No.60「相転移」
「どうも初めまして! 本当はもっと過激な登場をしたかったんだけど!」
青黒い髪に、漆黒の軍服。
指先の爪には十字架の意匠が施され、左眼の下には特徴的な泣き黒子がある男。
名は水神ウル。
「あんたが!」
ウミリンゴが叫ぶ。
ウルの足元には、無残に切り落とされた鬼たちの首が転がっていた。滴る鮮血が、神社の地面を赤く染め上げていく。
「なんで! その子達が何かしたの!?」
瞳に怒りの炎を宿し、ウミリンゴが問いただす。
ウルの手は、彼らの血で濡れていた。
「何も」
一陣の風が吹き抜け、木々をざわつかせる。
「ただただ、オレの嗜虐性によって犠牲になっただけ」
ウルは狂気を孕んだ微笑みを浮かべ、事も無げに答えた。
その瞬間に放たれた異常な気配を、爪雲と爪戯は肌で感じ取っていた。
この男は、関わってはいけない種類の人間だ、と。
直後、爪戯の顔面が弾けた──かに見えた。
「爪戯!」
爪雲が弟の名を叫び、振り返る。
「なるほど」
ウルは右手の指先から、視認不可能なほどの高圧水流を放っていたのだ。
「聞いてた通り」
ウルは独り言のように続ける。
彼の左顎から頬にかけて、一筋の切り傷が生まれていた。
「良い眼をお持ちで」
爪戯は右眼を開眼していた。
反射能力。
ウルは爪戯の反応速度と能力を評価した。
「知っててわざと……」
爪戯の額に冷や汗が伝う。
咄嗟の判断で右眼の能力を行使し、攻撃を反射した。
だが、ウルはそれを織り込み済みで、試すように攻撃してきたのだ。
ウミリンゴには、一瞬何が起きたのか理解できていない。
平気なのか……? 右眼を使ったとして、この化け物を殺せるのか?
爪戯の脳裏に疑念が渦巻く。
「眼か、眼ねえ……」
ウルは楽しげに呟く。
風が、対峙する両者の間を撫でていく。
ウルは頬の傷を痛がる素振りも見せず、むしろその痛みを愛でるように微笑んでいた。
「定番だけど、『抉る』でいくかな。麻酔は勿論ありません」
ウルは右手を口元へ運び、自らの人差し指を強く噛んだ。
彼にとって、痛みは喜びと同義だ。
「その前に捕獲して──……」
ガリ、と音がするほど強く指を噛み破る。
鬼の血で汚れていた指は、溢れ出るウル自身の鮮血によって上書きされた。
次の瞬間、空間に大量の水が出現し、爪戯たちへと襲い掛かる。
爪雲が一歩前へと踏み出した。
左手をかざし、周囲の熱量を操作する。
高熱により、迫りくる水は瞬時に沸騰し、水蒸気へと相転移した。
視界が白く染まる中、ウルの表情は笑顔のままだ。
「爪戯! そこの鬼とこの場を離脱!」
爪雲が短く、鋭く指示を飛ばす。
「ちょっと! 私はあの男を許せないのよ!」
「お前じゃ無理だ。あいつはオレが足止めする」
下僕を殺され怒り狂うウミリンゴだが、爪戯の水(物理防御)で防がれてしまう程度の攻撃力では、ウルには到底及ばない。
爪雲は冷静に戦力差を分析していた。
「だいたい、なんであんた達の手を借りなきゃいけないわけ!?」
ウミリンゴは毛を逆立てた猫のように叫んだ。
濃密な水蒸気が辺りを包み込み、視界を遮断していく。
「姉さんのことは、まだ疑ってる。鬼化させたのは事実……でも、暴走の犯人という確証もない。なら今は、この場を乗り切って後で真偽を確かめる」
爪雲は答えた。
爪戯の右眼をもってしても、あの男を倒せるビジョンが浮かばない。
このままでは全員殺される。その確信に近い予感が、爪雲を突き動かしていた。
「もういい?」
ウルは攻撃の手を止め、余裕の表情で彼らの問答を聞いていた。
彼が右手を前に出す。
水を操る。
爪戯たちの周囲を、冷気が覆い氷が生成され始めた。
爪雲は即座に熱を送り込み、氷を溶解させる。
