No.62「先立つ」
悪魔、あるいは『鬼』と呼ばれる種族を象徴するのは、その頭上に頂く角である。
他者の肉体に自らの角を植え付け、強制的に眷属へと作り替える能力。
だが、その理を完全に掌握できる者は極めて稀であり、後世において『王の器』と称される存在に限られていた。
大多数の鬼にとって、その角は自らの生体の一部という範疇を脱することはない。
静謐な畳の部屋。
布団から力なく身を起こしたシュンランの額にも、種族の証左である角が覗いていた。
だが、それは彼に強大な力をもたらす装置ではない。
これは、シュンランとウミリンゴが交わした、遠い日の記憶である。
「シュンラン! こんにちは!」
快活な音を立てて襖を開けたのは、ツインテールの少女──ウミリンゴだった。
彼女は自らの意思で角を不可視の状態へと移行させることができる。真に選ばれた『王の器』としての資質を、彼女は生まれながらに備えていた。
「ウミリンゴ」
シュンランは、消え入りそうな声で短く応じた。
「毎日毎日、見舞いに来なくていいのに」
高窓から差し込む陽光が、欄干を白く焼き付けている。
その光景を背に、ウミリンゴは判で押したような正確さで、毎日彼の元を訪れていた。
「何よ、嬉しくないの?」
「来るの大変じゃない?」
「家隣だし、余裕よ」
ウミリンゴは携えてきたリンゴを傍らに置き、シュンランの枕元へと歩み寄る。その動作に迷いはない。
「私のことは気にしなくて良いのよ。あんたは少しでも体調が良くなるように努めていればいいの」
ウミリンゴはリンゴを剥こうとして、手元に刃物がない事実に今更ながら気づいた。
「あ、ちょっと台所借りるね」
「う、うん」
「すぐ戻るわ」
足早に部屋を辞去する彼女の背を見送り、シュンランは堪えきれず咳を零した。
俺はもう長くない。先に逝くのを許して欲しい……。
その願いは、誰に届くこともない懺悔に近い。
一方、廊下を進んでいたウミリンゴの足が止まった。
「今後御宅の子とうちのは会わせない」
閉ざされた襖の奥から、冷徹な声が響く。
「この声、お父さん……」
ウミリンゴは、それが実父の声音であることを即座に理解した。
「何故ですか? あの子たちは幼い時から一緒で、仲もよく……」
縋るような声の主は、シュンランの母親だった。
「うちのは、御宅のとは違って角の能力を使いこなしている。まともに能力を使いこなせない下級の鬼とは釣り合わない」
父親の声には、一切の情を排した選民思想が宿っている。
ウミリンゴは息を潜め、廊下の闇に溶け込むようにしてその会話を傾聴した。
「それに病で、明日をも知れない命。早めに別れさせておいた方が良い──……死んだ時の悲しみが少なくて済む」
合理性を盾にした無慈悲な言葉が、彼女の逆鱗に触れた。
ウミリンゴは激情のままに襖を蹴り開け、叫ぶ。
「ふざけるな! 私は──……」
だが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
異変は上空から訪れる。
虚空を裂いて伸びた巨大な木根が、天井を容易く粉砕した。それは重力を無視した鋭利な刃となり、ウミリンゴの父とシュンランの母、二人の肉体を一息に貫通する。
「えっ……」
視界が朱に染まる。
床を這うようにして、生温かい液体が広がっていった。
「悪魔、見つけたぜ」
破壊された天井の隙間から、赤い衣を纏った女が冷ややかな視線で見下ろしていた。
ウミリンゴは瞬時に悟った。抗えぬ死がそこにあることを。
彼女は無我夢中で駆け出した。
追撃するように木々が襲い掛かる。
反射的に電撃を放って応戦するが、奔流する自然の力の前には気休め程度の抵抗にしかならない。
それでも、彼女は止まらなかった。
