No.94「救血Ⅶ」
「……いいから早く……此処を離れ──『その血を寄越せ』」
シロホンの口から出たのは、理性の警告と、相反する捕食者の命令だった。
左手から、ポタポタと血が垂れ落ちる。
あかねは目を見開き、変貌したシロホンを見ていた。
「……あ……血が……違う……そうじゃなくて」
シロホンは頭を振り、思わず口をついて出た捕食者の本能を否定する。
内なる渇きと争いながら、あかねに背を向けた。
「私……」
あかねは、シロホンの為に自分を差し出そうと決意し、言いかける。
その時、空間が歪んだような重圧と共に、神が現れた。
「悪魔、よくも仲間を──……」
低く、威嚇するように神は言葉を発する。
そして、シロホンの顔を見て眉をひそめた。
「なんか、見覚えあるなお前……」
「……」
シロホンは沈黙を保つが、全身が強張る。
「確か、あの時殺した悪魔の中に──……」
あの時というのは、シロホンの両親が殺されたあの日だ。
今、目の前にいるのは両親の仇。
シロホンもその事実に気づき、歯噛みする。
「生き残ったのか、しかし……」
神が冷徹な視線を向ける。
こいつあの時の……。
血はなるべくアヴェルス以外からは摂りたくないんだが……この状況、奴を倒して──……ただ、この飢餓状態でまともに戦えるのか?
シロホンは思考を巡らせる。
緊急事態だ。目の前の神を殺し、その血を啜るしかない。
けれど、まともに動けない今の身体で勝てるのか。
「悪魔は女の方だと聞いていたが?」
神が視線をあかねに移す。
オッドアイの女に提供された情報では、「悪魔は女」だという話だった。
あえて嘘の情報を提供した。
けれど神にとっては些細なことだった。悪魔に関わる者はすべて敵だ。
「良いか、悪魔と居るということはそれだけで同罪」
神は右手をかざし、無能力者であるあかねへと狙いを定める。
「悪魔は滅ぼさねば……」
シロホンの眼が見開かれる。
強烈な能力の気配。
しかも狙いは自分ではなく、あかねだ。
庇いに入る。
鮮血が宙を舞った。
◇
家の外で待つヒユは、一向に帰らない兄とあかねに痺れを切らし、探しに出かけた。
……兄ちゃん。
不安を抱えながら、裸足で地面を踏みしめる。
路地裏では、無数の土の棘が地面から突き出し、剣山のように荒れ果てていた。
神は標的の沈黙を確認し、踵を返して去ろうとしていた。
シロホンは身を挺してあかねを守ろうとした。
だが、神の一撃は二人ごと貫いていた。
シロホンが覆いかぶさる下で、あかねは地面に転がり、腹部から大量の血を流していた。
シロホンの傷は再生を始めているが、あかねの傷は致命的だ。
鮮やかな赤が、地面を染め上げていく。
「……ねえ、貴方の能力には誰かの血が必要ということよね?」
今までのシロホンの言動、そして異常な再生能力から状況を察したあかねが、口を開く。
その口端からも、血が垂れている。
シロホンは答えない。
答えたくない。
「それ……私の血でも良い?」
あかねは血を吐きながらも、微笑んで自分を差し出した。
「良くない!!」
シロホンは叫ぶ。
シロホンの口からも、我慢の限界を超えた涎と血が混じり合って垂れる。
地面についた手が、拒絶と渇望の狭間で激しく震える。
「オレには出来ない」
望んでなった身体ではない。
だからこそ、シロホンは飲むのを拒んだ。
「こんな……突然現れた奴に興味湧くわけないよね。気持ちないの気づいていたのに、迷惑かけた」
あかねは自嘲気味に言う。
シロホンの眼中に自分がいないことは、最初から気づいていた。
「だから最期に、あの時の……恩を返させて」
あの時の恩──シロホンが、名もなき少女だった自分を助けてくれたあの日のこと。
「どうせ……もう……助からない。それなら……せめて……貴方の手で──……」
あかねの身体から、命そのものである血液が流れ出ていく。
もう助からない。
シロホンもそれを察した。
このまま無駄に死なせるか、それとも彼女の意志を汲み、その命を力に変えて仇を討つか。
シロホンは決意する。
その時、ヒユが路地裏の入り口へと辿り着いた。
兄、シロホンの背中を見つけた。
シロホンはあかねの身体を抱き寄せると、その白く細い首元に噛みついた。
ヒユは、その光景を見てしまった。
「最期まで……迷惑かけ、て……ごめんなさ……」
あかねの最期の言葉は、ヒユには届かない。
ただ、兄が好きな人を喰らっているという地獄絵図だけが瞳に焼き付いた。
立ち去りかけた神が、シロホンの殺気立った気配に気づき振り向く。
「まだ生きて……!」
そう言い能力を発動させようとする。
シロホンはゆっくりと、動かなくなったあかねを地面に置いた。
そして目にも止まらぬ速さで神の懐へ潜り込み、振り向きざまに蹴撃を放つ。
身体を貫通し、粉砕するほどの必殺の蹴り。
謝るのはオレの方だろ……。
シロホンは心の中でそう詫びながら、両親の仇である神を屠った。
鉄のむせ返るようなニオイが、路地裏を支配する。
地面も、シロホンの口元も、赤に染まっている。
「あ……あ……」
シロホンはその震える声に気づいた。
振り返ると、そこにはヒユが膝をつき、絶望の表情でこちらを見ていた。




