第10話 助けない選択
朝の冷気が、役所の石造りの壁を伝って足元を冷やす。
私は新設された主査の机で、街の冬支度に必要な魔法銀の仕入れ価格を計算していた。
隣ではカイルが、私の作成した物流計画書に目を通している。
「リュシア、ここの輸送路だが……」
カイルが言葉を切った。
執務室の扉が、遠慮のない勢いで開かれたからだ。
入ってきたのは、受付のエマだった。
彼女の顔は青ざめ、呼吸が乱れている。
「主査! その、王都から、アルヴァ家の……セドリック様と名乗る方が」
ペンを握る指先に、わずかに力が入った。
私は顔を上げ、カイルと視線を交わした。
カイルの眉間に、深い溝が刻まれる。
「アポイントメントは?」
「い、いえ。ですが、非常に切迫したご様子で……」
私は計算盤を脇に避け、立ち上がった。
逃げる必要はない。
ここで会わなければ、彼は執務の邪魔をし続けるだろう。
それが一番、効率が悪い。
「応接室へ通してください。カイル、少し席を外します」
「……私も行く。君を一人にはさせない」
カイルの決然とした態度に、私は小さく頷いた。
応接室の扉を開けると、そこには一人の男が立っていた。
セドリック・アルヴァ。
かつて私の婚約者だった男だ。
王都で見送った時よりも、頬が扱け、目の下には濃い隈が張り付いている。
何より、あの完璧だった官服の着こなしが崩れていた。
「リュシア……! やっと会えた」
セドリックが駆け寄ろうとする。
カイルがさりげなく私の前に立ち、その前進を遮った。
「アルヴァ卿。ここは公共の役所です。節度を持っていただきたい」
「……君は、ノーヴァン家の。邪魔をしないでくれ。僕はリュシアと話に来たんだ」
セドリックの声は震えていた。
彼は私を見つめ、縋るように手を伸ばした。
「リュシア、すまなかった! あの時の婚約破棄は、父に強要されたことなんだ。僕は君を信じていた。君がいなくなってから、学術院はめちゃくちゃだ。誰も君の計算を理解できない。プロジェクトは全て止まり、アルヴァ家も責任を問われている」
私は無言で彼の言葉を聞いた。
情報の整理を行う。
一つ、学術院が停滞している。
二つ、彼の実家が窮地にある。
三つ、彼はそれを「私の不在」のせいにしている。
「それで、私に何を求めているのですか」
「戻ってきてほしい! 君が説明すれば、不純物の件だって、禁忌の研究の噂だって、すぐに払拭できる。父も、君を正式な妻として迎えると約束した。エルフォード家だって再興できるんだ!」
セドリックの言葉には、熱があった。
だが、その熱は私を想う情熱ではない。
己の破滅を目前にした者の、生への執着だ。
「セドリック様。お言葉ですが、今の提案には三つの致命的な欠陥があります」
私は一歩、カイルの横から前に出た。
セドリックの瞳に、期待の色が浮かぶ。
私はそれを、氷のような事実で塗り潰した。
「第一に、不純物の件は一ヶ月前に私が報告した時点で解決可能でした。それを握り潰したのは、あなた方です。今更それを公表しても、組織の自浄能力の欠如を露呈するだけで、あなたの評価は上がりません」
セドリックの顔から、血の気が引いていく。
「第二に、私は現在、ゼムス役所の主査です。国家公務に就いている身であり、一貴族の家庭事情で職務を放棄することは背任行為に当たります。私に犯罪を犯せと言うのですか?」
「そ、そんなつもりじゃ……ただ、君の力が必要なんだ!」
「第三に」
私は彼の言葉を遮った。
「あなたが求めているのは『私』ではなく、私の『能力』です。もし私が無能なまま追放されていたら、あなたはここまで馬車を走らせましたか?」
セドリックは口を濁らせた。
視線が泳ぎ、床に落ちる。
その沈黙こそが、最も明快な回答だった。
【ナレーション】
(セドリック・アルヴァは、人生で初めて「正論」という名の刃に晒されていた。王都の社交界では通用した甘い言い訳が、今のリュシアには一リンの価値も持たないことを、彼は理解していなかった)
「リュシア……頼む。このままじゃ、僕は……」
「お断りします」
私は断言した。
そこに迷いはなかった。
「私を助けなかったのは、あなたです。沈黙を選び、保身を選んだ。その結果、私はこの場所で新しい信頼を築きました。今の私に、あなたを助ける理由は一つもありません」
セドリックが力なく膝をついた。
かつての婚約者の、無惨な姿。
けれど、私の胸に去来したのは同情ではなく、確信だった。
私は、この人を選ばなくて正解だった。
「終わりましたか。アルヴァ卿」
カイルが冷徹な声で告げた。
彼は扉を開け、外に控えていた警備兵に合図を送る。
「部外者の滞在時間は過ぎました。お引き取りを。これ以上、我々の主査を困らせるなら、公務執行妨害として対処します」
「リュシア! リュシア……!」
警備兵に腕を掴まれ、セドリックが引きずられていく。
彼の叫び声が廊下に響き、やがて遠ざかっていった。
静寂が戻った応接室で、私は深く息を吐いた。
「……良かったのか。リュシア」
カイルが、静かな声で問いかけてきた。
彼は私の顔をじっと覗き込んでいる。
そこにあるのは、非難ではなく、私の心を慮る優しさだった。
「ええ。あれは私を助けに来たのではありません。私を使って、自分を助けようとしただけです。……助ける価値のない数字は、切り捨てるのが合理的ですから」
私の声は、わずかに震えていたかもしれない。
カイルは何も言わず、大きな手で私の肩を一度だけ、強く叩いた。
「よく言った。……さあ、戻ろう。魔法銀の計算の続きが待っている」
「はい」
私は応接室を後にした。
過去の残影は、もう追ってこない。
私は「誰かを救わない」という選択をすることで、初めて自分自身を完全に救ったのだ。
執務室に戻り、私は再びペンを握った。
窓の外では、ゼムスの街の人々が忙しなく動いている。
彼らのための予算、彼らのための数字。
それこそが、今の私が守るべき全てだった。




