第1話 静かな左遷
淹れたての紅茶が、すっかり冷めている。
カップの縁にこびりついた茶渋を、私は無言で見つめていた。
「――ということで、君の処遇が決まった」
重厚な机の向こう側で、中年の男が書類を差し出す。
学術院の事務局長だ。
かつては私の論文を絶賛し、父に媚びを売っていた男。
今は一度も、私の目を見ようとしない。
「辺境都市ゼムス。そこでの行政補助官だ」
「行政補助官、ですか」
私は声を平坦に保ったまま、短く返した。
補助官。
聞こえはいいが、実態は雑用係だ。
王都の学術エリートが送られる場所ではない。
「一ヶ月前の事故、あれは看過できない」
「事故の調査報告書は提出しました。魔力の暴走は私の計算ミスではなく、触媒の不純物が原因です」
「根拠がない。それよりも、君が禁忌の術式を研究していたという噂が問題だ。火のない所に煙は立たないと言うだろう?」
事務局長は鼻を鳴らし、追い払うように手を振った。
根拠なら、あの報告書に全て記した。
不純物の混入経路も、納品業者の帳簿の矛盾も。
けれど、彼は一度もその頁を捲らなかった。
「……承知いたしました」
反論はしない。
この部屋に足を踏み入れた瞬間、結論が出ていることは分かっていた。
私は椅子から立ち上がり、一礼する。
背後で、事務局長が小さく安堵のため息を漏らすのが聞こえた。
廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌を刺す。
窓の外では、王立学院の学生たちが楽しげに談笑していた。
彼らの視線が私に向く。
ヒソヒソという低い声が、波のように寄せては返した。
『あの子よ、例の』
『危険な思想を持っているって……』
『婚約者様も愛想を尽かしたらしいわ』
耳を塞ぐ必要はない。
事実は一つ。
私が、この場所に居場所を失ったということだけだ。
学院の正門前に、見覚えのある馬車が止まっていた。
アルヴァ家の紋章。
婚約者、セドリック・アルヴァの馬車だ。
彼は馬車の傍らに立ち、遠くの空を眺めていた。
私の足音に気づくと、肩をびくりと震わせる。
「リュシア」
「セドリック様」
私は彼の前で足を止めた。
彼は整った顔を歪め、何かを言いかけ、そして口を閉じた。
その視線は私の足元を彷徨っている。
「辺境へ行くことになりました」
「……そうか」
「噂について、何かお話ししたいことはありますか」
私は問いかけた。
彼なら、私の研究内容を知っているはずだ。
私が一度も、国を害するような術式に触れていないことも。
彼が「彼女はそんな人間ではない」と一言言えば、事態は変わっていたかもしれない。
セドリックは、固く拳を握った。
そして、掠れた声で言った。
「……今の僕には、何もできない。君を庇えば、アルヴァ家まで疑われる」
「左様ですか」
私は頷いた。
責めるつもりはなかった。
彼はそういう人だ。
波風を立てず、安泰な道を歩むことを最優先にする。
その彼にとって、今の私は重荷でしかない。
「お達者で」
私はそれだけ告げて、彼の横を通り過ぎた。
「待ってくれ」という言葉は聞こえなかった。
ただ、石畳を叩く自分の靴音だけが、虚しく響いていた。
家に戻ると、執事が銀のトレイに乗った一通の手紙を差し出してきた。
父からだった。
『エルフォードの名を汚した娘を、当主として勘当する。二度と敷居を跨ぐな』
短い言葉。
学術貴族としての誇りが、娘への情愛を上回った結果だ。
私はその手紙を丁寧に折り畳み、暖炉の火に投げ入れた。
紙が黒く焼け落ちるのを、最後まで見届けた。
荷造りは、一時間で終わった。
必要最小限の衣類と、研究ノート。
それだけを鞄に詰め込み、私は手配された乗合馬車に乗り込んだ。
【ナレーション】
(王都から辺境都市ゼムスまでは、馬車で一週間の道のりである。かつて学術の天才と謳われたリュシア・エルフォードの地位は、この日、完全に消滅した)
ガタゴトと、馬車が揺れ始める。
窓から見える王都の街並みが、ゆっくりと遠ざかっていく。
隣に座っていた老婆が、私を不審そうに見た。
「お嬢さん、そんな薄着で辺境へ行くのかい? あそこは風が冷たいよ」
「ええ。慣れるようにします」
私は微笑んだ。
鏡を見ていないが、おそらく酷く冷めた笑い方だっただろう。
理不尽だとは思う。
けれど、叫んでも喚いても、事態は好転しない。
実績を奪われたのなら、新しい場所で積み上げるだけだ。
信頼は奪われるものではなく、与え続けた結果として得られるもの。
私は鞄の中のノートを強く握りしめた。
静かな才女は、もう王都を振り返らない。
これからは、噂の届かない場所で、私自身の価値を証明する。




