No.5「水使い」
***
「おれはあれ、あれ! きみの一族とは古くから契約関係にある」
澄んだ夜気。
境内の空気が、ひんやりと肌を撫でた。
古びた神社の灯籠の下、幼い爪戯が目を丸くして立っている。
その前に、猫の面を頭に飾るようにつけた青年が、にやりと笑っていた。
「猫神と呼ばれてる者やけん。よろしくね!」
青年の声は軽く、どこか楽しげだった。
爪戯はその言葉の意味も分からぬまま、小さく頷く。
夜空には満天の星。
その光の下で、奇妙な縁が結ばれていた。
***
夜はさらに更け、家の中は静まり返っていた。
凪は布団の中で横たわり、天井をぼんやりと見上げている。
頬にひらりと、一匹の蝶がとまった。
その小さな翅が、呼吸のたびにかすかに震えている。
(……色々あったなぁ。そういえば、辛君も“人を探してる”って……)
凪の思考は、ゆるやかに眠気に沈みながらも途切れなかった。
まぶたが重くなり、意識が揺れる。
そのまま、いつもの記憶が脳裏に浮かぶ。
「私は……犯人を必ず見つけ出す──」
声に出してしまっていた。
思わず顔を伏せる。
あの夜。
母親が何者かに切り裂かれ、血に染まって倒れる光景が、まぶたの裏に蘇る。
止めようとしても止まらない。
悲鳴と、血の匂いが、記憶の底で蠢いていた。
***
一方そのころ。
辛は縁側に立っていた。
靴を履き、夜気を受けながらじっと外を見つめる。
その表情はいつも通り、無機質で静かだ。
やがて壁際まで歩み寄り、ひと息。
軽やかに縁側を越え、闇の中へと姿を消した。
その一部始終を、襖の影から見ていた者がいた。
爪戯。
(外に……行っちゃった!?)
目を丸くしながら、すぐに足音を殺して後を追う。
風の冷たさが、頬を撫でる。
***
やがて、森の奥。
水辺の近く、少し開けた場所。
辛はその中央に立っていた。
月光が水面に揺れ、彼の輪郭を淡く照らす。
「この辺りでいいか?」
振り返らずに、低い声を放つ。
その声に応えるように、木陰から爪戯が姿を現した。
「あのー……気づいてた? でもいつから?」
苦笑を浮かべ、頬をかきながら言う。
右眼は閉じたまま、左眼だけが月光を反射していた。
「あんた、オレに会ったことあるって言っていたが──」
辛が少しだけ振り返る。
月明かりの中、その瞳はまっすぐ爪戯を射抜いた。
「あの時の気配や隠れ方から、色々察した。」
淡々とした声。
だが、その一語一語に、確かな観察と警戒が滲んでいる。
「あの時は、オレに対しての刺客と考え、殺そうとも思ったが……」
辛は静かに続ける。
「殺気のない気配だったから放置した。だから覚えていた」
夕餉の後の会話が脳裏をよぎる。
二人は“面識”こそなかったが、互いの存在を確かに感じ取った日があった。
爪戯は、影の中から辛を見つめていた。
けれど、その視線には敵意がなかった。
ゆえに、辛は刺客ではないと判断し、刃を抜かなかった。
だが今は違う。
「しかし今日、部屋を出て行った後──殺すように言われたのか……」
辛の声が夜風に混じる。
「姿を隠して、オレの様子を窺うようになったからな」
気配のわずかな変化すら、彼は見逃さない。
だからこそ、戦いを避けられないと悟り、外へ出たのだ。
爪戯は驚きに目を見開き、やがて口元を吊り上げた。
「あっはは。おかしいな、あの時も今日も、殺気も何も完璧に隠したはずなんだけど。
すごいね、あんた。」
感心したように言いながら、口調が少しだけ軽くなる。
「そうだよ! オレは“殺し屋”ってのをやっている一族の一人!
だからオレに殺されてくれると、助かるんだよね!」
右目を隠す前髪を少しだけかき上げ、軽く笑う。
その声の裏に、張り詰めた気配が混じっていた。
「依頼があってね。それに、母さんの期待には応えないと。」
指が鳴る。
瞬間、空気が凍りついた。
地面の上に、透明な氷の刃がいくつも形成される。
それらが辛に向かって、一斉に放たれた。
辛は微動だにせず、眼前に金属の壁を展開する。
鋭い氷がぶつかり、甲高い音を立てて砕け散った。
月光がその破片を照らし、空に星のような軌跡を描く。
(……ここに、オレを誘い出したのは間違いだよ。)
爪戯の唇がわずかに笑う。
視線は、辛の背後――その先に広がる水辺へ。
(あんたの後ろには“水”がある。水はオレの味方だから──)
刹那、辛の背後の水面が轟音とともに舞い上がった。
爪戯の能力は、水の生成も相転移も、そして周囲の水を自在に操ることも可能にする。
今、彼が掴んだのは辛の背後に広がる小さな水たまり――月光を映すそれだった。
辛は地面へわずかに視線を落とす。振り返ることはしない。
その瞬間、土地が呻き、地面が裂けて口を開いた。
舞い上がった水は、まるで割れ目に誘われるかのように流れ込み、地下へと一気に落ちていく。
「地面を割って、水を全て地中に落とすとか、ありなの?」
爪戯が割れた地面を見下ろし、笑いを混ぜて口にする。
辛は無表情のまま、次の能力を起動した。
地中から木の根が這い出し、確信を持って爪戯の足首を絡め取る。
(金属生成に土系統の能力、そして次は木を操作……聞いていた通りの“五行使い”──)
爪戯の頭の中で、戦況が冷静に解析される。
辛は五行を操る者だった。金・水・土・木・火。
最初の防御が金で、水を地中へ誘導したのは土、そして拘束に木を用いる──その配列が、彼の戦い方を物語っていた。
辛は表情を変えず、金属を生成して剣を成すと、静かに爪戯へと駆け出した。
(やっぱ、すごいんだな……)
爪戯は内心で感嘆しつつ、同時に焦燥を覚えた。
***
爪戯の脳裏に、幼い日の記憶がさっとよぎる。
母とのやり取り。依頼を持ち込んだ女の声。あの女――爪炎だった。
「丁度、あの妖混じりを殺すよう依頼がありました。貴方がやりなさい」
背を向けたまま放たれたその声は、冷たく、非情に響いた。
「我が家に出来損ない要りませんよ。失敗するようでしたら、死んでください」
母の言葉は容赦がなく、我が子に向けられるにはあまりにも冷たい。
***
金属が空気を切り裂く。辛の刃が爪戯を斬りつけた。
短い静寂の後で――不意に、辛自身の左脇に裂傷が走る。
「あ、ちゃんと血は、赤いんだね」
爪戯はかすかに笑い、手早く氷を展開して辛の左側面へとぶつける。
氷の一撃が辛の足を掬い、彼の身体がわずかによろめいた。
「……」
辛は沈黙を守る。言葉を発しない代わりに、刀身を握り直して踏みとどまる。
「悪いけど、失敗は許されないんで」
爪戯は一度だけ俯き、短く間を置いてから顔を上げる。
その表情は冗談めいているが、瞳の奥には決意が宿っていた。
「殺すよ」
そう告げると、長く閉ざされていた右目が開いていた。




