No.7「小繭蜂」
風が吹いた。夜風が三人の間をすり抜け、沈黙の端を攫っていく。
「はー……」
深く、心底呆れたようなため息をついたのは、爪戯の母――爪炎だった。
燃えるような橙色の髪を指で払い、氷のような視線を息子へ投げる。
「本当に使えない子ですね。何故まだ生きているのですか?」
その声音は、母とは到底思えないほどに冷たく、無機質だった。
辛は、じっとその言葉を受けてから、無言で金属を生成する。
銀色の粒子が収束し、長大な刀が空気を裂くように現れた。
彼は迷いなく踏み込み、爪炎の首を狙って真っ直ぐに刃を振り下ろす。
だが、硬質な音が夜に響いた。
爪炎は人差し指と中指のたった二本で、その鋭利な刃を挟むように受け止め、あっさりとへし折ったのだ。
破壊された金属の音が、夜の静寂に小さく、しかし絶望的に響く。
「意外ですね。怒るのですか」
淡々と、辛を評価するように爪炎は言った。
先ほどまで刃を向けていたのは爪戯の側だ。敵同士だったはずの辛が、爪戯のために怒りを見せたことが、どうやら彼女の計算外らしい。
爪炎の右脚が赤熱する。炎の熱エネルギーを爆発させ、加速。
目にも止まらぬ一撃が、辛の腹を深々と貫いた。
内臓が軋み、辛は破られた胸から苦しげに息を漏らし、弾き飛ばされて地に転がった。
「辛!」
爪戯の声が悲鳴のように裂ける。
だがその直後、爪炎が冷徹に遮るように言い放った。
「他人の心配をしている場合ですか? アレを殺したら次は貴方ですよ」
その言葉には、脅しではない、凍るような本気が混じっている。
爪戯は息を呑み、戸惑いと恐怖が交錯するのを隠せなかった。母は本気だ。本気で、息子を殺そうとしている。
地に手をついたままの辛は、肩で息をし、呼吸が浅く、どこか頼りない。
爪戯は胸の奥で嫌な予感を感じ取り、心配そうな顔を向ける。
様子がおかしい。まさか、わざと攻撃を受けているのか。
爪炎は、辛の弱りを確認すると冷たく続ける。
「苦しそうですね。早く楽にしてあげますよ」
その言葉に合わせ、爪炎は地を爆ぜさせて蹴った。
炎の熱を纏い、身体を軽やかに浮かせながら、獲物を狩る猛禽のように辛へと一直線に迫る。
辛は必死に土を裂き、足元を隆起させて防壁を作ろうとした。
だが、爪炎の跳躍は鋭く、土壁の上を軽々と超えていく。
爪炎はひらりと舞い上がり、空中で冷ややかに呟く。
「こんなもの」
短い一言に、絶対強者としての軽蔑が滲む。
その時。タイミングを計ったかのように、地中の亀裂から水柱が噴き上がった。
かつて辛が地割れに落とした池の水を、彼は水の力で再び呼び上げ、炎の標的へと放ったのである。
凄まじい蒸気の音が響く。
だが、炎は容赦なく水を蒸発させた。水粒が熱に弾け、白煙となって虚しく消える。
「水は嫌いです」
爪炎は煙を払いのけ、見下ろすように言った。
彼女の能力は高出力の炎であり、半端な水量ではその前に無力だった。
爪戯は一拍置いて、辛に聞こえるような声で言う。
炎には水は通じない、と。
爪炎は音もなく爪戯の前に降り立つと、その表情は一層冷たくなる。
「何故、敵側に情報を? その様な振る舞いをするのでしたら、貴方から殺しましょうか?」
母親とは思えぬ艶やかさと、生物としての格の違いを見せつける厳しさ。
場の空気が完全に凍りついた、その瞬間。
風切り音と共に、短刀が爪炎の横顔を掠めた。
辛が投げたものだ。刃音が夜に鋭く溶ける。
「先ほどもでしたが、何故貴方が怒るのですか?」
爪炎は振り向きもせず、飛来した短刀を二指で摘まみ、まるで紙を裂くように粉々にした。
砕けた金属の破片が、キラキラと路面に散らばる。
「それに、彼は私の子です。どう扱うかは私の勝手。説教でもするつもりですか?」
その問いに、辛はよろりと立ち上がりながら静かに応じた。
