No.6「止める」
記憶の淵。此処は、とある山間の神社の一角。苔むした石段の隙間から、秋虫の声が寂しげに洩れていた。
「あの人は……母さんは、オレだけを無視していた」
幼い爪戯の声が、冷たい夜気に溶けていく。
細い肩が震え、石段の上で、血が滲むほど強く拳を握りしめていた。
「あの人に認められるには、どうしたら良い?」
その小さな胸の中は、ただその切実な思いでいっぱいだった。
何をしても褒められず、叱られもしない。目も合わせてもらえない。
まるで、そこに空気が漂っているだけかのように扱われる。
爪戯は五人兄弟の真ん中。
優秀な兄や姉、才気ある弟妹たちと違い、常にひとりだけ輪の外へ弾き出されていた。食卓の席次でも、修練場での指導でも。母はいつも、彼を見ない。
唇を噛みしめ、滲む涙を隠すように視線を地に落とす。
「どうしたと? 元気なかね、爪戯!」
不意に、能天気な明るい声が背後から降ってきた。
肩を跳ねさせて振り返ると、そこには奇妙な青年が立っていた。
和装に身を包み、頭には猫の面を、髪飾りのように斜めにかけている。
「だ、誰!?」
思わず身構える爪戯。
青年は驚いたように目を瞬かせ、すぐに破顔した。
「あれ? 聞いとらん?」
軽い口調で言いながら、青年は片手を腰に当て、楽しげに続ける。
「おれはあれ、あれ! きみの一族とは古くから契約関係にある、“猫神”と呼ばれてる者やけん。よろしくね!」
夕日が猫神の白い面を照らし、影が長く伸びた。
それが――爪戯と猫神の、最初の出会いだった。
「神様……? 神様ってんなら、オレの悩み、解決できる?」
幼い爪戯は、縋るように、希望の端を掴むように問いかけた。
猫神は尻尾でも振るように、にっこりと笑う。
「お? 言ってみんしゃい」
促されるまま、爪戯は母との確執をすべて語った。
泣きながら、怒りながら、言葉にならぬ叫びを吐き出した。
それでも猫神は、ひとことも遮らず、楽しげな微笑みを絶やさずに聞いていた。
「あーね。まあ、爪戯だけ“爪炎”の能力、引き継いでないけんね」
やがて猫神が軽く言ったその一言が、爪戯の胸を鋭く突く。
爪戯の能力は、母である爪炎由来ではない。
隔世遺伝か、祖母から受け継いだ“水”の力のみ。
「能力の遺伝って、どうなってんの?」
爪戯は不満を滲ませて問いかける。
「知らん」
即答。
「知らんのかい」
思わず涙声で突っ込む爪戯に、猫神はおかしそうに声を上げて笑った。
神といえど、知らぬこともあるらしい。あるいは、知っていてとぼけているのか。
「じゃあさ、能力って後から手に入らない?」
爪戯は涙を拭い、遠くの灯籠を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「水以外の能力を持っていたら、母さんの扱いも少しは変わるのかなって。それにオレ、強くないから。使える能力を他にも持っていたら、母さんの役に立てるかなって」
消え入りそうな小さな声だった。
だがその背中には、幼いながらも痛々しいほどの孤独と、母への愛を諦めきれない決意が同居していた。
猫神はしばらく黙り込み、やがてぱっと手を叩いた。
「実は、あるとよ!」
その言葉に、爪戯がハッとして顔を上げる。
猫神は、まるでとっておきの秘密を明かす悪戯っ子のように、声を低めた。
そもそも、能力を発動させる源「シン」は、神と呼ばれる者がオリジナルを持ち、それを複製し人間へと与えたもの。かつて神々は力を分け与え、その模倣が代々遺伝していった。
今、人の身に宿る能力とは、その薄まった残滓にすぎない。
「つまり、きみらの持ってる能力ってのは“神にもらったもの”なんよ。だから……」
猫神は笑いながら、右手の人差し指を爪戯の右目にそっと添えた。
次の瞬間、指先が黄金色の微かな光を放つ。
「それ、おれからのプレゼントやけん。上手く使うとよ?」
痛みではなかった。
熱が、灼けつくような奔流が、右目の奥で膨れ上がる。
何かが流れ込み、心臓の鼓動と呼応して脈打ち始めた。
右目に、力が宿った。
それが、爪戯に授けられた新たな「シン」。
運命を変える始まりだった。
◇
現在。
森の中、月光の差す開けた場所。戦闘の傷跡は深い。
辛の背後には、先の水撃で穿たれた巨大な穴。
地面は裂け、あたりには金属片と砕けた氷の破片が散乱し、きらきらと光っている。
辛の左脇には、深い裂傷。
布が赤く染まり、血が滲んで夜気に鉄錆の匂いが広がる。
正面に立つ爪戯の表情には、もはや迷いはなかった。
「シン」の消費が多くて、一日数回が限度だけど……これで、殺る。
爪戯は右目を見開いたまま、頭上に氷の刃を展開する。
絶対零度の冷気が周囲を包み、吐く息が白く凍りつく。
辛は即座に反応し、左手を地に触れて金属を生成。
足元から鋼が隆起し、刃を受け止める壁を形成していく。
無駄だよ。これは“あんたのところに落とす”用の氷じゃない。
爪戯は冷静に、氷刃を自分の頭上に構えた。
そして――自分自身に向けて、その刃を振り下ろした。
自傷によるダメージ転移。それが彼の切り札。
その瞬間、辛の目の前に磨き上げられた金属の壁が出現した。
