No.67「水侮土」
これは、辛が旅に出る数日前の記憶。
「兄貴、待って!」
軍服を着た辛の後を追うのは、弟の丁。
周囲を山に囲まれた、長閑な野原での出来事だ。
何年ぶりだろうか。
幼い頃に引き離されて以来、こうして会うのは久しぶりだった。
丁は着物を着ている。
慣れない下駄がもつれ、彼は盛大に転んだ。
「……」
辛は少し考えた後、立ち止まって振り向き、丁へ手を差し出す。
丁は辛の不器用な優しさに触れ、微笑んだ。
辛の左手を取ろうとした、その瞬間。
突如として鋭利な氷柱が、辛の左手を貫いた。
辛の眼が見開かれる。
「兄っ……」
「初めまして~」
丁の言葉を遮って挨拶をしてきたのは、水神ウル。
丁の背後で、水の珠を空中に浮かべながら笑顔で話しかけてきた。
氷はウルの仕業だ。
「……!!」
「人攫いの者です」
ウルは朗らかに言いながら、丁の頭に手をかける。
そしてそのまま、乱暴に引っ張り上げた。
「少しぐらい痛めつけておいても良いかな? 脚とかをさ」
ウルは丁を攫いに来た。
けれど「無傷で」とは命じられていないのか、逃走防止のために脚を破壊しようと提案する。
「丁!」
辛は叫び、右手で金属生成を行う。
「金属生成か~まあ……」
ウルが言葉を紡ぐと同時、辛の手にある金属が水へと変わった。
「無駄なんだけど」
金生水。
ウルは金属を水に置換し、無効化する。
「なんで……」
辛の目が見開かれる。
何が起きたのか、瞬時には理解が追いつかない。
ウルは間合いを一気に詰め、無防備な辛の腹へ右膝を叩き込んだ。
鈍い音が鳴り、辛は人形のように地に転がる。
「兄貴!!」
「そういえば、あんたは──……」
丁が後方で叫び、ウルが何かを言いかけたその時。
「オイ……」
上空より、妖に乗る雨神レインが現れた。
「遊んでないで、真面目にやって欲しいね。全く……いつもいつも」
レインは呆れながらため息をつく。
しかし、その小言は暴走しかけたウルを制止するためのものだ。
レインなりの慈悲である。
「レイン君やさし~。でもさ~」
「待って」
ウルが地に転がる辛を指さし、何かをしようとした時、丁が鋭い声で遮った。
「その人にそれ以上危害を加えるなら、此処で自害する」
丁の言葉に、ウルは笑顔を絶やさなかったが、ピタリと動きを止めた。
「必要なんだよね? 生きたままの俺が──……」
丁を無傷でとは言われていないが、「生きたままの捕獲」が任務の絶対条件。
丁はその核心を突いていた。
辛を守るために、自らの命を人質として差し出したのだ。
「……」
しばしの沈黙。
森の静寂の中、辛もウルも押し黙る。
「今は殺さないでおいてあげるよ」
ウルの瞳から光が消えた。
今は見逃す。そう告げた声には温度がない。
「その方が──……いや、まあ良いか。帰ろうぜ~。ほら来いよ、そこの人殺しちゃうよ~?」
ウルは踵を返し、レインの方へと歩み寄る。
丁は立ち上がり、最後に辛を見た。
「待っ……」
地に転がる辛は、激痛に耐えながら言葉を絞り出す。
「つーか、真面目なくせして来るの遅くない?」
「ウザっ」
ウルはレインに軽く絡む。
レインは心底嫌そうな顔で対応した。
丁は、小さく手を振った。
「バイバイ」
丁はウルとレインに従い、闇の彼方へと消えていった。
そして辛は後日、丁を探すための果てなき旅に出ることとなる──……。
◇
現在。
辛は矢を受け負傷し、肩で息をしている。
周囲の地面には、無数の矢が墓標のように突き刺さっていた。
対峙するウルは考える。
成程……オレがあの時こいつを生かしたから、今すぐには殺さないと踏んで──……。
確かにそうなんだけど……。
ウルは、作戦会議で玄が話していた内容を正確に記憶していた。
玄の見立てでは、ウルが辛を殺さないことまで織り込み済みだ。
それは事実だった。
──良いよ、乗ってやるよその思惑に。
ウルは玄の描いたシナリオに乗ることにした。
けれど、殺さないだけで、「いたぶる」ことは禁止されていない。
「あいつ……!!」
「あいつが兄さんを……」
ウミリンゴと爪戯は、憎悪の籠った視線でウルを睨む。
爪戯の兄・爪雲はウルと戦う為に残り、殺された。
「言っとくけど、あの鬼にトドメ刺したのオレじゃないので!!
さっきまで空中に居た性別がちょっと分かりづらい、あの子が犯人だから!!」
『ウザっ』
ウルは必死にレインが実行犯だと責任転嫁する。
実際、トドメを刺したのはレインだ。
「何~レイン君まだ居たの?」
『見てるよ、それより……来るの遅いね、何してたの?』
「え? 遊んでただけだけど」
『ウザっ』
レインとウルは、戦場とは思えぬ軽い調子でやり取りをしている。
見ている? 割と近くに本体が居るのか?
爪戯は冷静に分析する。
辛は立ち上がり、身体に刺さった矢を引き抜いた。
鮮血が散る。
「丁は、何処だ……?」
辛の脳裏を占めるのは、弟の安否のみ。
「何処と言われても……ああ、でも大丈夫だよ。死んではいないよ、まだ」
ウルは考えるポーズをとりながら、飄々と答える。
丁はまだ生きている、と。
「まあ、『彼が死ぬ』というのは『肉体が死ぬ』という意味ではないけどね」
ウルの瞳から、光が一瞬消えていた。
狂気を孕んだ笑顔で、残酷な真実を告げる。
辛は歯噛みした。
「お前を、倒して……」
辛は地面に手を突き、土の能力を発動させる。
「強引にでも聞き出す」
ウルを見据え、宣言した。
地鳴りと共に地面が割れ、土塊がウルを飲み込もうと迫る。
五行において、土は水を堰き止める優位な属性。
「拷問されるのかな? されるのは好きだけど」
ウルが割れた地面の下へ落ちかける。
しかし、彼は表情一つ変えず、脚から強烈な冷気を放った。
瞬時に氷が地面を覆いつくす。
迫りくる土の波ごと凍結させ、強固な足場を形成して地面の動きを強制的に停止させた。
水侮土。
圧倒的な水量は、土の理さえも凌駕する。
「オレは何も話さないよ?」
ウルは氷の上で、余裕の表情を崩さない。
「する方はもっと好きなので……あ、でもそこの人は殺しちゃダメなんでした!」
ウルの余裕。
そして、本来有利であるはずの「土」すらも封じる冷気に、辛の眼が見開かれる。
「じゃあ死なない程度に……残りはどうしてくれようか」
ウルが楽しげに悩む。
残り──爪戯とウミリンゴに関しては、生死を問わない許可が出ている状態だ。
どう料理するか、思考を巡らせる。
「あんたに殺される気はないし、仇もとらせてもらう!」
爪戯が叫び、水を放つ。
「オレのせいじゃないのに~」
ウルが嘆息する。
木々がざわめき、不吉な音が森に鳴り響いた。




