第4話 第三者の違和感
宿での一晩は、驚くほど深く眠れた。
王都の屋敷のような絹の寝具ではない。
藁の混じった硬いベッドだったが、思考を使い切った体には心地よかった。
役所の門をくぐると、昨日とは違う空気を感じた。
職員たちの視線が、私の背中に突き刺さる。
だが、そこにあるのは鋭い敵意だけではない。
観察するような、あるいは測りかねているような、粘り気のある困惑だ。
「おはようございます」
執務室に入り、自分の席に向かう。
カイル・ノーヴァンは、すでに席についていた。
彼の手元には、私が昨日積み上げた修正書類の束がある。
「……おはよう」
カイルの声は低く、どこか掠れていた。
彼の目の下には、昨日より少しだけ濃い隈がある。
彼は私が席に着くのを待って、一束の書類を机に置いた。
「これを確認した。三年前の暖房費の件だ。私の再検算と結果が一致した」
「左様ですか。お疲れ様です」
「……それだけか?」
カイルが鋭い視線を向けてくる。
彼はペンを置き、私の顔をじっと見つめた。
「あの量を数時間で終えるには、単純な計算速度だけでは足りない。君は、どの項目から優先順位をつけた。領収書を日付順ではなく、金額の規模別に分けたのはなぜだ?」
根拠を求めている。
彼の目は、私の能力を疑っているのではなく、その「理屈」を解き明かそうとしていた。
私は自分のノートを広げ、カイルに見えるように置いた。
「まず全体の総予算を確認しました。そこから大きなズレがある月を特定し、その期間の領収書だけを抽出したのです。全ての数字を等しく扱うのは、時間の無駄ですから」
「……逆算か。帳簿の正しさを証明するのではなく、間違いを探すことに特化したやり方だな」
カイルは納得したように頷き、自分の手帳に何かを書き留めた。
その時、執務室の奥から野太い声が響いた。
「エルフォード! カイル! 入れ!」
長官、バルトロメウスの声だ。
私たちは顔を見合わせ、長官室の扉を叩いた。
部屋の中では、長官が私が昨日仕上げた書類を広げていた。
彼は私たちが並んで立つのを見上げ、鼻を鳴らす。
「カイル、この数字に間違いはないか」
「……はい。私の検算とも合致しました。彼女の手法は極めて合理的です」
長官は書類の束を、乱暴に机に放り出した。
バサリ、と乾いた音が部屋に響く。
彼は無言で、私を値踏みするように睨みつけた。
「三日と言ったはずだ」
「はい。ですが、一箱目を終えなければ二箱目に着手できませんので。効率を優先しました」
私の回答に、長官は一瞬だけ口角を上げた。
笑った、というよりは、獲物を見つけた猛獣のような表情だ。
「いいだろう。カイル、残りの木箱もすべて彼女に回せ。その代わり、カイル、お前は彼女の出した『修正案』を元に、各部署へ予算の返還請求書を作成しろ」
「……承知いたしました」
カイルが短く応じる。
それは、私がこの役所の「正式な工程」に組み込まれた瞬間だった。
【ナレーション】
(辺境都市ゼムスの役所において、外部からの異動者が初日で実務の基幹に関わることは極めて異例である。リュシアの処理能力は、長官の予測を上回る速さで現状を動かし始めていた)
長官室を出て自分の席に戻ろうとした時、一人の職員に呼び止められた。
昨日、遠くから私を見ていた中年の男性だ。
彼は周囲を気にしながら、脇に抱えた厚い帳簿を私の机に置いた。
「あの、エルフォードさん……。これを少し、見ていただけないか」
「これは?」
「建築課の資材管理表なんだが、どうしても数字が数リン合わなくてね。君なら、何か気づくかと思って……」
彼の声は小さいが、必死さが伝わってきた。
カイルが横から鋭い視線を送ってくるのが分かる。
担当外の仕事に手を出すべきではない。
それが組織の鉄則だ。
だが、私は帳簿を受け取った。
「爆弾令嬢」という噂を恐れるよりも、彼らは「仕事が進まない停滞」を恐れ始めている。
それは良い兆候だった。
「昼休みまでにお返しします。ただし、正式な依頼ではないので、私の名前は出さないでください」
「助かる! 恩に着るよ」
男性は何度も頭を下げ、足早に去っていった。
私は席に着き、自分の仕事と、頼まれた帳簿を交互に開き始める。
その時、一通の封書が机に届けられた。
役所の公用便ではない。
王都の消印。
差出人は、セドリック・アルヴァ。
私は、カイルの視線を隣に感じながら、その封を切った。
中には、厚手の便箋が一枚入っている。
流麗な、だが意志の弱い細い文字。
『……残念ながら、一連の不祥事を受け、我が家は君との関係を維持できないという結論に至った。これはアルヴァ家とエルフォード家、双方の総意である。辺境での君の静かな生活を祈っている』
内容は、予想通りだった。
感情を揺さぶるほどのものではない。
「総意」という言葉。
父も彼も、私という存在を「なかったこと」にしようとしている。
「……王都からか」
カイルが、私の手元の封筒を一瞥して言った。
私は無言で、その婚約破棄の通告書を三つ折りにした。
そして、昨日と同じように、そのまま引き出しの奥へと仕舞い込む。
「ただの事務連絡です。終わったことの確認に過ぎません」
「そうか」
カイルはそれ以上、何も追求してこなかった。
彼はただ、自分のペンを握り直し、私が昨日教えた「逆算の手順」を自分の書類で試し始めた。
窓の外では、ゼムスの街を冷たい風が吹き抜けている。
私は、セドリックの祈りなど必要としていなかった。
静かな生活など、いらない。
私は計算盤を弾き始めた。
王都での過去が切り捨てられる音のように、パチパチと、小気味よい音が室内に響き渡る。




