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静かな才女は言い訳をしない〜理不尽に捨てられたので、辺境で信頼を積み上げます〜  作者: 九葉(くずは)


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第5話 数字は嘘をつかない

昼休みの執務室は静かだった。

遠くで街の鐘が鳴り、職員たちの足音が遠ざかっていく。

私は、先ほど預かった建築課の帳簿にペンを走らせていた。


計算盤の珠を弾く音が、室内に規則正しく響く。

隣では、カイル・ノーヴァンが席を立たずにいた。

彼は食事を摂る様子もなく、私が開いているノートを食い入るように見つめている。


「……リュシア。そこだ。なぜ、その数字を飛ばした?」


カイルが私の手元を指差した。

彼の声には、監視するような鋭さはなかった。

純粋な、知識への渇望がある。

彼は私の「逆算の手順」を、その目で盗もうとしていた。


「この一行は、資材の乾燥による目減り分として計上されています。ですが、今の季節の湿度では、これほどの数値が出ることは物理的にあり得ません」

「つまり、架空の損失か」

「はい。そして、この目減りしたはずの資材が、別の頁では『端数処理』として切り捨てられています。二重の操作です」


私はインクを吸取紙で押さえ、一つの結論を導き出した。

端数。

一リンに満たない小さな数字。

それが数千、数万と積み重なれば、巨大な金貨の山になる。


「……建築課の担当者は、これを『計算ミス』だと私に言いました」

「ミスではない。極めて緻密に計算された略奪だ」


カイルが椅子を鳴らして立ち上がった。

彼の顔は、怒りよりも驚嘆に染まっているように見えた。

彼は私の手元の帳簿を手に取ると、そのまま長官室の方へ視線を向けた。


「長官に報告する。君も来い」


【ナレーション】

(辺境都市ゼムスにおける建築資材は、王都からの供給に頼らざるを得ないため、その価格は輸送コストを含めて常に変動している。その不透明さが、長年、汚職の温床となっていた)


長官室の重い扉を、カイルが力強く叩いた。

入室を許可する声が響く前に、カイルは中へ踏み込む。

長官のバルトロメウスは、パイプを燻らせながら窓の外を眺めていた。


「長官。例の建築課の帳簿です。リュシアが裏付けを取りました」


カイルが「リュシア」と口にした。

名字ではなく、名前だ。

私は一瞬だけ彼を見たが、彼は前を見据えたままだった。


長官は私の提出した集計表をひったくるように受け取った。

彼は表を上から下まで眺め、次に私を見た。


「一時間かそこらでこれを見つけたのか、エルフォード」

「構造を把握すれば、あとは単純作業です」

「……ふん。単純、か」


長官はパイプを灰皿に叩きつけ、ニヤリと笑った。

その笑みには、昨日までの「値踏み」ではない、確信めいた力強さがあった。


「カイル。即座に警備隊を動かせ。建築課の課長と担当者を拘束しろ。それと、市内の資材置き場の帳簿をすべて押収しろ」

「承知いたしました」

「エルフォード! お前はここで、押収される帳簿の精査を行え。一リンの逃しも許さんぞ」


私は頷いた。

長官の指示は合理的だ。

今、この瞬間にも、証拠は隠滅される可能性がある。


長官室を出ると、カイルが私の前で足を止めた。

彼は私を真っ直ぐに見つめ、短く言った。


「リュシア。……助かった。これでおそらく、街の予算の二割は戻ってくる」

「私は、数字の不備を指摘しただけです」

「それをできる人間が、この街には一人もいなかったんだ。……行くぞ。君の能力は、もう噂などで隠せるものではなくなっている」


カイルはそれだけ告げると、階段を駆け下りていった。

彼の後ろ姿には、昨日までの冷徹な官僚の面影はない。

信頼を寄せる「相棒」としての熱があった。


執務室に戻ると、空気が一変していた。

職員たちが席に戻っていたが、彼らはもう私を遠巻きにはしていなかった。


「あの、エルフォードさん……いえ、リュシアさん」


昨日のマリア・フェンが、震える手で一束の書類を差し出してきた。

彼女の背後には、数人の職員が控えている。

皆、手に手に帳簿や領収書の束を抱えていた。


「これ、ずっとおかしいと思ってたんです。税務課の還付金リストなんですけど、見てもらえませんか?」

「こっちの備品購入費もお願いします!」

「次は私の部署を……!」


それは、畏怖ではなく、実利への期待だった。

「爆弾令嬢」という噂よりも、「この女は問題を解決できる」という事実が勝ったのだ。

私は差し出された書類の山を眺めた。


「順番に。まず、還付金リストから拝見します」


私は椅子に深く座り、計算盤を引き寄せた。

王都では、私の言葉は誰にも届かなかった。

婚約者も、父も、私の出す成果より世間の顔色を選んだ。


だが、この辺境では違う。

一リンの計算、一枚の書類。

その積み重ねが、確実に他人の態度を書き換えていく。


私はペンを握った。

周囲から聞こえる囁きは、もう私の心を逆撫ですることはない。

数字は、嘘をつかない。

そして今の私には、この冷徹な数字こそが、何よりも確かな武器だった。

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