No.93「救血Ⅵ」
少し遡ること夜の帳が下りた漆の国。
薄暗い路地裏にて、神の手下が主君に跪き、報告を行っていた。
「神様……悪魔に仲間が殺されました」
「また悪魔か」
神は低く、忌々しげに吐き捨てる。
その背後に、音もなく女が立った。
「あははは!」
右眼が黒、左眼が白の金髪の女だ。
場違いな高笑いを上げながら、舞台に割り込んでくる。
「貴方の部下を殺したのが誰なのか、教えてあげようか?」
女は左眼を閉じ、右手の指を艶めかしく口元に当てて言った。
だが、女はあえてシロホンを名指ししなかった。
代わりに──……。
◇
昼間。
家を飛び出したシロホンは、路地裏の建物の壁に手をつき、荒い息を整えていた。
あいつのことは、嫌いではない程度でしかない。
でもあっちは違う──……。
あいつ──あかねのことだ。
シロホンにとっての彼女は、友人以上恋人未満ですらない。
だがあかねの想いは、明確な恋慕だ。
『弟の面倒を見るのはお前の役目だ』
アヴェルスの言葉を反芻する。
脳裏には、赤子の弟ヒユを抱いた時の重みと温もりが蘇る。
アヴェルスに言われた言葉が頭から離れない。
それで勝手に責任を感じているだけだ……。
そう自分に言い聞かせ、ベビーベッドで眠っていたヒユの無垢な寝顔を思い出す。
あの時、誓ったのだ。『X』の名を冠し、過去を背負い、ヒユの為に強くなると。
だから嫌なんだよ、大切な人の好きな人をオレが奪うのが──……。
シロホンは俯き、複雑な想いを噛みしめる。
結果あいつを傷つけた……最低だな。
弟を優先した結果、あかねの純粋な想いを踏みにじった。後悔が胸を刺す。
「……」
思わず逃げてしまった。
シロホンは立ち尽くし、冷や汗を拭う。
逃走は事実だ。あまりに情けない。
逃げる必要などなかったはずだ。今のヒユに何が起きていたかなど、分かるはずもないのに……。
手を払いのけてまで拒絶する必要はなかった。
自己嫌悪がシロホンを襲う。
そして冷静になったことで、もう一つ、致命的な問題に気づく。
そういえば今日はまだ……今帰ったら気まずいが──……。
勢いで家を飛び出したせいで、今日摂取すべき血を飲んでいない。
アヴェルスから送られてくる定期便は、家の中だ。
シロホンは舌打ちし、踵を返して家路に就こうとする。
その瞬間、背中を鋭い衝撃が貫いた。
「!!」
シロホンは血を吐きながら振り返る。
背中には杭が突き刺さっていた。神の手下だ。
「情報提供とは違うようだが……?」
「しかし悪魔には変わりない」
敵は二人。
シロホンから漏れ出る悪魔の能力源『マナ』を感知し、攻撃対象と認定したようだ。
「悪魔は例外なく殺せ!!」
二人は地を蹴り、シロホンへ肉薄する。
悪魔というだけで殺される。それがこの世界の理不尽な常識。
◇
ヒユが家の外にて、兄シロホンの帰りを待ち続けていた。
あかねが心配そうに歩み寄る。
「兄ちゃんが帰ってこない」
「家の中で待っていたら?」
ヒユの言葉に、あかねが優しく促す。
けれどヒユは首を振り、外で待つと意地を張った。
一方、路地裏。
シロホンは敵を殲滅していた。
だが、血を飲まずに能力を行使した代償は大きかった。
まずい……家を飛び出してきたせいで血の補給がまだなのに……悪魔の能力も使った。
血が足りない。
地に転がるのは二人の遺体。
シロホンは荒い呼吸を繰り返しながら、死体から目を背ける。
今から補給の為に帰ったとして、弟を襲わない自信がない。
シロホンは以前、衝動に駆られてモドキを襲いかけた恐怖を思い出していた。
あの時は赤子の泣き声で正気を取り戻し、事なきを得た。
けれど、今度も踏みとどまれる保証はない。
転がる二人を一瞥する。
地面に新鮮な赤が滲み出し、広がっていく。
血なら、そこに。
悪魔の囁きが脳裏をよぎる。
シロホンは震える右手を死体へと伸ばしかけた。
その時──……、
「シロホン?」
背後から、聞き慣れた声がした。
あかねだ。ヒユの代わりに、シロホンを探しに出てきていたのだ。
「…あ」
シロホンは緩慢な動作で、声の方へと振り返る。
「どうしたの、それ怪我……大丈夫なの?」
あかねの心配する声は、シロホンの脳には届かない。
彼の網膜に映っているのは、あかねという人間ではない。
温かい血が詰まった、魅力的な「袋」だった。
血、血、血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血
生き血がここに
シロホンの理性が飛び、獣の目で襲い掛かろうと踏み出す。
次の瞬間、残った理性が左手を噛み砕き、激痛で意識を引き戻した。
その異様な光景に、あかねも目を見開く。
「な、何をして……」
あかねは顔を青ざめさせながらも、傷ついたシロホンへ歩み寄ろうとする。
ダメだ此処を離れ──……。
シロホンは襲いたくない一心で後ずさる。
けれど身体が言うことを聞かない。
足元の遺体に躓き、無様に転倒した。
「!!?」
あかねは死体とシロホンの姿を見て、言葉を失う。
「大丈夫!? 大丈夫なの?」
それでも、恐怖より心配が勝り、彼女は声をかける。
ダメだ……まともに動けやしない……。
シロホンは自分の意志で手足を制御できなくなっていた。
今まさに、彼女を喰らい尽くしたいという衝動が全身を支配していく。
「……去れ」
あかねに向けて、シロホンは左手で顔を覆い隠しながら、絞り出すように言った。
「頼むから……今すぐここを離れろ……」
「で、でも……」
「オレは不死身だから傷はすぐ治る」
シロホンは意識を持っていかれないよう、必死に本能と戦いながら言葉を紡ぐ。
背中には戦闘で受けた傷があったが、既に塞がっている。
問題なのは傷ではない。渇きだ。
「血、血が……違っ……能力の代償で血が……血、血血血血血血血血血血」
血血、血血血血血血血血血血血血
「今のオレは、いつお前を噛み殺すか分からない」
シロホンは左手をさらに強く噛み、鮮血を滴らせながら警告する。
額からは玉のような汗が流れ落ちる。
あかねの顔にも、緊張の汗が伝った。
「……いいから早く……此処を離れ──『その血を寄越せ』」
シロホンの口から出たのは、警告と、相反する捕食者の命令だった。
左手から、ポタポタと血が垂れ落ちた。




