No.6「止める」
***
此処は、とある山間の神社の一角。
石段の隙間から虫の声が洩れていた。
「あの人は……母さんは、オレだけを無視していた」
幼い爪戯の声が、夜気に溶けていく。
細い肩が震え、石段の上で拳を握りしめていた。
「あの人に認められるには、どうしたら良い?」
その小さな胸の中は、ただその思いでいっぱいだった。
何をしても褒められず、目も合わせてもらえない。
むしろ存在しないかのように扱われる。
爪戯は五人兄弟の真ん中。
兄や姉、弟妹たちと違い、常にひとりだけ外されていた。
食卓でも、練習場でも。
母はいつも、彼を見ない。
唇を噛みしめ、視線を地に落とす。
「どうしたと? 元気なかね、爪戯!」
不意に、明るい声が背後から降ってきた。
振り返ると、そこには奇妙な青年が立っていた。
頭には猫の面を、飾りのように斜めにかけている。
「だ、誰!?」
思わず身構える爪戯。
青年は驚いたように目を瞬かせ、すぐに破顔した。
「あれ? 聞いとらん?」
軽い口調で言いながら、青年は片手を腰に当て、楽しげに続ける。
「おれはあれ、あれ!
きみの一族とは古くから契約関係にある、“猫神”と呼ばれてる者やけん。
よろしくね!」
太陽が猫神の白い面を照らし、影が揺れた。
それが――爪戯と猫神の、最初の出会いだった。
「神様……? 神様ってんなら、オレの悩み、解決できる?」
幼い爪戯は、希望を掴むように問いかけた。
猫神は尻尾でも振るように、にっこりと笑う。
「お? 言ってみんしゃい」
促されるまま、爪戯は母との確執をすべて語った。
泣きながら、怒りながら。
それでも猫神は、ひとことも遮らずに聞いていた。
「あーね。まあ、爪戯だけ“爪炎”の能力、引き継いでないけんね」
やがて猫神が軽く言ったその一言が、爪戯の胸を突く。
爪戯の能力は、母である爪炎由来ではない。
祖母から受け継いだ“水”の力。
「能力の遺伝って、どうなってんの?」
爪戯は不満を滲ませて問いかける。
「知らん」
即答。
「知らんのかい」
思わず突っ込む爪戯に、猫神はおかしそうに笑った。
“神”といえど、知らぬこともあるらしい。
「じゃあさ、能力って後から手に入らない?」
爪戯は遠くの灯籠を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「水以外の能力を持っていたら、母さんの扱いも少しは変わるのかなって。
それにオレ、強くないから。使える能力を他にも持っていたら、母さんの役に立てるかなって」
小さな声だった。
だがその背中には、幼いながらも孤独と決意が同居していた。
猫神はしばらく黙り込み、やがてぱっと手を叩いた。
「実は、あるとよ!」
その言葉に、爪戯が顔を上げる。
猫神は、まるで秘密を明かすように、声を低めた。
――そもそも、能力を発動させる源「シン」は、“神”と呼ばれる者がオリジナルを持ち、それを複製し人間へと与えたもの。
かつて神々は力を分け与え、その模倣が代々遺伝していった。
今、人の身に宿る能力とは、その残滓にすぎない。
「つまり、きみらの持ってる能力ってのは“神にもらったもの”なんよ。
だから……」
猫神は笑いながら、右手の人差し指を爪戯の右目にそっと添えた。
次の瞬間、指先が微かな光を放つ。
「それ、おれからのプレゼントやけん。上手く使うとよ?」
痛みではなかった。
熱が、右目の奥で膨れ上がる。
何かが流れ込み、心臓の鼓動と呼応していく。
――右目に、“力”が宿った。
それが、爪戯に授けられた新たな“シン”。
運命を変える始まりだった。
***
現在。
森の中、月光の差す開けた場所。
辛の背後には、先の戦闘で穿たれた大きな穴。
地面は裂け、あたりには金属片と氷の破片が散っている。
辛の左脇には、深い裂傷。血が滲み、夜気に赤が広がる。
正面に立つ爪戯の表情には、迷いはなかった。
(「シン」の消費が多くて、一日数回が限度だけど……これで、殺る)
爪戯は頭上に氷の刃を展開する。
冷気が周囲を包み、空気が白く曇った。
辛は即座に反応し、左手を地に触れて金属を生成。
足元から鋼が隆起し、刃を受け止める壁を形成していく。
(無駄だよ。これは“あんたのところに落とす”用の氷じゃない)
爪戯は冷静に、氷刃を自分の頭上に構えた。
そして――自分に向けて、その刃を振り下ろした。
――その瞬間、辛の目の前に金属の壁が出現した。
