第7話 王都からの報せ
カイルとの夜の誓いから、三日が過ぎた。
役所の空気は、驚くほど軽やかになっている。
「おはようございます、リュシアさん」
「おはようございます」
廊下を歩けば、自然に挨拶が返ってくる。
かつて私を避けていた職員たちが、今は私の前で足を止める。
その手には、しばしば焼きたての菓子や、自宅の庭で採れた果物が握られていた。
「これ、家内がリュシアさんにって。計算のお礼だそうです」
「ありがとうございます。皆様で分けていただきますね」
私は受け取った林檎を胸に抱き、執務室へ入った。
席に着くと、隣のカイルがすでに書類の山と格闘している。
彼は私を見ると、少しだけ目元を和らげた。
「人気者だな。予算再編の効果が、もう末端の職員にまで届いているらしい」
「数字が具体的になっただけです。不透明な支出を削り、彼らの残業手当や備品費に回しましたから」
私は林檎を一つ、彼の机に転がした。
カイルは器用にそれを片手で受け止め、引き出しに仕舞う。
「第一段階は完了だ。建築課から取り戻した予算で、街灯の魔法銀を新調できる。これで夜間の犯罪率も下がるだろう」
「次は物流ですね。関税の計算方式を見直せば、さらに五パーセントは浮くはずです」
私たちは、阿吽の呼吸で次の作業に取り掛かった。
カイルが叩き台を作り、私が計算盤で精度を高める。
淀みのない連携。
王都での研究生活にはなかった、実利に直結する充実感。
だが、昼休みを告げる鐘が鳴る直前。
その平穏に、冷たい楔が打ち込まれた。
「エルフォード。……いや、リュシア。王都から書状だ。公用便ではなく、個人の早馬で届いた」
長官が、不機嫌そうに一通の封筒を持ってきた。
紋章を見て、私の指先が止まる。
アルヴァ伯爵家の、青い蝋封。
セドリックの父。
王都でも屈指の権勢を誇る、保守派貴族の重鎮だ。
「……ありがとうございます、長官」
私は丁寧な手つきで、封を切った。
セドリックから届いたあの冷淡な破棄通告とは、紙の質からして違う。
最高級の羊皮紙に、威圧感のある端正な文字。
読み進めるうちに、私の眉の間に小さな皺が寄った。
『リュシア嬢へ。
息子の至らぬ振る舞いにより、心労をかけていることを深く憂慮している。
先日の通告は、若さゆえの軽率な判断であったと言わざるを得ない。
君の研究に関する新事実が、こちらでも浮上しつつある。
一度、冷静に話し合う機会を設けたい。
君の帰還を、アルヴァ家は歓迎する用意がある』
一文字ずつ、頭の中で反芻する。
不自然だ。
あまりにも、アルヴァ伯爵らしくない。
彼は損得勘定の塊のような人物だ。
泥を塗った相手に、これほど下手に出るはずがない。
「……何かあったのか」
カイルが、私の表情を覗き込んでいた。
私は無言で、手紙を彼に差し出した。
カイルは素早く目を通し、鼻で笑った。
「歓迎、だと? どの口が言っている」
「カイル、どう思いますか。この文面、単なる謝罪ではありません」
私は自分の推測を言葉にした。
根拠は、二行目の「新事実」という言葉だ。
「王都で、私の研究事故の再調査が始まっている可能性があります。そうでなければ、一度切り捨てた私に、伯爵がわざわざ頭を下げる理由がありません」
「だろうな。……それに、もう一つ理由がある」
カイルは手紙を机に叩きつけた。
「ゼムスの予算正常化と、横領事件の解決。このニュースが、すでに王都に届いている。君がただの『爆弾令嬢』ではなく、卓越した行政能力を持つと知って、慌てて所有権を主張しに来たんだろう」
カイルの言葉は鋭かった。
それは私の中にあった違和感と、ぴたりと一致した。
アルヴァ伯爵は、私の「価値」が再定義されたことに気づいたのだ。
だからこそ、セドリックの失態を「若さゆえ」という言葉で塗り潰そうとしている。
「……戻るつもりはあるか?」
カイルの問いに、私は迷わずに首を振った。
手紙を三つに折り、引き出しの奥――セドリックからの手紙と同じ場所へ放り込む。
「ありません。評価が変わったからといって、掌を返すような方々です。戻っても、また別の理由で切り捨てられるだけでしょう」
私の声は、自分でも驚くほど冷えていた。
信頼は積み重ねだ。
一度崩れた石積みを、美しい言葉だけで修復することはできない。
【ナレーション】
(リュシア・エルフォードの決別は、彼女自身が思うよりも冷徹で、強固なものであった。彼女はもはや、王都の貴族社会という小さな枠組みで自分を測ることをやめていたのである)
「返信はどうする」
「無視します。……と言いたいところですが、礼儀として一通だけ。
『辺境の地での職務に邁進しております。お気遣いなく』と」
カイルが、今日一番の明るい笑みを浮かべた。
彼はペンを走らせる私の横顔を、眩しそうに見つめている。
「いい返事だ。……さあ、仕事に戻ろう。アルヴァ伯爵が欲しがって、手が届かないほどの成果を、これからさらに積み上げてやるんだ」
私は頷いた。
窓の外には、冬の澄んだ空が広がっている。
王都では今頃、歪み始めた噂に誰かが頭を抱えているのだろう。
けれど、私はもう、その噂の外側にいる。
計算盤の音が、再び室内に響き始める。
それは過去を断ち切り、新しい未来を刻む音だった。




