No.5「水使い」
遠い昔の記憶。
「おれはあれ、あれ! きみの一族とは古くから契約関係にある」
澄んだ夜気。
無数の蛍火が舞う境内の空気が、ひんやりと肌を撫でた。
古びた神社の灯籠の下、まだ幼い爪戯が目を丸くして立っている。その前に、まるで芝居の衣装のような、猫の面を頭に飾るようにつけた青年が、にやりと笑っていた。
「猫神と呼ばれてる者やけん。よろしくね!」
青年の声は軽く、どこか楽しげだった。
爪戯はその言葉の意味も、一族の業も分からぬまま、ただ小さく頷く。
空には満天の星。
その残酷なほど美しい光の下で、逃れられぬ奇妙な縁が結ばれていた。
◇
時は戻り、現在。
夜はさらに更け、家の中は静まり返っていた。
凪は布団の中で横たわり、天井の染みをぼんやりと見上げている。
頬にひらりと、一匹の蝶がとまった。
その小さな翅が、呼吸のたびにかすかに震えているが、凪は気づかない。
色々あったなぁ。そういえば、辛君も“人を探してる”って……。
凪の思考は、ゆるやかに眠気に沈みながらも、泥のように粘り着いて途切れなかった。
まぶたが重くなり、意識が揺れる。そのまま、いつもの記憶――鮮烈な赤色が脳裏に浮かぶ。
「私は……犯人を必ず見つけ出す──」
声に出してしまっていた。
自分の声にハッとして、思わず顔を伏せる。
あの夜。母親が何者かに切り裂かれ、血に染まって倒れる光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
止めようとしても止まらない。耳をつんざく悲鳴と、噎せ返るような血の匂いが、記憶の底で生々しく蠢いていた。
◇
一方そのころ。
辛は縁側に立っていた。すでに靴を履き、冷徹な夜気を受けながらじっと外の闇を見つめる。
その表情はいつも通り、無機質で静かだ。
だが、その身に纏う気配は、眠るための安らぎとは対極にあった。
やがて壁際まで歩み寄り、ひと息。
音もなく軽やかに縁側を越え、闇の中へと姿を消した。
その一部始終を、襖の影から見ていた者がいた。爪戯である。
外に行っただと?
目を丸くしながら、すぐに足音を殺して後を追う。
風の冷たさが、頬を撫でる。それは、これから始まる死闘の予兆のように冷たかった。
◇
やがて、森の奥。水辺の近く、木々が開けた広場のような場所。
辛はその中央に、背を向けて立っていた。月光が水面に揺れ、彼の青い髪と輪郭を淡く照らす。
「この辺りでいいか?」
振り返らずに、低い声を放つ。その声に応えるように、木陰から爪戯が姿を現した。
「あのー……気づいてた? でもいつから?」
苦笑を浮かべ、頬をかきながら言う。右眼は閉じたまま、左眼だけが月光を鈍く反射していた。
「あんた、オレに会ったことあるって言っていたが──」
辛がゆっくりと、半身だけ振り返る。
月明かりの中、その冷えた瞳はまっすぐ爪戯を射抜いた。
「あの時の気配や隠れ方から、色々察した」
淡々とした声。
だが、その一語一語に、確かな観察と研ぎ澄まされた警戒が滲んでいる。
「あの時は、オレに対しての刺客と考え、殺そうとも思ったが……」
辛は静かに続ける。
「殺気のない気配だったから放置した。だから覚えていた」
夕餉の後の会話が脳裏をよぎる。
二人は面識こそなかったが、互いの存在を確かに感じ取った日があったのだ。
爪戯は、影の中から辛を見つめていた。
けれど、あの時の視線には、今の殺意はなかった。純粋な興味だけだった。
ゆえに、辛は刺客ではないと判断し、刃を抜かなかった。
だが今は違う。
「しかし今日、部屋を出て行った後──殺すように言われたのか……」
辛の声が夜風に混じり、確信へと変わる。
「姿を隠して、オレの様子を窺うようになったからな」
気配のわずかな変化。宿主から暗殺者への変貌。それすら、彼は見逃さない。
だからこそ、戦いを避けられないと悟り、民家への被害を避けるため外へ出たのだ。
爪戯は驚きに目を見開き、やがて口元を吊り上げた。
「あっはは。おかしいな、あの時も今日も、殺気も何も完璧に隠したはずなんだけど。すごいね、あんた」
