第3話 評価されない仕事
カイル・ノーヴァンの隣の席は、窓際で陽当たりが悪かった。
机の脚はガタつき、表面には数年分の埃が薄く積もっている。
私は支給された布で、まずは自分の城を拭き清めることから始めた。
「……君、何をしている」
隣から、硬い声が飛んでくる。
カイルだ。
彼はペンを止めることなく、手元の書類を見つめたまま問いかけてきた。
「環境を整えています。汚れた手で書類に触れるわけにはいきませんので」
「勝手にしろ。ただし、私の領域には踏み込むな」
彼の机の上は、定規で測ったように整然としている。
羽根ペン、インク瓶、吸取紙。
それらがミリ単位の狂いもなく配置されていた。
極度の合理主義者か、あるいは神経質な性格なのだろう。
私は彼の言葉通り、自分の机の範囲内だけで作業を完結させることにした。
長官から渡された木箱を引き寄せる。
中身は無残なものだった。
領収書の断片、日付の前後した報告書、用途不明の仮払金。
それらが紐で乱雑に縛られている。
私は鞄から自前の計算盤を取り出した。
王立学院で使い慣れた、魔力演算補助の付いた特注品だ。
【ナレーション】
(リュシアの持つ計算盤は、王都の高度な魔導工学に基づいて作られている。辺境の役所に普及している安価なそろばんとは、比較にならない演算速度を誇る)
カサリ、と書類を捲る。
周囲の職員たちが、仕事の手を止めてこちらを伺っていた。
入り口近くの席に座る数人の女性職員が、口元を隠して囁き合う。
『見て、あの道具……王都の嫌味な贅沢品かしら』
『どうせ三日も持たないわよ。あの箱、呪われてるって言われてるのに』
聞こえているが、無視をする。
反応をすれば、彼女たちの娯楽を助長するだけだ。
私は目の前の数字に意識を沈めた。
三年前の、冬の暖房費。
役所の薪の購入記録と、実際の在庫管理表を照合する。
……不自然だ。
十二月の計上額が、二月よりも多い。
例年の平均気温から考えて、この消費量は異常だ。
私は新しい紙を広げ、独自の集計表を作成し始めた。
時系列を並べ替え、品目ごとに色分けを行う。
計算盤の珠が、パチパチと速い音を立てて弾けた。
数字は、嘘をつかない。
感情も、噂も、偏見も持たない。
正しく扱えば、必ず真実を返してくれる。
今の私にとって、これほど信頼できる味方はいなかった。
「……おい」
不意に、横から影が差した。
隣の席のカイルが、私の手元を覗き込んでいた。
彼の眉間に、深い皺が寄っている。
「その表は何だ。長官は検証を命じたはずだ。新しい表を作れとは言っていない」
「検証するためには、まず現状を可視化する必要があります。元の報告書は、数字が二重に計上されています。意図的なものか、単なるミスかは分かりませんが」
私はペンを止めず、合計値を記入した。
カイルは私の表と、元の報告書を交互に見比べた。
そして、一箇所を指差す。
「ここだ。五月の街灯維持費。計算が合わない」
「いえ、合っています。三月の余剰金が四月に繰り越されず、五月の雑費として処理されています。ここに裏付けのメモがありました」
私は箱の底から見つけ出した、黄ばんだ小さな紙片を提示した。
カイルは絶句した。
彼はその紙片を奪うように手に取り、自分の計算用紙と突き合わせる。
「……これを、この短時間で見つけたのか」
「整理をしていれば、自然と目に留まります」
私は淡々と答え、次の束に手を伸ばした。
カイルは何かを言いたげに口を開いたが、結局、何も言わずに自分の席に戻った。
ただ、彼のペンの走る音が、先ほどよりも少しだけ速くなった気がした。
昼食の時間になり、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
職員たちが連れ立って外へ出て行く。
私は席を立たず、鞄から持参した硬いパンを取り出した。
今は一刻も早く、この一箱を終わらせたい。
「……あの、リュシアさん?」
不意に声をかけられた。
顔を上げると、一人の女性職員が立っていた。
確か、受付にいたエマという女性の隣で仕事をしていた人だ。
名札には『マリア・フェン』とある。
彼女は周囲を気に病むようにキョロキョロと見渡してから、私の机に小さなお菓子を置いた。
「これ、よかったら。……あなた、噂ほど怖くないのね。ずっと無表情で怖いっていうか、何ていうか、集中力が凄すぎて」
「ありがとうございます、マリアさん。私はただ、仕事をこなしているだけです」
「そう……。でも、無理しないで。その箱、本当は一ヶ月かけてやるような仕事なんだから」
マリアはそれだけ言うと、逃げるように去っていった。
一ヶ月。
長官は私に三日と言った。
期待されていないどころか、最初から不可能な課題を押し付けられたらしい。
私はパンを一口齧り、飲み込んだ。
ちょうどいい。
三日かかると言われたことを一日で終わらせれば、それだけ「行政補助官」としての信頼が上積みされる。
午後からの作業は加速した。
二重計上の法則性を掴んだことで、修正箇所が次々と浮き彫りになる。
夕暮れ時、役所内に退庁を告げる鐘が鳴り響いた。
「……終わりました」
私は最後の一枚を綴じ、木箱の横に綺麗に積み上げた。
一箱分、全ての検証と修正案の作成。
初日の成果としては、十分だろう。
隣で帰り支度をしていたカイルが、凍りついたように止まった。
彼は信じられないといった様子で、山積みの修正書類を見つめている。
「一箱……全部か?」
「はい。不備があった箇所には、全て根拠となる付箋を貼ってあります」
私は椅子を引き、立ち上がった。
カイルの視線には、明らかな困惑と、それ以上に強烈な興味が混ざっていた。
王都での評価は、地に落ちた。
けれどここでは、まだ何も始まっていない。
私はカイルに一礼し、静かに部屋を後にした。
明日、長官の顔を見るのが少しだけ楽しみになった。