月光を反射するその表面は、鏡のように滑らかで、爪戯の姿を映している。
辛と爪戯を隔てるそれは、単なる防壁ではなかった。
爪戯の「右眼の能力」における、“弱点”のひとつ――鏡だった。
「まさか、さっきので気づいた? まだ一回しか見せてないのに!」
爪戯が驚き混じりの声を上げる。
感嘆と、わずかな悔しさが混じる笑みを浮かべながら。
「攻撃した瞬間、その右眼でオレを見ていた。
そうしたら、オレの方が傷を負った。
――右眼で“見たもの”にダメージを移す。そういう能力だと考えた」
辛は鏡越しに、淡々と分析を告げる。
その声音は冷静で、まるで既に勝負を終えているようだった。
「直前に“見たもの”にしか移せないから、鏡は弱点になるね」
爪戯は唇の端を上げ、少しだけ肩をすくめた。
羨望と、敵わなかった悔しさが混じる表情。
「あーやっぱ敵わないか! まあ、そういうあんたになら、殺されてもいいか」
「殺す気はないんだが?」
即座に返す辛。その声には、一切の怒気がなかった。
「だって斬りかかってたじゃん!」
「多少は“戦闘不能”にしようとしただけで、殺す気はない」
「マジデスカ」
爪戯は素で驚いた声を上げた。
思わず肩の力が抜け、戦場に似つかわしくない空気が流れる。
辛は鏡をゆっくりと消しながら、静かに続けた。
「……あんたこそ、殺す気ないだろ」
その一言に、爪戯の呼吸が止まった。
核心を突かれたように、唇を噛みしめる。
右眼を温存せず、初手で使いさえすれば。
さらに不意打ちを仕掛けていれば――辛とて無傷では済まなかったはずだ。
「心のどこかで……そうなのかも。向いてないな、オレ」
爪戯の声は、どこか遠くを見ているようだった。
その言葉に、辛の視線がわずかに細くなる。
「オレ、兄弟が何人かいるんだけど、母さんはオレのことだけ無視してて。
この右目を猫神にもらった後、少しは態度が変わった。
でも、オレは優秀じゃないから、嫌われたままだったよ」
風が木々を揺らし、枯葉がさらさらと舞い落ちる。
爪戯の声が、その音に溶けていった。
――このまま帰っても、何も変わらない。
要らない存在なら、せめて命令通りに。
爪戯は、どこか納得したような声で呟いた。
「言われたよ、死んで来いってさ」
その言葉とともに、右眼が閉じられる。
爪戯は氷の刃を呼び出し、自身へと振り下ろそうとした。
その瞬間。
辛が割って入る。
鋭い音と共に、爪戯の身体が弾かれた。
氷の刃は辛の身体を裂き、鮮血が飛び散る。
「なんで……」
地に手をついたまま、爪戯が震える声を漏らす。
「オレは殺す気はなかったかもしれないけど、オレはあんたを“攻撃した”。
――あんたに助けてもらう理由がない!」
爪戯の叫びは、痛みに混じった自責そのものだった。
だが辛は、その声を静かに受け止める。
彼の脳裏に――崖での出来事がよぎった。
あの時、凪が爪戯を治療した時のこと。
「あんたはオレを“人間”だと言った。
何より、あんたはオレを“褒めた”。理由なんてそれで十分だ」
辛の瞳が、真っすぐに爪戯を捉える。
その声音には、静かな熱がこもっていた。
「その命、捨てるなら、オレが拾う」
その言葉は、命令ではなく、願いだった。
血を流しながらも、辛の声は確かな力を持っていた。
爪戯の胸に、猫神との記憶がふと甦る。
***
「昨日見た奴がさ、金属で武器を作って敵をバッサバッサとねー」
楽しげに語るかつての爪戯の声。
隣で猫神が、にこにこと目を細めていた。
「なんなん、爪戯~。たのしそうやね」
「仲良くなれたりしない? ってか、オレもあんなふうに強くなりたい!」
はしゃぐ声に、猫神は首を傾げ、柔らかく呟く。
「な~、何となくなんやけど。爪戯のこと、助けてくれる人な気がするんよね」
「え!? なにそれ!」
あの日の笑い声が、遠くでこだまする。
***
――辛が、自分を救う日が来るなんて。
あの時の自分は、想像すらしていなかった。
辛は血に濡れた手で、静かに左手を差し出す。
「オレについて来ないか? あんたの力を貸してくれ」
その言葉は、爪戯にとって“赦し”であり、救いだった。
爪戯の右手が震えながら伸びる。
その手が触れようとした――その刹那。
辛の視線が左へと向く。
「気づくのですか」
冷ややかな声。
ゆっくりと近づいてくる影が、月明かりの下で形を取った。
月光が照らし出したのは、艶やかな髪と深紅の瞳。
爪戯が凍りつく。
そこに立っていたのは――爪戯の母、爪炎。




