No.9「望マズ」
朝の白い光が、簀子と障子を淡く透かしていた。
辛は布団から半身を起こし、開け放した縁側に背を向けて座っている。
昨夜、凪の治療のおかげで傷は塞がり、動けるようにはなったが、上衣はまだ着ていない。
鍛え上げられた背中。その肩甲骨の間から肩にかけて――橙色の線で描かれた蝶のような紋が、朝日に照らされ、薄く浮かんでいた。
「辛君! おっはよう~! 朝ご飯だよー!」
勢いよく襖が開き、凪が元気よく駆け込む。
口に出した明るさのまま、彼の無防備な背中を見て、ピタリと固まった。
「あ……」
蝶の紋。見惚れたわけじゃない。
けれど、その毒々しくも美しい幾何学模様に、胸の奥をざわりと掻き立てられる何かを感じて、思わず足が止まる。
視線に気づき、辛がゆっくりと振り向く。
目が合った瞬間、凪は耳まで真っ赤になって、喉から変な音が漏れた。
「あ、あ、あの、その――! ま、また見ちゃっ……!」
間抜けな沈黙が怖くなって、凪は反射的に縁側へきびすを返す。
「ありがとーございまーす!!」
感謝とも叫びともつかぬ謎の捨て台詞を残し、廊下を駆け去った。
背後で辛が無言になる。
何か言葉を探しているようで、結局何も言わず、小さく息を吐く気配だけがした。いつもの辛だ。
◇
「また、やってしまった……馬鹿だ私……」
縁側の端まで逃げた凪は、その場にしゃがみ込み、両手で熱い頬を押さえた。昨夜の治療します宣言は完璧だったのに、朝いちばんでこれだ。覗き魔の汚名は免れない。
穴があったら入りたい。本気でそう思ったその頭上から、くすり、と涼やかな笑い声が降ってくる。
「うふふ。貴方って、本当に面白いわね」
「蝶神さん!」
風に金色の長い髪を遊ばせた女が、廊下の角から姿を現した。
昨夜、辛の頼みで凪のもとへ現れた分身の神。
いまは柔らかな笑みを浮かべ、しゃがみ込む凪の隣に腰をおろす。
「でも良かったわ。貴方のような子が、辛の味方になってくれて」
「い、いえ、私なんて……なんの役にも立てず……覗いてばっかりで……」
「そんなことないわよ」
軽く肩を叩かれ、凪は少しだけ顔を上げ、胸を張る。
蝶神はふと、射すような眼差しで天井を見上げ、ほう、と息をついた。
「――そろそろ“分身”が切れるわ。消える前に、一つだけ」
言いつつ、彼女の輪郭が砂のようにさらさらとほどけていく。
消え入りそうな声が、凪の耳朶にそっと触れた。
「人間も、神も、悪魔も――この世界では等しく“人”。……忘れないで、ね」
「えっ?」
残り香のような蝶の羽音が弾け、金色の粒子となって廊下に淡く散った。
凪は一人取り残され、誰もいない空間に向かって呟く。
「……何……? どういうこと……?」
その言葉の意味を考える間もなく、風が吹き抜けていった。
◇
同じ頃、別の座敷。
襖がわずかに開き、爪戯がそろりと顔を出す。
中には、長い橙色の髪の女が、背を向けて座っていた。
昨夜、辛に敗れて手負いの身となった爪炎。
母であり、主でもある女。
「……なんですか?」
背を向けたまま、爪炎が低く問う。
その声の冷たさに、爪戯は慌てて座り直し、その場に膝をついた。
「いや、あの~……あはは……」
言葉は続かない。母の前だと、どうにも舌が絡まる。
視線は床に落ち、沈黙の空気だけが重くなっていく。
廊下に朝の風が流れ込み、畳のいぐさの匂いが薄く揺れた。
爪戯は正座して深く頭を下げ、正面の女――爪炎を見上げる。
「良いですよ。行ってきなさい」
袖なしの黒衣のまま、彼女は振り返りもせず淡々と告げる。
視線は窓外の緑へと流れたままだ。
「……何と言いますか」
爪戯は息を呑んだ。
許可が下りるとは思っていなかったのだ。「死んで来い」と言った母が、まさか。
「友達? の役にでも立ってきてください」
わずかに唇が笑みの形を作る。
命令ではない、けれど拒めない、不思議な温かみのある声音。