月光を反射するその表面は、鏡のように滑らかで、爪戯の姿を鮮明に映している。
辛と爪戯を隔てるそれは、単なる防壁ではなかった。
爪戯の「右眼の能力」における、致命的な弱点のひとつ――鏡だった。
「まさか、さっきので気づいた? まだ一回しか見せてないのに!」
爪戯が驚き混じりの声を上げる。
感嘆と、わずかな悔しさが混じる笑みを浮かべながら。
「攻撃した瞬間、その右眼でオレを見ていた。そうしたら、オレの方が傷を負った。――右眼で“見たもの”にダメージを移す。そういう能力だと考えた」
辛は鏡越しに、淡々と分析を告げる。
その声音は冷静で、まるで既に勝負の結末を見透かしているようだった。
「直前に“見たもの”にしか移せないから、鏡は弱点になるね」
爪戯は唇の端を上げ、少しだけ肩をすくめた。
羨望と、やはり敵わなかったという諦念が混じる表情。
「あーやっぱ敵わないか! まあ、そういうあんたになら、殺されてもいいか」
「殺す気はないんだが?」
即座に返す辛。その声には、一切の怒気も殺意もなかった。
「だって斬りかかってたじゃん!」
「多少は“戦闘不能”にしようとしただけで、殺す気はない」
「マジデスカ」
爪戯は素で驚いた声を上げた。
思わず肩の力が抜け、殺伐とした戦場に似つかわしくない空気が流れる。
辛は鏡を粒子に変えてゆっくりと消しながら、静かに続けた。
「……あんたこそ、殺す気ないだろ」
その一言に、爪戯の呼吸が止まった。
核心を突かれたように、唇を強く噛みしめる。
右眼を温存せず、初手で使いさえすれば。
さらに不意打ちを仕掛けていれば――辛とて無傷では済まなかったはずだ。
「心のどこかで……そうなのかも。向いてないな、オレ」
爪戯の声は、どこか遠くを見ているようだった。
その自嘲気味な言葉に、辛の視線がわずかに細くなる。
「オレ、兄弟が何人かいるんだけど、母さんはオレのことだけ無視してて。この右目を猫神にもらった後、少しは態度が変わった。でも、オレは優秀じゃないから、嫌われたままだったよ」
風が木々を揺らし、枯葉が音を立てて舞い落ちる。
爪戯の声が、その音に溶けて消えていく。
このまま帰っても、何も変わらない。
要らない存在なら、せめて最後の命令通りに。
爪戯は、どこか納得したような、憑き物が落ちたような声で呟いた。
「言われたよ、死んで来いってさ」
その言葉とともに、右眼が閉じられる。
能力の解除ではない。自決の準備だ。
爪戯は鋭利な氷の刃を呼び出し、躊躇なく自身の心臓へと振り下ろした。
その瞬間。
湿った音が鼓膜を打つ。
辛が割って入ったのだ。肉を裂く感触と共に、爪戯の身体が弾かれる。
氷の刃は辛の肩口を深々と裂き、鮮血が夜空に飛び散った。
「なんで……」
地に手をついたまま、爪戯が震える声を漏らす。
目の前で、自分を庇った敵が血を流している。
「オレは殺す気はなかったかもしれないけど、オレはあんたを“攻撃した”。――あんたに助けてもらう理由がない!」
爪戯の叫びは、痛みに混じった自責そのものだった。
だが辛は、痛みに顔色ひとつ変えず、その声を静かに受け止める。
彼の脳裏に――崖での出来事がよぎった。
あの時、凪が傷ついた爪戯を、治療した時のこと。
「あんたはオレを“人間”だと言った。何より、あんたはオレを“褒めた”。理由なんてそれで十分だ」
辛の瞳が、真っすぐに爪戯を捉える。
その声音には、静かな、けれど火傷しそうなほどの熱がこもっていた。
「その命、捨てるなら、オレが拾う」
その言葉は、命令ではなく、魂からの願いだった。
血を流しながらも立つ辛の姿は、どんな神よりも確かな力を持っていた。
爪戯の胸に、猫神との記憶がふと甦る。
◇
「昨日見た奴がさ、金属で武器を作って敵をバッサバッサとねー」
楽しげに語るかつての爪戯の声。
隣で猫神が、にこにこと目を細めていた。
「なんなん、爪戯~。たのしそうやね」
「仲良くなれたりしない? ってか、オレもあんなふうに強くなりたい!」
はしゃぐ声に、猫神は首を傾げ、予言めいたことを柔らかく呟く。
「な~、何となくなんやけど。爪戯のこと、助けてくれる人な気がするんよね」
「え!? なにそれ!」
あの日の無邪気な笑い声が、遠くでこだまする。
◇
辛が、自分を救う日が来るなんて。
あの時の自分は、想像すらしていなかった。
神様の予言は、本当だったのだ。
辛は血に濡れた手で、静かに左手を差し出す。
「オレについて来ないか? あんたの力を貸してくれ」
その言葉は、爪戯にとって初めて与えられた“赦し”であり、居場所という救いだった。
爪戯の右手が震えながら伸びる。その指先が、辛の手に触れようとした――その刹那。
辛の視線が鋭く左へと向く。
「気づくのですか」
絶対零度の冷ややかな声。
ゆっくりと近づいてくる影が、月明かりの下ではっきりと形を取った。
月光が照らし出したのは、燃えるような橙色の髪と、血のように深紅の瞳。
爪戯の思考が凍りつく。心臓が早鐘を打つ。
そこに立っていたのは――爪戯の母、爪炎。
逃れられぬ絶望が、そこにいた。




