
王都からの不快な風は、もう過ぎ去っていた。