「は、はい!」
弾かれるように立ち上がる爪戯。
踵を返しかけて、ふと振り向く。
「……母さん」
呼びかけた言葉は、女の頑なな無言に吸い込まれた。これ以上は言うな、という拒絶。
いってきます、と背中で言い切ると、爪戯は逃げるように戸口の向こうへ消えていく。
残された爪炎は、窓辺に目を細めた。
(……あの子にも、そう言って。出て行って欲しかったですね)
かつて自分が守れなかった、あるいは手放せなかった誰かを想うように。
かすかな独白だけが、朝の静けさに落ちた。
◇
「――あー! 本当に、すみませんでした!」
客間の座敷。
凪が畳に額をこすりつける勢いで土下座し、頭を下げる。
障子際に腰を下ろし、ようやく着物を身につけた辛は、相変わらず表情を動かさずに言った。
「……二回も見ました」
「うっ……!」
事実陳列罪。
昨夜に続き、うっかり背中の素肌を見てしまったことを、凪は全身全霊で悔いていた。
凪は恐る恐る辛の顔色を覗き込み、しゅんと肩をすぼめた。
「……あ、あの。本当に、すみませんでした。あと、あの、いろいろ」
爪戯は襖の陰から、こっそりとその様子をうかがう。
「それでおあいこ? おあいこ……? おわびに、わたしも、ぬぐ?」
凪のあまりに迷走した提案に、辛がスッと目を伏せる。
拒絶の沈黙。
見ていられなくなり、爪戯は一歩、室内へ踏み込んだ。
「…………」
そして、凪に向かってにこりと笑った。
「女、殺すよ?」
「何で!?」
凪の鋭いツッコミが座敷に響く。
「そーやって辛を誑かそうとしてたんでしょ? ハレンチ女」
「違うわ! 裸を見せたのは事故! ってか、辛君を殺そうとしてた奴が、何でそんなこと気にすんの?」
「命拾われたんで、辛について行くことにしたからだよ! ボディーガード!」
「えっ、来るの? 私、あんたと仲良くできそうにないんだけど」
「……はぁ? あんたの都合とか知らないし。オレは辛に恩を返すだけ」
言い合いは一瞬で白熱した。
凪はムッとして、くるりと辛へ向き直る。
「ってか殺し屋なら、私の母に関する情報ないの? まさか――あんたが!?」
「は? 何、急に。人聞きの悪い」
辛が二人のやり取りに呆れて、わずかに眉を動かした、その刹那だ。
うなじに、冷たい針のような感触が触れた。
小さな痛みが走り、視界が黒く滲む。
◇
世界が裏返る。
水音がした。
どこまでも続く暗い水底。巨大な氷の尖塔が林立し、冷たい流れが膝を撫でる。幻のような空間で、ひとりの妖が辛の頬を両手で優しく支えた。
背中には、あの紋様と似ているけれど青色の模様、巨大な蝶の翅がひらりと揺れる。
『ねぇ、どうして拒むの?』
彼女の声が、水面からまっすぐ落ちてくるように響く。
『辛を守れるのは、私。――私の血、私の能力』
その瞳はまっすぐで、狂おしいほどの愛に満ちていた。
喉元に、冷たい指が添えられる。
そこにある見えない枷を、外そうとする仕草。
『早く、その枷を外して。そしたら――』
唇が近づく。囁きは鋭く甘い、悪魔の誘惑。
『私が全部、殺してあげる』
辛は息を呑む。
脳裏に、瓦礫に横たわる影がぱっと反転した。
血に濡れた自分の手。動かなくなった誰かの背中。
出てくるな。こいつらを、殺したくない。
胸の底から、恐怖と共に固い拒絶だけが浮かび上がる。
◇
「イッシャリョウヨコセ! ソンガイバショー!」
「はぁ~」
けたたましい掛け声と共に、凪と爪戯が取っ組み合いながら居間に駆け込んでくる。
現実の音。
辛は肩で息をしながら、まぶたをゆっくり持ち上げた。
水底の冷たさと、黒い残像が薄れていく。
辛は短く呼吸を整え、騒がしいふたりを見た。
今の自分には、この騒がしさが必要だ。
殺したくない。
この手で。二度と。
心の内で、静かに繰り返す。
幻覚の蝶がひとひら、欄間の隙間から差しこんだ朝の光に溶けて消えていった。




