No.4「蝶模様」
──夜も更けた頃。
三人はようやく、一軒の家に辿り着いた。
灯りがほのかに漏れる古い木造の家。
ここは爪戯の家である。
玄関をくぐると、温かな湯気と香ばしい匂いが迎えてくれた。
座敷にはお膳が並び、湯気を立てる味噌汁、こんがり焼けた鯖、そして胡麻の香りが立つ小鉢。
長旅の疲れが、一瞬で溶けていくようだった。
「いただきま〜す!」
凪は涙ぐみながら、両手を合わせた。
「泊まるところと、暖かいご飯があって嬉しいよ〜。
辛君もそう思うでしょ?」
目を輝かせて箸を進める凪の隣で――辛は畳にうつ伏せていた。
「……」
顔を伏せたまま、左手で皿の縁をなぞるように動かしている。
その指先に、鯖の脂が光り、まるで血文字のような跡を残していた。
「し、死んでる!?」
凪が椀を落としそうな勢いで叫んだ。
驚いて覗き込むと、辛はどうやらぐったりしている。
よく見ると、彼の首筋に何かが覗いていた。
衣の襟元から、わずかに見える橙色の模様。
最初は刺青かと思った。
だが、灯に照らされたその模様は、まるで蝶の羽のような文様を描いていた。
(なに……あれ……)
不思議な胸騒ぎが走る。
凝視に気づいたのか、辛がゆっくりと顔を上げた。
緑がかった瞳が、鋭く凪を射抜く。
「あ、いや、その……首の模様が気になって!」
慌てて両手を振る凪。
辛は左手でそっとその部分を覆い、目を伏せた。
その仕草は、どこか悲しげで――まるで許しを乞うようだった。
(なんだろう、今の顔……)
いつも感情を見せない辛が、ほんの一瞬だけ見せた人間らしい影。
その儚い表情が、なぜか胸に焼きついた。
***
「失礼しま〜す。あれ? 口に合わなかった?」
湯桶を抱えて入ってきた爪戯が首を傾げる。
彼の手には桶と、清潔な浴衣があった。
辛の前の皿に手を伸ばして驚いたように眉を上げる。
「鯖、残してるじゃん。もしかして苦手?」
辛は少しだけ視線を落とし、小さく頷いた。
「……すみません」
「ははは、ごめん! 気が利かなくて!」
爪戯は笑って肩を叩く。
その明るさに、凪も思わず笑い、残りの鯖をちゃっかりたいらげた。
凪が風呂へ行った一方で、部屋の一室にて辛は静かに座り直す。
彼の表情は相変わらず淡々としていたが、どこか居心地の悪さを感じているようにも見えた。
「でも意外かも。“あの”辛でも苦手なものがあるんだ?」
静かな夜気の中、爪戯が言った。
「あ、オレ前に一度だけ会ったことあるんだよね。一方的にだけど。」
辛が顔を上げ、静かに頷く。
「ああ、やっぱ、あの時の──」
短く交わされた言葉の裏に、互いの記憶が重なる。
任務の最中、辛は確かに感じていた。
背に突き刺さるような気配と視線。
「あの時、何か気配を感じたから……」
辛は淡々と告げる。
彼はその特殊な生まれゆえ、気配に敏感なのだ。
「やっぱ、すごいんだ! オレ、あんたに会ってから密かに憧れてたんだ!
年そんな変わんないのに、軍で活躍してるじゃん?」
爪戯の目が少年のように輝く。
歳はそう離れていない。
それでも、辛は若くして軍で名を馳せた。
その背負うものの重さが違うのだと、爪戯は直感していた。
「そういや、人を探してるって言ってたけど、任務かなにか?」
ふと投げかけられた問い。
辛は、静かに答えた。
「……いや、私用で。」
「私用?」
爪戯が首を傾げる。
「良いの? 軍を抜けてそんなことして。」
問いに、辛は何も言わなかった。
ただ、小さく息を吐き、視線を遠くに落とす。
その横顔に、爪戯は言葉を失った。
その時、襖の向こうから、低く鋭い声が落ちた。
「爪戯」
一言、名を呼ぶだけの声音。
それは冷たく、命令のようでもあり、警告のようでもあった。
爪戯は少しだけ眉を動かし、「ちょっと、行ってくる」とだけ告げて立ち上がる。
畳をきしませ、静かに襖を閉めると、その気配はすぐに闇に溶けた。
残された座敷は、しんと静まり返る。
その静寂の中へ――一匹の蝶がふわりと舞い込んできた。
薄橙の翅が、灯の明かりを柔らかく反射する。
蝶は辛の肩先にとまり、かすかな声を発した。
『良いの? 辛。ここの人たちは──』
その声は、耳の奥に直接響くようだった。
辛は蝶に視線をやる。
その瞳の奥に、わずかな揺らぎを宿しながら、短く告げた。
「……頼みがある」
蝶の翅がゆるやかに震え、夜気の中で小さな光を散らす。
◇
夜も更け、就寝の刻。
凪は一室を借り、敷かれた布団に潜り込もうとしていた。
――が。
「……あ」
脱衣所に“リボン”を置き忘れたことを思い出す。
それは母の形見であり、凪にとっては守りのような存在だった。
「取りに行かないと……」
凪はそっと立ち上がり、足音を忍ばせて廊下を進む。
戸口に手をかけ、静かに開け放った――その瞬間。
中にいたのは、辛だった。
上衣を脱ぎ、背を向けている。
灯明の淡い光が、彼の背中を照らし出す。
そこには、橙色の線がいくつも交差し、まるで“蝶”の翅のような模様が描かれていた。
それは生々しくも、美しい――異形の印だった。
「あ……あ……」
凪は息を呑み、喉がひくつく。
何を言えばいいのかわからず、ただ混乱したまま声を絞り出した。
「ありがとうございます!!!!!!」
――なぜか感謝。
叫んだ瞬間、自分でも意味が分からず、勢いのまま土下座した。
「あれ……私ハ、ナニヲ……」
自分の言動に混乱しながら、半泣きで顔を伏せる。
そっと戸を閉め、廊下へ出ると、その場にしゃがみ込み丸くなった。
「……すみませんでした。私は馬鹿です……」
誰にともなく呟いたその耳元を、ふわりと風が撫でた。
そして――ひらひらと、一匹の蝶が舞い降りた。
『ふふ……面白い子ね、貴方』
「ちょ、蝶が喋ってる!?」
凪は飛び上がりそうになり、思わず目を丸くする。
蝶は小さく羽を揺らしながら、優雅に旋回した。
『初めまして。私は“蝶神”』
「ちょうがみ……?」
『直ぐ会えると思うわ。そしたらまた、お話しましょう』
蝶神を名乗るそれは、ふわりと凪の周囲を回り、柔らかな光の粒を残して消えた。
凪はその光を見上げたまま、呆然と立ち尽くす。
◇
そのころ――別室。
爪戯と、一人の女が向かい合っていた。
女の髪が、夜風にそよいで揺れる。
冷たい眼差しが、爪戯を射抜いていた。
それは、かつて辛の報告書を読み、彼を“追う”任務を引き受けた女――
三話冒頭に現れた、あの女である。
女はゆっくりと唇を開いた。
「良いですね? 爪戯」
その声には、穏やかさと威圧が同居していた。
爪戯はしばし視線を落とし、わずかに頷く。
「……はい」
短いその言葉が、障子越しの月明かりに吸い込まれていった。
夜は、ますます深く沈んでいく。




