No.50「現れる」
地下。
辛の眼前に聳えるのは、絶望的なまでに強固な岩の壁。
あと少し。
傷は入った。一点突破の可能性は見えている。
だが、辛は宿での戦闘に続き、この地下での連戦で著しく疲弊していた。
「っ……」
右手で左脇腹を押さえる。
先ほどの石神の攻撃で負った傷が、焼けるように痛む。
一撃。
脇腹を容赦なく尖った岩が襲ったのだ。
轟音を立て、辛の体は紙屑のように吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
石神は壁の向こうで余裕の表情だった。
直接姿は見えずとも、その傲慢な気配は壁越しに伝わってくる。
「眼の借りってことで、このままいたぶっても良いけど……遊びすぎるのも良くないよね? うん! じゃあ、そろそろトドメ!」
辛の目の前には、処刑具のごとく大量の尖った岩が浮遊し、切っ先を向けている。
背後に退路はない。
それを見透かしているかのように石神は微笑む。
「バイバイ♪」
辛目掛けて殺意の石が襲う。
辛の眼が細まる。死を受け入れるためではなく、最期の瞬間まで活路を探すために。
硬質な音が鳴る。
壁の向こうで石神は、消えるはずの辛の妖気が絶たれていないことに気づく。
「ギリギリだったが、位置指定は完璧か……流石というべきかあのシャチモドキ」
辛を抱え、岩の暴風雨から救い出したのはシロホンだった。
シャチモドキの空間転移能力でこの座標に現れ、間一髪で救ったのだ。
シロホンは救出した辛を、無造作に横へ放り捨てた。
「で? 神はどこだ?」
シロホンは辺りを見渡す。
辛は黙ったまま、助けになど来ていないと言わんばかりのシロホンを見ていた。
「マナ……悪魔……」
シロホンの正面。
岩の壁から石神の声がした。
「そこか」
シロホンは短く一言。
石神の位置を正確に捕捉した。
◇
地上。
ヤナギの精霊──ハクレイに爪戯と凪は抱えられていた。
ハクレイの近くにはスズノが浮遊している。
スズノはハクレイの分身であり、同じヤナギの能力から生み出された存在だ。
「え? 何この状況……」
凪は目を丸くしたままだった。
遥か上空に連れ去られたかと思えば、突然の浮遊感。
ハクレイは宙に浮いたまま二人を空中に放り投げた。
「ちょ!? 何投げ……!」
凪は焦り、声を荒げる。落下すればただでは済まない高さだ。
だが、
「落ちない?」
爪戯と凪はハクレイの作り出した透明な結界に入れられ、空中で静止し、無事だった。
宙に浮かぶ精霊ハクレイと分身のスズノ。
結界の中に保護された爪戯と凪。
それを地上から、塩神は顔を上げて見ていた。
手出しできない高さに逃げられたか。
すると、塩神は足元に走る微かな振動を察知した。
鋭い斬撃音が響く。
地面を覆う白き塩を、漆黒の五本の鉄の刃が引き裂いたのだ。
塩神は刃を避ける為、咄嗟に飛び退いた。
「マナを感じる……悪魔か」
塩神は冷静に分析し着地した。
地面から生える五本の刃を目にする。
その異質な形状、放たれるマナの波動。
すると地面からエレベーターのように昇り現れたのは、ヤナギともう一体の精霊キルキー。
五本の刃はキルキーの体から伸びているものだった。
「上へ参りま~す♪ あ! どうも~」
顔に血をつけたヤナギは無邪気な笑顔で言い、続けた。
「神を殺す悪魔だよ」
無邪気。どこまでも無邪気な子供の笑顔だった。
だが、その瞳の奥には底知れぬ闇が広がっている。
塩神の表情は冷たさを増す。
生理的嫌悪を抱く、憎き悪魔が現れたからだ。
「悪いトマトは、お仕置きだよ~」
ヤナギは地に降り立つ。
その様子を空中の結界の中から凪と爪戯が見ていた。
「あ! トマト少年!」
「怪我してんじゃん!」
凪が声をかけ、爪戯が鋭く指摘した。
ヤナギはシロホンの吸血によって首元を噛み切られ、服が滲むほどの怪我をしている。
「んんん~? ボクは、血を抜かれたぐらいじゃ死なないよ。血? あ、トマトか」
ヤナギの笑顔は崩れていなかったが、微かに子どもとしての仮面が崩れたように見えた。
「ってか、お姉さんを助けられてよかったね!」
ヤナギは上空の爪戯に対して言った。
そして冷ややかな声色で続ける。
「まあ、お姉さんたちはそこに居て。ここからはボクの仕事だよ。それに──……邪魔だから」
ヤナギは黒い爪を光らせ手を振り、精霊キルキーに合図を送る。
キルキーは巨大な鎌のような刃を塩神へと向け、射出した。
「待って! その人に触れたら!」
凪が叫んだ。
塩神に触れれば、いかなる物質も塩化され崩れ去る。一撃で終わる。
普通なら。
塩神は何かを察し、塩に換えず避けた。
刃は何度も何度も襲う。
その度にかわしていく。
防御ではなく、回避を選択している。
「……? 避けた?」
爪戯も首を傾げる。
触れれば勝ちの能力を持つ塩神が、なぜ避けるのか。
塩神は思考を巡らせていた。
ヤナギが塩の下から現れた時点で気づいたのだ。
全身を塩で覆われた地面の下から、無傷で現れたあの悪魔。
どういう訳か分からないが、ヤナギには塩神の塩化攻撃が効かない。能力が無効化されている。
回避運動の最中、塩神の左頬を刃がかすめ、赤い線ができる。
血が流れた。
「待ってよ! マスター!」
待ったをかけたのは空中に居たスズノだ。
「ん~? 何~?」
ヤナギが問いかけるとスズノはすっとヤナギに近寄り、何かを耳打ちした。
攻撃の手が一時止む。
神と悪魔が対峙する異様な光景を、塩神は見ていた。
「あはははっ」
スズノから何かを聞いたヤナギは、唐突に笑いだす。
それは、獲物を追い詰めた捕食者の歓喜。
「そっか~じゃあボクが、その最期へ導いてあげるね」
無邪気。
その一言が似合う笑顔で、ヤナギは神を狂気へといざなおうとしていた。




