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静かな才女は言い訳をしない〜理不尽に捨てられたので、辺境で信頼を積み上げます〜  作者: 九葉(くずは)


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第6話 対等な会話

窓の外は、完全な夜に支配されていた。

執務室の明かりは、私の机とカイルの机のランプだけが灯っている。

昼間の喧騒が嘘のように、建物全体が深い静寂に包まれていた。


パチリ、と計算盤の珠を弾く。

建築課から押収された第二陣の帳簿は、予想通り「端数」の操作で溢れていた。

これを全て洗い出すには、まだ数晩は必要だろう。


不意に、重い扉が開く音がした。

廊下の冷たい空気が流れ込む。

振り返ると、官服を少し乱したカイルが立っていた。

手には、湯気の立つ二つのマグカップと、紙に包まれたパンを持っている。


「まだやっていたのか。無理をしろとは言っていない」


カイルは歩み寄り、私の机の隅にカップを置いた。

立ち上る香りは、安価だが力強い茶葉の匂いだ。


「キリが悪いので。……カイル様こそ、警備隊との調整はどうなったのですか」

「『様』はやめろ。役職も階級も、今はそれほど変わらない」


カイルは隣の自分の席に座り、大きく息を吐いた。

背もたれに体を預ける彼の横顔には、隠しようのない疲労が滲んでいる。

だが、その唇はわずかに弧を描いていた。


「主犯は全て拘束した。証拠がこれだけ揃っていれば、言い逃れはできないだろう。……君のおかげだ」


カイルはカップを手に取り、熱い液体を一口啜った。

それから、思い出したように包みの中のパンを私に差し出す。

ゼムスの街で一番売れているという、黒麦の堅焼きパンだ。


「ありがとう。いただきます」


私も手を止め、パンを一口齧った。

王都のティータイムに出される繊細な菓子とは程遠い、野性味のある味だ。

噛みしめるほどに、自分が今、辺境という地に足をつけて生きている実感が湧く。


「……リュシア。一つ聞いてもいいか」


カイルが、暗闇の中に視線を投げたまま問いかけてきた。


「君ほどの計算能力と、事象の構造を把握する力があれば、王都でもそう簡単に失墜はしないはずだ。例の『研究事故』、何があった」


直球の問いだった。

同情も、好奇心も感じられない。

ただ、目の前の同僚が抱える「変数」を確認したいという、実務家らしい響き。

だからこそ、私はありのままを話す気になった。


「魔力暴走事故でした。私の計算式は完璧でしたが、投入された触媒に不純物が混ざっていた。私はそれを指摘しましたが、学院は『リュシア・エルフォードが禁忌の術式を試みて失敗した』という筋書きを選んだのです」

「……なぜだ。不純物の調査をすれば、すぐに済む話だろう」

「その不純物を混ぜたのが、学院の有力なスポンサーの関係者だったからです。そして、私の婚約者の実家も、そのスポンサーと深い繋がりがあった」


カイルは、持っていたカップを机に置いた。

陶器が当たるカツンという音が、静かな部屋に響く。


「……なるほど。真実よりも、組織の存続と資金源を優先したわけか」

「はい。私は、その判断を合理的だと思いました。一人の令嬢の将来と、学院の運営資金。天秤にかければ、答えは明白です」


私が淡々と告げると、カイルが初めて声を立てて笑った。

それは自嘲のようでもあり、呆れているようでもあった。


「君は、どこまで自分を客観視しているんだ。……だが、その合理性は間違っている。短期的な資金を得るために、君のような才能を追放する。それは組織にとって、長期的には致命的な損失だ。少なくとも、私はそんな計算はしない」


カイルは椅子を回し、私の方へ向き直った。

彼の瞳が、ランプの光を反射して鋭く輝く。


「王都での評価など、ここでは何の価値もない。私の目は、君が今日見せた成果だけを信じている。……リュシア。改めて頼みたい」

「何でしょうか」

「明日から、役所全体の予算再編プロジェクトを立ち上げる。長官の許可は取った。君には、その主査……いや、私の対等なパートナーとして、数字の精査を任せたい」


「補助官」としての雑用ではなく、政策の根幹に関わる提案。

カイルは私を、助けるべき弱者でも、利用すべき道具でもなく、共に戦う「専門家」として扱っていた。


「……光栄です。カイル」


私も、彼の名を通称で呼んだ。

それは、私たちが過去や噂から切り離された、ただの仕事仲間になった合図だった。


「私の計算に、感情は混じりません。不利益な数字も、忖度なく報告しますが、よろしいですね?」

「ああ。それを望んでいる」


カイルは満足そうに頷き、最後のパンを口に放り込んだ。


【ナレーション】

(この夜、辺境都市ゼムスの命運を左右する二人の官僚の間で、一つの誓約が交わされた。それは愛の告白よりも強固な、理知による信頼の結びつきであった)


「さて。明日からは地獄のような忙しさになるぞ。今日はもう帰れ。これは、上司ではなくパートナーとしての忠告だ」


カイルが立ち上がり、私の肩を軽く叩いた。

その手の熱が、厚い官服を通して伝わってくる。

久しく忘れていた、誰かに背中を預ける感覚。


「分かりました。……おやすみなさい、カイル」


私は机を片付け、ランプを吹き消した。

部屋を出る際、最後にもう一度だけ振り返る。

カイルはすでに自分の机に戻り、ペンを握っていた。


王都の噂は、もうここには届かない。

私は夜の冷たい空気の中を、確かな足取りで宿へと向かった。

明日、書き換えられる数字の海が、私を待っている。

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