腹部を押さえる手には血が滲んでいるが、口調は不思議なほど落ち着いている。
「別に。ただ、そいつを死なせたくないだけだ」
爪炎の唇がわずかに動く。嘲笑か、あるいは憐れみか。
「いいでしょう。ならば力尽くで止めることですね」
彼女は辛へ視線を戻し、指先に青白い炎を宿した。
言葉の端すら焦がすような熱量が、周囲の空気を歪ませる。
「しかし、果たして出来るでしょうか?」
問い終えるや否や、辛が地を蹴る。
金属の生成が躍動し、新たな刃が光を放つ――しかし爪炎は冷徹に分析する。
「貴方の能力は五行──愛用しているのは金。そして水と木は私の能力で対応可能。土も決定打にはならないでしょう」
その言葉には、一切の曖昧さがない。完全な解析。
辛は言葉に応えることなく、静かに間合いを詰め、渾身の突きを放つ。
刃先が月光を二つに裂くように揺れた。
だが、爪炎は紙一重でひらりと躱す。
「ですから、利かないと言っているでしょう!」
声が夜を切り裂く。
爪炎は三度、刃を素手で砕き、炎で加速した蹴りを辛の腹に叩き込んだ。
衝撃で辛は再び弾かれ、宙に無数の金属片が舞い散る。
地面に叩きつけられた辛から、微かな喘ぎが漏れた。
「辛!」
爪戯の声が祈るように響く。
だが、勝負は決したかに見えた。
爪炎は冷ややかに評を下す。
「練度が足りませんね」
爪炎の目は、感情のない冷静な判定者のそれだった。
「唯一、私に対抗できるとすれば火──しかし、それを使わない理由を知っています」
その通りだ。辛は火を宿している。
だが使わない。使えるのではなく、固く禁じているのだ。
爪炎は追い討ちをかけるように、無防備に転がる辛へと歩を進める。
死刑執行を告げる声が低く落ちる。
「終わりです」
辛は、その足音を聞きながら、伏せた顔の下で冷たく返した。
「……終わるのは、お前だ」
乾いた音が、夜に響いた。
それは、ただの破壊音ではない。
周囲に散らばっていた無数の金属片――爪炎が自らの手で砕いた刃の残骸たちが、ひとつまたひとつと意思を取り戻したように浮き上がり、空中で収束しはじめる。
集まった破片が、針のような形状へと再構成され、爪炎の身体めがけて全方位から殺到した。
小さな針が、柔らかな繭を編むかのように、筋肉の継ぎ目、関節、神経の要所を的確に貫いていく。
まるで無数の小さな蜂の針が獲物を麻痺させる「小繭蜂」の所作を見るようだった。
「何を……!?」
爪炎の膝が砕け、彼女は音もなくその場に沈んだ。
胸元から滴る朱が、闇の色に溶けていく。
全身の要所を穿たれ、神経を断たれた身体は、もはや指一本動かせない。
「オレは、能力で作り出した金属を“ある程度、操れる”。お前が砕いた金属片を“もと”に再生成し、身体を貫くよう形成した」
辛は息を吐きながら立ち上がり、冷静に説明する。
傷の痛みが声に陰影を落とすが、その論理は鋼のように揺るがない。
「武器を壊すべきではなかったな」
爪炎は、かつて自分が嘲笑って砕いたはずの刃が、今や自分を封じる凶具となっているのを見て、鋭く目を剥く。
辛の応用力と、ダメージを負ってまで破片をばら撒くという捨て身の策が、彼女の計算の外にあったのだ。
流石に脚をやられると厳しいですね。
爪炎の足元もまた、金属の針に深々と貫かれている。
立ち上がることは叶わない。
息が浅くなり、身に纏っていた炎の光が風前の灯火のように揺れた。
「此処は潔く負けを認めます。殺して下さい。ただし、貴方のつれの少女については、捕らえさせていただきます」
冷たい分析の果てに告げられた、最期の覚悟の言葉。
爪炎の声音は清冽で、死を前にしてもなお、揺るがぬ任務への執着と諦観の色を帯びていた。
月明かりがその美しい面を淡く照らす。
夜風が、ひとつの決着を告げようとしていた。




