No.91「救血Ⅳ」
「なんで……」
少年は悔しげに歯噛みした。
泥や血は洗い流され、服も綺麗になったが、左頬には未だ小さな切り傷が残っている。
「捨ててくれ」
少年は木琴から目を背け、投げやりに言う。
その言葉に、アヴェルスは意外そうに目を丸くする。
モドキは鞄をパタンと閉じ、「嫌いなの?」と短く問う。
少年は俯き、消え入りそうな小声で答えた。
「……いや……むしろ…………」
あまりに声が小さく、アヴェルスが身を乗り出す。
「え? もう一回言って」
椅子に座り、頬杖をつきながら聞き返す。
少年は冷や汗を滲ませ、意を決したように早口でまくし立てた。
「マリンバは控え目な感じだけど、音が柔らかくて好きだし……シロホンは硬い感じだけど響きが好きで…………一番好きな楽器……なんだ」
少年は好きな物を素直に語るのが気恥ずかしいだけなのだ。
顔を真っ赤にし、視線を床に彷徨わせている。
「なるほど~?」
アヴェルスにはマリンバもシロホンも違いが分からないが、適当に相槌を打つ。
「でもオレは、それを奏でることはできない……」
少年の瞳に暗い影が落ちる。
「オレの持つ能力の一つ『音』の能力の媒介が木琴で──……能力をうまく制御できないから、昔演奏した時に能力が暴発して……音を聞いた母の身体に異変が起きたんだ」
音の能力は、その旋律を聞いた対象に様々な効果をもたらす。
媒介を使って奏でる必要があるが、本来は戦闘においても有効な力だ。
しかし、当時の少年の制御能力は未熟すぎた。
脳裏に、異変をきたして倒れた母の姿がフラッシュバックする。
「っても少し体調を崩した程度ですぐ治ったけど……」
少年はベビーベッドで眠る弟を見つめて呟く。
トイピアノで弟に演奏した時の、温かい記憶と、母への罪悪感が混ざり合う。
誰かの為に弾けるのは良い。そう思ったあの時──……。
「演奏できないなら持っていても……捨ててくれた方が助かる」
少年は俯いたまま告げる。
一番好きな物を、自ら手放さなければならない。
その歯がゆさが痛いほど伝わってくる。
「ぬああああああああああっ!?」
突然、少年の顔面に向かって白い物体が投擲された。
モドキである。
その弾力あるボディが、見事に少年の顔面にヒットする。
「ごごごごご主人様!! なんで急に投げるんですか!?」
「何となく?」
「このクソが!!」
「後で捌くぞ」
「すみませんでした」
モドキの抗議とアヴェルスの一蹴。いつもの軽いやり取りだ。
少年は衝撃を受けた顔に右手を当て、呆然としている。
「能力の使い方ぐらい、オレが教えてやる」
アヴェルスがニヤリと笑う。
彼もまた音の能力持ちであり、しかも媒介は『鉄琴』だ。
少年の師としては、これ以上の適任者はいない。
「いや……あんたにこれ以上世話になるわけには」
少年は遠慮して首を振る。
「オレが良いって言ってんだから良いんだよ。ってかお前に拒否権はない」
アヴェルスは右手で少年をビシッと指さし、宣言する。
「オレは自分勝手だからな。勝手に無理やり教える、覚悟しろ」
その強引な優しさに、少年は息を呑み、言葉を失う。
不死を得たとしても、戦えなければこの残酷な世界で生きていくことはできない。弟を守ることもできない。
その事実を突きつけられ、少年は静かに覚悟を決めた。
モドキもほっと一息つく。
「なんかご主人様、彼に甘くない!? おれにはいつも厳しいくせに!!!」
「畜生に温情はない」
「畜生舐めるなよ!!」
モドキの絶叫が木霊し、家の外の木々をも揺らした。
数日後──。
森の中の開けた場所にて、少年は地面に大の字になって転がっていた。
周囲には無数の木の板が突き刺さり、地面は所々赤く染まっている。
「し……死ぬ」
少年は荒い息を吐き、空を仰ぐ。
「死んでも死なん。大丈夫大丈夫」
アヴェルスが上から少年の顔を覗きこむ。
その手には血袋が握られている。
「血だ、飲め。少し休憩していいぞ」
「……」
アヴェルスに促されるまま、少年は血を啜る。
左頬には相変わらず、治りきらない小さな傷が残っていた。
不味い……。
その味に嫌悪を抱きながらも飲み干し、そして思考する。
その日の夜。
少年はベビーベッドで健やかに眠る弟の寝顔を眺めていた。
オレが強くなれば、お前がこの能力を使うこともないよな?