「いいから! 行け!」
爪雲が絶叫する。
ウルはあえて追撃せず、その様子を楽しんでいるようだ。
爪戯、ウミリンゴ、シュンランの三人は、意を決して後方へと走り出した。
「あんたも私の下僕なの! だから、死んだら許さない!」
ウミリンゴは駆けながら、背中の爪雲へ叫んだ。
爪戯も「先行ってる」と短く告げる。
三人は神社の裏手から、森の奥へと姿を消した。
「自分ならオレの能力に対抗できると思った?」
ウルの周囲に、無数の水の珠が舞い上がる。
辺りは未だ水蒸気に満たされていた。
「意外だな……あの三人を逃がす為に、一戦交える覚悟だったんだけど」
爪雲は死闘を演じてでも時間を稼ぐつもりだった。
だが、ウルはただ彼らが逃げるのを見ていただけだ。
「感銘を受けたので」
ウルは両手を広げ、周囲の水を躍らせながら語り始めた。
「『此処は俺に任せて先に行け』ってか? それってとっても死亡フラグ! 仲間の為に死を選ぶ……仲間想いなんだねぇ」
ウルの満面の笑み。
称賛の言葉を並べてはいるが、そこには底知れぬ不気味さが漂う。
「だからお望み通り、先にあんたの相手をしてあげようってね」
ウルが言い終えるよりも速く、爪雲は地を蹴り肉薄した。
「そりゃ、どうも!」
爪を巨大化させ、ウルへと突っ込む。
地面に落ちた水たまりを左足で蹴り上げ、瞬時に熱を加える。
ウルの目の前で、蹴り上げられた水が爆発的に気化し、白煙となる。
目くらまし。
一瞬の視界不良を利用し、爪雲はウルの背後へと回り込む。
左手の爪で、その胸を一突きにした。
背後から、ウルの身体は確かに貫かれた。
「あはは、はは」
心臓付近を貫かれたはずのウルの表情は、苦痛に歪むどころか、歓喜に満ちていた。
笑顔が深まる。
「爪の変化と熱……炎かな?」
ウルは冷静に分析結果を口にする。
爪雲の能力は、爪の形状変化と熱操作だ。
こいつ、なんとなく感じてはいたが平気なのか……?
爪雲は戦慄する。
ならばこのまま、体内から発火点まで温度を上げ、焼き尽くすのみ。
そう考え、突き刺した爪から猛烈な熱を送り込む。
「うーん……火刑にしたいんだろうけど、オレには火を起こす手段がないんだよね」
ウルは、自身の胸を貫通している爪雲の腕を掴みながら言った。
「火刑」とは、爪雲自身が焼かれるという意味だ。
水を凸レンズに見立てた収斂火災も可能だが、ウルは別の手段を選んだ。
「燃えない!?」
爪雲は焦る。
体内に熱を送り込み、血液を沸騰させ、人体発火を引き起こそうとしていた。
だが、その目論見は外れた。熱が、吸い取られるように消えていく。
「ああ、物が燃えるにはいくつか要素があって、その一つが熱だけど」
ウルは首だけで振り向き、右手で爪雲の手首を万力のように握りしめた。
そして左手を、鋭利な刃物──手刀のように構える。
「お前ごときの熱量で、どうにかなるとでも?」
鈍く、湿った音が響いた。
爪雲の左腕が、肘の先から切断された。
ウルは水を統べる神。
自身の体内の水分すら完全に制御し、沸点を超越して液体の状態を維持したのだ。
熱の対決において、爪雲は完敗した。
爪雲は切断された左腕の付け根を押さえる。
遅れて激痛が走る。
「すみませ~ん。すぐ手を抜く癖があるので、みすみす水の気化を許してました!」
先ほど爪雲が水を気化させられたのは、単にウルが本気を出していなかったからに過ぎない。
「しかし意外と痛がらない? 我慢強いの?」
ウルは、ちぎり取った爪雲の左手をぶら下げながら問いかけた。
地面の赤が、より一層濃くなっていく。
「なるほど! これは褒美をあげなくては」
ウルの狂気は、留まることを知らない。