心底感心したように言いながら、口調が少しだけ軽くなる。
仮面が外れた合図だ。
「そうだよ! オレは“殺し屋”ってのをやっている一族の一人! だからオレに殺されてくれると、助かるんだよね!」
右目を隠す前髪を少しだけかき上げ、軽く笑う。
その声の裏に、笑いでは隠しきれない張り詰めた気配が混じっていた。
「依頼があってね。それに、母さんの期待には応えないと」
爪戯の指が鳴る。
乾いた音が響いた瞬間、森の空気が凍りついた。
硬質な音を立てて、地面の上に透明な氷の刃がいくつも形成される。
それらが辛に向かって、一斉に放たれた。
辛は微動だにせず、左手をかざす。
地面から砂鉄が巻き上がり、眼前に堅牢な金属の壁を展開する。
鋭い氷がぶつかり、甲高い音を立てて砕け散った。
月光がその破片を照らし、空に星屑のような軌跡を描く。
ここに、オレを誘い出したのは間違いだよ。
爪戯の唇がわずかに笑う。
視線は、辛の背後――その先に広がる豊かな水辺へ。
あんたの後ろには“水”がある。水はオレの味方だから。
刹那、辛の背後の水面が轟音とともに舞い上がった。
爪戯の能力は、水の生成も相転移も、そして周囲の水を自在に操ることも可能にする“水使い”。
今、彼が掴んだのは辛の背後に広がる膨大な質量――月光を映す池そのものだった。
水の塊が大蛇のように鎌首をもたげ、辛の背後から襲いかかる。
辛は地面へわずかに視線を落とす。振り返ることはしない。
その瞬間、土地が呻き、地面が裂けて巨大な口を開いた。
舞い上がった水は、まるで割れ目に誘われるかのように流れ込み、深い地下の闇へと一気に落ちていく。
「地面を割って、水を全て地中に落とすとか、ありなの?」
爪戯が割れた地面を見下ろし、引きつった笑いを混ぜて口にする。
辛は無表情のまま、間髪入れずに次の能力を起動した。
地中から太い木の根が這い出し、確信を持って爪戯の足首を絡め取る。
金属生成に土系統の能力、そして次は木を操作……聞いていた通りの“五行使い”。
爪戯の頭の中で、戦況が冷静に解析される。
辛は五行を操る者だった。金・水・土・木・火。
最初の防御が金で、水を地中へ誘導したのは土、そして拘束に木を用いる──その流れるような配列が、彼の戦い方を物語っていた。
辛は表情を変えず、金属を生成して長剣を成すと、静かに、しかし疾風の如く爪戯へと駆け出した。
やっぱ、すごいんだな。
爪戯は内心で感嘆しつつ、同時に焼け付くような焦燥を覚えた。
◇
爪戯の脳裏に、幼い日の記憶ではなく――つい先ほどの記憶がさっとよぎる。母とのやり取り。依頼を持ち込んだあの女の声。
そして、冷酷な母、爪炎の宣告。
「丁度、あの妖混じりを殺すよう依頼がありました。貴方がやりなさい」
燃えるような橙色の髪が揺れる。
背を向けたまま放たれたその声は、冷たく、あまりに非情に響いた。
「我が家に出来損ない要りませんよ。失敗するようでしたら、死んでください」
母の言葉は絶対であり、我が子に向けられるにはあまりにも冷たい。
失敗は、即ち死。
◇
金属が空気を切り裂く。
辛の刃が、回避しようとした爪戯の肩口を浅く斬りつけた。
だが、短い静寂の後で。
湿った音がして、辛自身の左脇に、斬られたはずのない裂傷が走る。
鮮血が飛んだ。
「あ、ちゃんと血は、赤いんだね」
爪戯はかすかに笑い、手早く氷を展開して辛の左側面へとぶつける。
ダメージを受けた場所への追撃。氷の一撃が辛の足を掬い、彼の身体がわずかによろめいた。
「……」
辛は沈黙を守る。
痛みに顔を歪めることもなく、言葉を発しない代わりに、刀身を強く握り直して踏みとどまる。
「悪いけど、失敗は許されないんで」
爪戯は一度だけ俯き、短く間を置いてから顔を上げる。
その表情は冗談めいているが、瞳の奥には、追い詰められた獣のような決意が宿っていた。
「殺すよ」
そう告げると、長く閉ざされていた右目が、開かれていた。
月明かりの下、その瞳が異様な輝きを放つ。