そうなればお前は……他人の血を求めずに済む──……。
少年は何よりも弟の未来を案じていた。
能力を使わなければ、人でいられる。
不味い血を飲まなくても済む。
何より、人を襲う化け物にならなくて済む。
少年は決意を固め、部屋を出る。
家の中にある工房へと足を踏み入れた。
そこではアヴェルスが椅子に座り、自作の武器を眺めていた。
「うーん。何か違うな」
アヴェルスは独り言を漏らす。
作り出した武器の出来に満足がいっていない様子だ。
「なあ」
少年が声をかける。
「階級ってのはどうやって決まるんだ?」
「ん~?」
唐突な問いに、アヴェルスが顔を上げる。
「なんと言うか、悪魔の長? リーダー的なのがいて……」
アヴェルスは武器を机の上に置き、説明を始めた。
「そいつ、オレの探してる人じゃなかったが……そいつに実力を認められたら入れるはず」
「? そ、そうか……」
悪魔には序列が存在している。
Aが一番下で、Zが一番上。
だが、大半の悪魔はその序列にすら名を連ねることはできない。
「あとは階級の上位の奴に気に入られても入れるはず。とにかく、適当に敵でも倒してたらなれるだろ」
アヴェルスは説明が面倒になったのか、ざっくりと締めくくった。
だが、少年にはそれで十分だった。
「なんか文字貰って、それに応じた名前つけて良いんだよな?」
少年が確認する。
「そうだが……」
アヴェルスは本名こそあるが、階級の中では『ヴィヴラフォン』を名乗っている。
『V』から始まる名だ。
ここでアヴェルスはあることに気づいた。
「あれ? そう言えばお前の名前聞いてないな?」
「言ってないな」
アヴェルスが指さすと、少年もすぐに返した。
ここまで、少年は一度も名乗っていなかったのだ。
「……今の名前は捨てようと思う」
少年はまっすぐに見据えて言った。
アヴェルスは一瞬考え、口を開く。
「……いや、続きを聞こう」
アヴェルスは右手を口元に当て、先を促す。
「名は捨てるが……捨てる代わりに階級で『X』を貰う」
少年は右手を胸に当て、決意を露わにした。
「文字は丁度この傷の上から刻む……今はわざと治癒させずに残してる」
少年の脳裏にはアヴェルスが語った言葉が蘇る。
『傷痕だけはわざと残した──……忘れない為に──……』
その言葉を反芻し、少年は告げる。
「……忘れない為に」
少年もまた、敵の理不尽な行いと、自身の罪を忘れない為に、左頬の傷を残していたのだ。
アヴェルスは真剣な表情で聞いていた。
かと思えば、急に頭を抱えて悩みだす。
「えっ!? Xから始まる単語ってなんだ!?」
「そんなの決まってんだろ」
少年の即答に、アヴェルスはハッとして一つ思い至る。
そして、ふっと小さく笑った。
数年後──。
「目標達成おめでとう」
石壁にもたれかかったアヴェルスが、少し背の伸びた少年へ賛辞を送る。
「シロホン」
この日から、少年はシロホンと名乗るようになった。
◇
後方の暗がりで、何やら二人のやり取りを見つめる女の影があった。




