No.88「救血Ⅰ」
十七年前。
木琴を愛おしそうに見つめながらも、どこか瞳に影を落とす少年がいた。
彼は学校の音楽室で、ひとり木琴の鍵盤を指でなぞる。
やがて、無言のまま帰路に就く。
背中にはバイオリンケース。その足取りは重い。
不意に、何処からか音が聞こえた。
……この音は。
少年は足を止め、音のする方角へと顔を向ける。
鉄琴……?
甲高くも硬質な、金属の音色。
少年は衝動に駆られるように走り出した。
その美しい音色の主を探して。
視界が開けた先、少年の目に飛び込んできたのは──
空中に金属の板を展開し、それを足場に踏み鳴らしながら槍を振るう、一人の悪魔だった。
アヴェルスだ。
敵である神の手下を、舞うように薙ぎ倒していく。
抜けるような青空に、青い髪の悪魔。灰色の金属と、周囲の緑の木々。
空中で音を奏でながら槍を振るうその姿は、戦いというよりは演舞のようだった。
「ん? まだ居るの」
アヴェルスは眼下に居る少年を発見し、声を漏らす。
浮いているのは金属……!?
少年の目が見開かれる。
「かっ……」
その瞬間、アヴェルスは金属の足場を踏み外した。
「!?」
轟音。
アヴェルスは無防備に、真っ逆さまに地面へと墜落した。
「……」
少年の目の前で、頭から赤い液体を流して倒れる悪魔。
少年は呆気にとられ、冷や汗を流す。
「頭が打ち付けられるこの感覚……良い!!」
「え?」
少年の心配を他所に、アヴェルスはむくりと起き上がり、朗らかに言い放つ。
そして、顔を血で濡らしたまま、少年の顔を見つめた。
「よく見れば、少年は悪魔……!」
「え……あ……」
「しかもこの『マナ』……!」
アヴェルスは少年の内にある、悪魔の能力源である『マナ』を感じ取ったようだ。
「『吸血鬼』か!!」
アヴェルスは同類を見つけた喜びに打ち震え、勢いよく少年の手を取り、上下に激しく振った。
「いや……あの……」
少年が困惑していると、背後で地に転がっていた敵の一人が、力を振り絞り起き上がろうとした。
「悪魔は……滅ぼさねばならない……」
鮮血を流しながらも、殺意を向けてくる。
「あ~……ちょっと待って」
アヴェルスは軽く一言。
言い終えるが早いか、槍を閃かせ、敵に止めを刺した。
そして慣れた手つきで敵の腕を切り取る。
ちょっとだけ補給。
そう心の中で呟き、腕から滴る赤い液体を口へと運ぶ。
「いや~さっきはつい。オレ以外見ないから……もうこの世には、他の吸血鬼はいないものかと思ったもんで」
アヴェルスは上を向き、喉を鳴らして赤を飲む。
少年はその光景を見て、露骨に嫌悪感を示した。
「うぇ……気持ち悪い。味は分からんが」
アヴェルス自身も血を好んでいるわけではないらしく、顔をしかめて敵の腕を放り捨てた。
「吸血鬼……お前も……」
少年が恐る恐る口を開く。
「そう、同じ!」
「……」
アヴェルスは少年の方へ振り返り、屈託なく笑う。
「お前と一緒にするな。オレはまだ使ってないし、この能力を使う気はない」
少年は俯きながら、拒絶の言葉を紡ぐ。
アヴェルスは少年の言葉を、黙って聞いていた。
「一度でも能力を使えば不死身を得る代わりに、他者の血を求めるようになる──……そうはなりたくない……親も使ってないし」
少年は自身が吸血鬼であることを嫌悪していた。
能力を一度でも使えば、後戻りはできない。その代償はあまりに大きい。
だから、使わないと心に決めている。
「あっ! 居たいた! ご主人様~!」
木々の向こうから、モドキが駆け寄ってきた。
「そうかそうか!」
アヴェルスは少年の言葉を受け止め、頷く。
そして、近づいてきたモドキの頭を勢いよく踏み抜いた。
「出来ることなら、こちら側には来ない方が良い……」
モドキを踏み台にして歩き出すアヴェルス。
その背中を、少年は静かに見つめていた。
アヴェルスは振り返らず、右手を挙げてひらひらと振った。
モドキは文句を言いながらも、アヴェルスの後を追っていく。
神という悪魔の天敵がいるこの世界において、不死身の能力を使わずに生き延びられるほど現実は甘くない。
だが、出来ることならば使うな。
アヴェルスは本心からそう願った。
少年は再び歩き出す。
家へ帰る為に。
その背後を尾行する影があったことに、彼はまだ気づいていなかった。
少年の家。
中から、生まれたばかりの幼い弟の泣き声が聞こえる。
帰宅した少年はその声に反応し、急いで部屋へと向かった。
弟のベビーベッドの横、小さな机の上には、子ども用の小さなピアノが置かれていた。
少年はピアノの前に座り、鍵盤に指を這わせる。
ポロン、と可愛らしい音が響く。
右手で鍵盤を弾き、左手で弟を優しく撫でる。
誰かのために弾けるのは良い……。
そう思いながら旋律を紡ぐ。
少年の指を、弟の小さな手がぎゅっと握り返した。
「なっ!?」
不意に気配を感じ、少年が振り返ると、入り口で母親が感涙しながらその光景を見守っていた。
少年は顔を赤らめ、気恥ずかしさから演奏を止めた。
家の外。
少年をつけてきた影──神の兵が、能力を展開し始めていた。
「悪魔は滅ぼさねば……」
その呟きの直後、一家の平穏は崩れ去った。
◇
左腕を切り落とされ、左頬に深い傷を負い、吐血して倒れる少年がいた。
周囲は瓦礫の山と化している。
その近くには、少年の両親と思われる変わり果てた姿が転がっていた。
まだ死んではいない……危険な状態に変わりはないが。
そう見つめるのは、アヴェルス。
「……」
アヴェルスは無言で少年の傍らに身を屈め、その瞳を覗き込んだ。
……使う気はない、だったか。
アヴェルスは少年の信念を反芻する。
「ご主人さ~ま」
その時、モドキの声がした。
瓦礫の下、地下室と思しき場所から這い上がってきたモドキは、一人の赤子を抱えていた。
「なんか発見した」
赤子は布に包まれ、その布には『隠』の印が刻まれていた。
アヴェルスもモドキも、状況を察して冷や汗を流す。
「多分、この子の親が助ける為に隠したんだと思うんですけど」
モドキが推測を口にする。
アヴェルスは黙ったまま、その光景を眺めていた。
赤子が火がついたように泣き出す。
「あ~泣かないで~」
モドキが懸命にあやす。
それを見たアヴェルスは、「ふっ」と短く息を吐き、笑った。
「あーやめたやめた」
「えっ!? 何!?」
「深く考えるもんじゃないよね~」
アヴェルスは右手で、自身の左腕の袖を捲り上げた。
「オレは我が儘! 自分勝手なのさ」
そう言い放つと、彼は己の左腕に思いきり噛みついた。
だから
『この能力を使う気はない』
許せよ
アヴェルスの脳裏に少年の拒絶の言葉がよぎるが、彼は強引に能力を行使させることを選んだ。
左腕を伝う鮮血を少年の口元へと運び、そして──……。
少年は本能のまま、その指に喰らいついた。
だから許せよ、これでお前も完全な──……。
少年の意識が浮上する。
吸血鬼だ──……。
知らない部屋のベッドの上。
上体を起こすと、傍らにはアヴェルスが座っていた。




