No.92「救血Ⅴ」
数年後のある日。
夜、漆の国にて。
無能力者の少女が、能力者の集団に追われていた。
この国では、能力のない者が能力者に虐げられることは日常茶飯事だった。力こそが正義の歪んだ世界。
少女は傷つきながらも懸命に走る。
息が上がり、足がもつれる。
絶体絶命と思われたその時、澄んだ木琴の音が響いた。
空中に展開された木の板を足場に、左頬にX印を持つ男──シロホンが、軽やかに板を踏み鳴らし駆け抜ける。
能力者を蹴り上げ、空中の板を蹴り、反動を利用して次の敵を蹴る。
音媒介『木琴』によって身体能力強化を受けたシロホンの蹴り。
その強烈な一撃は、能力者たちを容易く吹き飛ばした。
少女の目が見開かれる。
能力者たちは轟音と共に地に伏した。
シロホンが静かに舞い降りる。
少女は思わず身構えた。
けれどシロホンは、助けた少女を一瞥すらせず、小さく息をついてそのまま去っていった。
あまりにあっけなく、素っ気なく立ち去ったヒーローの背中を、少女は目を丸くして見送っていた。
その後ろで、建物の陰からじっと見つめる女がいることには気づかずに。
シロホンが名を貰い、アヴェルスに祝福されたあの日、後方の暗がりで二人のやり取りを見つめていた女の影があった。
その時の女だ。
金髪に、右眼が黒、左眼が白のオッドアイ。
彼女はずっと、シロホンをつけていた。
翌日。
音楽学校にて。
「あ……!!」
少女が声を上げ、右手で指さした。
左手には教科書が抱えられている。
ヴァイオリンを弾こうとしていたシロホンの手が止まる。
「誰だ?」
シロホンが素っ気なく問う。
少女の名は、あかね。玖の国、真白の姉である人物だ。
音楽の勉強の為、遥々玖の国からやって来ていた。
「昨日はどうも。まさか同じ学校だったなんて」
あかねは微笑みながら礼を言った。
「あいつら神の手下だろ? あいつらはオレらの敵だから倒しただけだ」
シロホンは溜息交じりに返す。
能力者は神より力を授かるため、その手先として働くことがある。
昨夜の能力者たちも、神に仕える兵隊崩れだった。
「でも助けられたのは事実なので! 何かお礼をさせてください」
「そういうの要らん」
あかねは笑顔を崩さず食い下がるが、シロホンは即座に拒絶した。
学校からの帰り道。
少し背の伸びた弟ヒユが、玄関を飛び出して出迎えた。
「おかえり~! なあ! おれに能力の使い方教えて!」
「断る」
「なんでだよ!」
ヒユが懇願するも、シロホンは間髪入れずに断る。
弟には、この呪われた力を使わせたくない。
後ろをついて来ていたあかねが口を開く。
「隠し子?」
あかねは口元を手で押さえながら聞いた。
シロホンとヒユには、それなりの年齢差がある。
「弟だ! ってかなんで、ついて来てるんだよ!」
シロホンが怒号交じりに叫ぶ。
「だって、お礼がまだ……」
「要らんから帰れ」
あかねは一向に引き下がらなかった。
助けられて以来、彼女はシロホンにつきまとい、そのうちに弟のヒユまで彼女に懐いてしまった。
ある日。
家の外にて。
「夕飯作ってあげようか?」
「兄ちゃんもシャチモドキも料理微妙だから嬉しい!」
あかねの申し出に、ヒユが即答で喜ぶ。
シロホンは「おい」と遮ろうとしたが、ヒユの笑顔を見て諦めた。
その様子を、遠くの木陰からあのオッドアイの女が覗いていた。
そんな日常の中、四足歩行の異様なシャチ形態に変身したモドキが、背中にアヴェルスを乗せて現れた。
「仲良いな~焼いちゃうぜ★」
「……は?」
アヴェルスが軽薄に言い、シロホンが冷めた目で返す。
アヴェルスの下のモドキは、どこかやる気がなさそうにぐったりしている。
「誰!? しゃ……ち!?」
あかねは初めて見るシャチモドキの姿に、目を見開いて驚愕する。
「何か用か?」
シロホンが問う。
