No.75「てんそ」
玖の国。
窓外では風に木々が揺れ動いている。
室内には、シロホンが奏でるピアノの音色が響いていた。
床には、モドキから贈られた血液が置かれている。
『よお、X!』
声をかけてきたのはヤナギの精霊の分身──スズノだ。
何の前触れもなく、どこからともなく姿を現した。
『悲報だぜ~ヒユ、脱走す! だぜ~~~~』
「あの餓鬼……」
軽薄なスズノの報告に、シロホンはため息交じりに呟く。
ヒユは辛達との一戦の後、ヤナギによって軽く折檻されていたらしい。
おれは悪いことをしたとは思ってねえから!!
そう言い残し、脱走したのだという。
その時、シロホンが指を止め、何かに気づいた様子を見せた。
「今……音が──……」
シロホンは鋭い眼差しを窓の外へ向ける。
スズノは不思議そうに小首を傾げた。
◇
伍の国。
神の襲撃から辛くも逃走に成功し、凪達はこの国へと辿り着いた。
逃げた先には辛が探していた人物がいるはずだったが、案内役のルリによれば「血を吐いて倒れたから無理☆」とのことで、面会は叶わなかった。
当面の目的を果たせず、一行は足止めを食らう形となっている。
「まあ、ゆっくりしていって! 適当に時間潰してさ。街に行ってみても良いよ」
ルリは屈託のない笑顔で提案した。
「あ~でも、うちは此処を離れられないしな~」
ルリには、この屋敷を離れることができない事情があるらしい。
その詳細を知らない凪は、緩い表情で首を傾げた。
「任せろ。ただし、飯を奢れよ?」
扉が開き、レタスを齧りながらモドキが現れた。
その額にはアヴェルスのアホ毛──青い触角が生えている。
「ん!?」
あまりの変わりように、凪が思わず声を漏らす。
モドキの背後からは、爪戯が顔を覗かせていた。
「何、生やしてるの? それ……」
「ご主人様が付けたんだよ!!」
「そう言えば、その人は何処に?」
凪が問う。
「知らない! あんな奴!! 置手紙をして何処かへ行ってしまったよ!」
モドキの言い分によれば、レタス一玉と『温めて食べて下さい』という手紙だけを残して姿を消したらしい。
「そうなんだ……」
凪は短く答えた。
モドキはレタスを完食し、額の触角を揺らしている。
後ろでは爪戯が、呆れたようにその様子を眺めていた。
◇
伍の国の市街地。
休息も兼ねて、凪達は街へと繰り出していた。
「発展してるよね~」
凪は立ち並ぶ高層建築を見上げながら言う。
「おなかすいた~」
モドキは相変わらず空腹を訴えていた。
「玖が田舎なのでは?」
「えーっ」
爪戯の冷静な指摘に、凪が反応する。
科学技術が発展した伍の国に比べ、鎖国状態にあった玖の国が遅れているのは道理だった。
ふと、辛が足を止める。
視線の先にある看板に釘付けだ。
「辛君、食べたいの?」
「……」
凪が尋ねるが、辛は相変わらず返事をしない。
表情に変化こそないものの、スイーツを所望していることは痛いほど伝わってきた。
結局、一行はクレープを食べることにした。
「そう言えば、私に接触した人……辛君の知り合いっぽかったんだけど」
凪はベンチに腰掛け、クレープを握ったまま口を開く。
「玄か」
辛もまた、クレープを口に運びながら応じた。
「あいつとは同期で……『ヤミ』使いの能力者──……」
辛が淡々と語る横で、モドキは爪戯に別の食べ物を催促している。
「辛君達を襲ったのが『神』なら……その人も神? もしくは奴らの仲間?」
凪が核心を突く問いを投げる。
辛と交戦したのは、雨神レインと水神ウル。
その二人と手を組んでいた玄もまた、彼らの同類と考えるのが自然だろう。
「さあ……ただ、初めて会った時はまだ違ったと思う……途中から感じが変わった──……ある日感じたそれは、塩と石の兄妹に初めて会った時に感じたものと似ていた」
辛はかつて茶屋で遭遇した、塩神と石神のことを回想する。
あの時、辛は無言で屋根の縁を一瞥した。
妖の気配とは異なる、兄妹が纏う異様な空気を感じ取っていたのだ。
「気配を隠せる奴だから、何というかイマイチ掴めないんだが……」
辛によれば、玄は気配遮断のエキスパートだという。
探知能力に長けた辛ですら読めない相手。
「後から神さまになったってこと?」
凪は右手の人差し指を唇に当て、推測を口にする。
辛は沈黙した。
あいつに歯が立たなかった……
脳裏に浮かぶのは水神ウルの姿だ。
丁を攫われた時も、なす術がなかった。
玄にも勝てないかもしれない──……
辛は自身の左手を見つめる。
容易に勝てる相手ではない。
挑むならば、相応の覚悟が必要だった。
その時、不意に歌声が聞こえてきた。
「歌……?」
凪が左を向く。
声のする方角だ。
「おっ」
歌の主が何かに気づき、声を上げた。
その姿を目にした凪は、驚きに目を丸くする。
「新曲出てる!」
歌の主はショーケースを覗き込みながら言った。
「あいつ、性格はアレだけど作る曲は良いんだよ」
あいつとは、シロホンのことである。
音楽家でもある彼は、定期的に新曲を発表していた。
歌の主はそのことについて言及したのだ。
凪は丸い眼を見開いたまま、思わず呟く。
「何、あの頭──……」
その人物の頭部からは、蝙蝠の翅が突き立つように生えていた。
◇
再び、玖の国。シロホンの居る屋敷。
『音? 気のせいだろ?』
スズノも窓の方を見やるが、何も感じ取れないようだ。
常人には聞こえない音なのだろう。
「まだ聞こえる」
『ん~?』
シロホンは聴覚が鋭敏だ。
スズノは理解できないといった風に首を傾げた。
『シロホンさん』
唐突に刃が現れる。
天井をすり抜け、ヤナギの精霊キルキーが姿を見せた。
「なんだ? そっちは聞こえたのか?」
『いえ……』
シロホンの問いに、キルキーは首を横に振る。
スズノは無言でキルキーを見上げていた。
『我々は聴覚は強化していませんので。ですが少し気になる【シン】を感知いたしました』
キルキーが淡々と告げる。
「それで、オレに何をしろと?」
シロホンが問うた。
……悪魔の中で唯一「神」の付く存在『死神』がいれば、見てもらえるんだがな。
シロホンは思考を巡らせる。
悪魔・死神は眼が優れている。
「見る」ことに特化し、あらゆるものを斬り裂く存在。
音の正体を視認することも可能だっただろうが、今は不在だ。
それか聴覚の優れた──……あいつ……。
シロホンの脳裏に、ある人物がよぎる。
一方、伍の国。
「はあ……やっぱ思うよなーコレ」
歌っていた主が、頭をかきながら零した。
凪は小さい声で言ったつもりだが聞こえた!?
内心で驚愕する。
「目立って目立ってしょうがない」
歌の主は、頭部に生えた異質な羽を気にしながら言う。
そして、ゆっくりと凪の方へ振り返った。
「蝙蝠」がいればな──……
遠く離れたシロホンの思考と、目の前の姿が重なった。




