第2話 噂は説明しない
王都を出て一週間。
ようやく馬車の揺れが止まった。
石畳は磨り減り、建物の壁には乾燥した泥がこびりついている。
ここが辺境都市ゼムス。
王都の華やかさを削ぎ落とし、実用性だけを煮詰めたような街だ。
私は手荷物を抱え、役所の重い石造りの門をくぐった。
「失礼いたします。本日付で配属となりました、リュシア・エルフォードです」
受付のカウンターに座っていた女性職員が、顔を上げた。
彼女の目は私の顔を見た瞬間、丸く見開かれた。
次に視線は、私の手元にある辞令書へ飛ぶ。
彼女の手がわずかに震え、カウンターの端に置かれた書類の山が崩れた。
「あ、あの……エルフォード、様、ですね」
女性の頬が引き攣っている。
声は上擦り、椅子を引く音が不自然に大きく響いた。
彼女の視線には、明らかな恐怖が混じっている。
猛獣を目の前にした時のような、本能的な拒絶だ。
王都での噂は、すでにこの地まで届いているらしい。
爆発事故を起こした危険思想の令嬢。
それが、今の私の肩書きだ。
「はい。行政補助官として参りました」
私は表情を変えず、淡々と答えた。
恐怖を否定するために微笑むこともしない。
過剰な愛想は、時として後ろめたさの裏返しと取られる。
「あ、案内します。いえ、少々お待ちを。今、確認を……」
女性が狼狽えて立ち上がった時、奥の扉が開いた。
一人の男が現れる。
年の頃は二十代半ば。
仕立ての簡素な、だが手入れの行き届いた官服を着ている。
「騒々しいな。エマ、どうした」
男は低く、落ち着いた声で言った。
鋭い眼光が私を射抜く。
彼は私の姿を上から下まで一度だけ眺め、すぐに手元の書類に目を落とした。
「……リュシア・エルフォードだな」
「左様です」
「カイル・ノーヴァンだ。長官が待っている。来い」
カイルと名乗った男は、それだけ言うと背を向けた。
案内を待つまでもなく歩き出す。
迷いのない足取りだ。
彼は私を怖がってもいなければ、侮蔑してもいないように見えた。
ただ、新しく来た備品を確認するかのような、徹底して事務的な態度。
私は彼の背中に続いた。
役所の内部は、外観以上に殺風景だった。
廊下の隅には埃を被った木箱が積まれ、すれ違う職員たちは皆、疲れ果てた顔をしている。
「ここは王都のような社交場ではない。仕事ができなければ、明日には席がなくなる。理解しているか?」
カイルが振り返らずに言った。
突き放すような物言いだ。
根拠は、彼が歩く速度を一切緩めないことにある。
ついてこられない者は切り捨てる。
その意思が背中に現れていた。
「望むところです。私は仕事をしに来ました」
私の返答に、カイルの足がわずかに止まった。
彼は一瞬だけ肩越しに私を見た。
その瞳には、小さな違和感が浮かんでいるように見えた。
泣き言も弁明も口にしない私を、測りかねているのかもしれない。
案内されたのは、廊下の突き当たりにある重厚な扉だった。
カイルが短くノックし、私を中へ促す。
「長官、連れてきました」
部屋の中は、紙の匂いで満ちていた。
壁一面の書棚。
机の上には、地層のように書類が積み上がっている。
その向こう側で、禿げ上がった頭を撫でながらペンを走らせる大男がいた。
辺境長官、バルトロメウス。
彼は顔を上げると、獰猛な熊のような笑みを浮かべた。
「ほう。それが噂の爆弾令嬢か」
開口一番の言葉に、カイルが眉をひそめた。
私は表情を動かさない。
「不名誉な通り名ですが、否定はいたしません。結果として事故を起こしたのは事実ですから」
「潔いな。弁解の一つも聞かされるかと思っていたが」
長官は椅子を鳴らして立ち上がり、机の横にある巨大な木箱を指差した。
「いいか。ここは王都から見捨てられた吹き溜まりだ。予算も人も足りん。思想がどうあれ、動く手があるなら俺は使う」
長官が足で木箱を叩く。
中には、紐で括られた古い書類が隙間なく詰まっていた。
「過去三年の収支報告書の再検証だ。数字が合わんまま放置されている。期限は三日。終わるまで、君に次の仕事はない」
【ナレーション】
(辺境都市ゼムスの会計管理は、数年にわたり杜撰な状態が続いていた。専門の知識を持つ官僚の多くが王都へ引き抜かれた結果、誰も手を付けられない負の遺産と化していたのである)
カイルが私を見た。
その目は「無理だ」と言っているように見えた。
一人の補助官が、三日で片付けられる量ではない。
これは試練というより、嫌がらせに近い。
「承知いたしました」
私は木箱の前に跪き、一番上の束を手に取った。
指先に伝わる紙の質感。
インクの滲み。
乱雑に書き殴られた数字の列。
「三日後、修正済みの全リストを提出いたします」
私は長官を見上げ、はっきりと告げた。
噂を否定するために言葉を費やすのは無駄だ。
人は見たいものしか見ない。
ならば、見せればいい。
彼らが決して否定できない、完璧な成果を。
「……カイル、案内してやれ。彼女の席は、お前の隣だ」
長官の言葉に、今度は私が驚く番だった。
カイル・ノーヴァン。
冷徹な案内人の隣が、私の戦場になるらしい。
カイルは小さく溜息をつき、顎で「来い」と示した。
私は重い木箱を抱え、立ち上がる。
私の新しい生活が、埃っぽい紙の山の中から始まった。