「用って言うか~神を殺しに行かないといけなくなってな。ちょっと遠出になるから一応言いに来た」
アヴェルスが答える。
悪魔としての重要な任務が入ったらしい。
そしてシロホンに近づくと、耳元で誰にも聞こえないよう囁いた。
「ちゃんと採血して、定期的にそっちに送るから、忘れずに飲めよ」
アヴェルスの言葉に、シロホンは黙って頷く。
ヒユとあかねには、その会話の内容は届いていない。
数日後。
家の中、廊下にて。
シロホンは通信符でアヴェルスと連絡を取り合っていた。
「どうだ? 調子は」
『いや~素材の入手は大変だぜ~』
アヴェルスは素材として『シン』を求めて動いているらしい。
あまり順調ではないようだ。
『そっちこそ変わりないか?』
「……まあ、今のところは」
『ならいいけど』
アヴェルスなりの気遣いだ。
そこで通信は途切れる。
シロホンは通信符をしまい、部屋へ戻ろうと扉の取っ手に手をかけた。
中から話し声がする。
「おれ、お姉さんのこと大好き」
「ありがとう」
ヒユの無邪気な声と、それに優しく答えるあかねの声だ。
「じゃあ、結婚して?」
「大きくなったらね~」
ヒユの何気ないプロポーズに、シロホンの手が止まった。
あいつ何子どもみたいなこと言ってんだ……まだ餓鬼だった……。
そう毒づきながら、同時に胸がざわつく。
そのまま沈黙し、考える。
オレは嫌いじゃない程度でしかない……だがあっちは──……。
シロホンは、あかねが自分に向けている好意に気づいていた。
『弟の面倒を見るのはお前の役目だ』
アヴェルスのかつての言葉が、呪いのように脳裏に蘇る。
たとえ今は子供の戯言だったとしても──……。
オレの生き延びた理由……。
シロホンの行動原理はシンプルだ。
弟の好きな人を奪いたくない。それだけだった。
少し時間が経ち、ヒユが別室で眠りについた頃。
「弟君、疲れて寝ちゃったみたい」
可愛いね、と微笑みながらあかねはシロホンに声をかけた。
シロホンは椅子に座ったまま、視線を合わせずに口を開く。
「お前あいつと結婚すんの?」
思わず、先程のヒユとあかねのやり取りを口に出していた。
「え? 何急に……」
あかねは面食らう。
「『大きくなったらね』って」
「アレ聞いてたの?」
シロホンは足を組み替える。
あかねはまさか聞かれていたとは思わず、焦って小さく汗をかいた。
「アレは社交辞令? みたいなものでしょ。私とじゃ年も離れてるし」
「別に、あり得る未来だろ?」
あかねは必死に否定するが、シロホンはさらに追撃する。
だがあかねも食い下がる。
「でも、あんなの子どもの言うことだし。すぐ心変わりするって」
「オレはむしろ貰って欲しいくらいだ」
シロホン的には弟の想いが叶う方が良い。本心からそう思っている。
けれど、あかねの気持ちは違う。
「あり得ないよ」
あかねはきっぱりと言い、シロホンに一歩迫る。
顔を近づけ、真剣な眼差しで見つめた。
「私が好きなのは貴方だから」
あかねのストレートな告白に、シロホンは困惑と拒絶を表情に滲ませた。
「やめろよ」
冷たく一言。拒絶を示した。
「ん? 何の音?」
二人の話し声にヒユが目を覚まし、布団を引きずりながら部屋へと近づいてくる。
扉が開かれた。
「にいちゃ……」
ヒユが言いかけた瞬間、シロホンが扉の方を見た。
ヒユと目が合う。
シロホンは慌ててあかねを突き飛ばすようにして距離を取った。
そのまま逃げるように外へ出ようとする。
「ま……待って!」
あかねは必死に右手を伸ばした。
だがシロホンは拒絶を選び、その手を無情に払い除けた。
三人の間に、修復しがたい気まずい空気が流れる。
シロホンは少しだけ俯き、何も言わずに部屋を出て家を飛び出した。
あかねとヒユは、その遠ざかる背中を呆然と見送るしかなかった。