病床のシュンランの手を引き、文字通り死線の中を潜り抜ける。
「ウミリンゴ! 俺は置いていって」
腕の中で、シュンランが悲鳴のような声を上げた。
「ウミリンゴ一人なら逃げ切れる」
「煩い!」
ウミリンゴは必死だった。
結い上げた髪は乱れ、足裏を傷つける感覚すら忘却している。
裸足のまま、二人は境界の地を駆けた。
「私はシュンランを見捨てたりしない!」
断崖が迫る。
ウミリンゴの思考は、いかにして彼を救うかという一点にのみ集約されていた。
だが、シュンランの直感がそれを上回る。
音もなく迫る死の気配──木の根が彼女を捕らえようとしたその瞬間。
シュンランは残された渾身の力で、ウミリンゴの体を突き飛ばした。
直後、鋭利な木根がシュンランの腹部を貫通し、その細い体を虚空へと跳ね飛ばす。
放物線を描いた彼は、そのまま深い崖下へと吸い込まれていった。
ウミリンゴが必死に手を伸ばす。
だが、その指先が彼に届くことはなかった。
「シュンラン!!」
断絶した叫びだけが、虚しく木霊した。
崖下。
横たわり、事切れるのを待つばかりのシュンラン。
ウミリンゴは膝をつき、思考を加速させる。どうすれば彼をこの世に繋ぎ止められるのか。
そこへ、一人の女が歩み寄ってきた。
爪雲と離別し、独り彷徨っていた爪嵐である。
「ん? ちょっと! 何してるの!?」
凄惨な光景を目にした爪嵐が、驚愕の声を上げた。
そして、彼女は致命的な慈悲を口にする。
「それ、助からないでしょ。一思いにトドメ刺してあげたら? なんなら私が──……」
それが彼女なりの気遣いであったとしても、愛する者を失いかけているウミリンゴにとって、それは呪詛に等しい。
この瞬間から、運命の歯車は狂い始めた。
◇
辛うじて追手を振り切ったウミリンゴ。
だが、シュンランの容体は絶望的だった。
一命を取り留めたという言葉は、ただ心臓が動いているという事実を指すに過ぎない。意識が戻る見込みはないという診断が下った。
静まり返った室内。眠り続けるシュンランの額に、ウミリンゴは右手をかざす。
もう少し早く処置ができていれば──……。
いや、どの道、彼の命は病に蝕まれていた。
それでも、私は彼と共に在りたかった。
「ウミ、何をしているの? そんな子、もうどうでも良いでしょ? 放っておきなさい」
「お母さん」
背後から掛けられた母親の声に、ウミリンゴは静かに振り返る。
その瞳には、すでに人間としての情愛は残っていなかった。
「シュンランは私のよ」
直後、臥せっていたはずのシュンランが、糸を引かれる人形のように上体を起こした。
ウミリンゴは自らの角を、シュンランの額へと移し替えたのだ。
眷属化。そうすることで、彼の肉体を支配し、無理やり生を存続させるために。
彼を動かす、そのためだけに行使された呪いである。
そして現在。
額を矢で撃ち抜かれたシュンランの脳裏に、封印されていた幼き日の断片が蘇る。
……ウミリンゴ。
その名を呼び、野の花で編んだ冠を彼女へ贈った、幸福な日々の記憶。
『シュンラン、私達ずっと一緒よ。約束!』
『うん』
花冠を戴き、無邪気に微笑む少女の姿。
──そうだ、約束していた……。
シュンランは、隣に立つウミリンゴへと最期の視線を向けた。
震える手を、彼女へと差し伸べる。
──でもごめん……。
ウミリンゴは、その一瞬の奇跡に気づいた。
彼に、意思が戻ったことを。
応えるように、彼女もまた右手を伸ばす。
シュンランの左手。
そしてウミリンゴの右手。
──先に逝くのを……。
だが、二人の指先が触れ合うことはなかった。
ウミリンゴの右手は、ただ冷ややかな虚空を切り裂く。
シュンランの体が、崩れるように倒れ伏した。
──許して欲しい。




