No.3「放サズ」
──玖の国・山間の外れ。
薄闇の中、風の匂いをかき分けるように一人の女が立っていた。
艶やかな髪を指先で払うと、手元の報告書がぱらりと鳴る。
「五つ……ですか。陰陽五行と同じ“五行使い”。愛用は金――金属生成」
女は唇の端だけで笑い、背後の闇に視線を落とす。
闇は形を持たず、しかし確かに“誰か”がそこにいる。
「良いでしょう、この依頼、引き受けます。獲物は――辛」
女の裾が翻り、夜気が冷えた。
◇
日が尾根にかかるころ、凪の胸から重たいため息が滑り落ちた。
「はあ……このまま野宿でしょうか?」
涙目で空を仰ぐ凪の前を、辛が黙って歩く。
山風に青い髪がわずかに揺れた。
「……そういや、名前知らない!」
今さらの事実に凪が跳ねる。
辛は無言で振り返り、涼しい目だけを向けた。
「あ、私は凪って言うの! あんたは!?」
「……辛」
音だけ置いて、また前を向く。
(“つらい”って書くのよね……名付けた親、攻めるセンス……!)
内心の動揺をごまかそうと、凪は慌てて続く。
「待って! 個性的とは思ったけど馬鹿にはしてないからね! 置いてかないで!」
崖沿いの細道に、うつ伏せの人影があった。
「わ~、倒れてる~」
凪は人差し指でつんつん。隣では辛が枝でつんつん。
同じ“つんつん”でも温度差がすごい。
生きてはいる。浅い呼吸、膝の裂傷。
「仕方ない、治してやるか!」
凪は膝をつき、掌に薄い光を灯す。
温かな波が傷をなぞり、血が引いた。
「いや~、助かった」
青年が上体を起こす。
水色の髪、前髪に隠れた右目は閉じられている。
「ありがとうございます」
そう言って――辛の手を取った。
「待て! 治したのは私だ!!」
凪のツッコミが山にこだまする。
「オレの名は爪戯。あんたは?」
「……辛」
「辛!? まさか――」
来た、と思った。
凪の脳内で“差別の流れ”が警報を鳴らす。
「やっぱりそうか! すごっ、本人じゃん?」
眩しい笑顔で手をぱんっと打つ爪戯。
(え、違う。思ってた反応と違う……!)凪が固まるのをよそに、爪戯は辛の周りを半径一歩で回りはじめた。
「近くで見るの初めてだよ。近付けて光栄? どう見ても人間にしか見えないけどなぁ。周りの連中、見る目ないね」
ひとしきり観察を終えると、今度はぱっと凪に視線を移す。
前髪の下の右眼は、やはり閉じられたままだ。
「で、あんた何?」
「何って何よ! 私が治してあげたのに! 有り金全部寄越しな!」
「ふーん」
雑な一蹴に凪は半分怒って半分呆れ、盛大にため息。
爪戯はすぐ辛へ向き直った。
「何してるの、こんなところで」
「……人探し」
短い。だが芯がある。
その時、崖の上で“影”が動いた。辛の目がきらりと細くなる。
「あんたこそ何してたの? 倒れてたけど」
「んー、任務帰り。ちょっとね」
爪戯の声に影が裂け、大柄の男が天から叩きつけられた。
拳が地を割り、砂礫が弾ける。
辛と凪は身を翻して避ける――が、凪の足場が崩れた。
「――っ!」
辛が地を蹴る。
左手が凪の手首を掴み、右手が崖の木の根を掴む。
ふたりは宙にぶら下がった。
上で男が笑う。
「捕まえに来てやったぜ、お姫さ……ま?」
標的を見失った顔。
視線の先、崖の縁に辛と凪。
「辛君、このままじゃ二人とも落ちちゃう。その前に手を離して。私のことはいいから――」
凪には目的がある。
母の仇を見つけるまでは死ねない。
だが、辛を巻き込むのは違う。そう思った。
辛は僅かに首を横に振る。
「普通、ここで手を離したりしない」
掴む手に力がこもる。
「それに――あんた、言ったろ。仲間だから協力しようって」
無表情の奥で、瞳だけがまっすぐだった。
凪は昼間の言葉を思い出し、頬が熱くなる。
「……うん」
上から男の舌打ちが落ちてくる。
「どうしたもんかね――落とすか? でも女が死んじまうと生け捕りの命令に反するしな」
こいつも昼間のと同じか、と凪が冷ややかに測る。
「なあ、なあ」
背後から声。男が苛立って振り返ると、そこに爪戯。
「あんた、辛を殺したい?」
「かのと? 男の方か? ならそうだよ!」
「分かった」
「つーか、なんなんだお前――」
問い終えるより早く、爪戯の指が鳴る。
地面から伸びた氷柱が、男の胴を下から穿った。ひび割れの音、沈黙。
「それは嫌だ」
爪戯はつぶやき、崖際に屈む。
「敵? やっつけたから、上がってきなよ~」
「え?」
凪が瞬いた次の瞬間、辛の掴む木が伸びた。
芯を太らせ、節を突き出し、ふたりを押し上げる。
「木が……成長!?」
凪の驚きに、辛は答えない。
五行のうちの木――彼が見せたのは、その片鱗だ。
崖上に転がり込んだ凪は、荒い息を整える。
「た、助かった……辛君と、えっと……誰だっけ? まあ、ありがと」
「あんたのためじゃない」と爪戯。
すかさず凪に向き直る。
「名前、覚えろ」
空は群青に沈み、風が冷える。
「大分暗くなったけど、宿のあてとかある?」と爪戯。
「ないから、このまま野宿かな、ははは……」
凪は乾いた笑いをこぼす。
「じゃ、うちに泊まっていきなよ。この近くだし。これも縁ってことで!」
ぱっと灯りがともったような笑顔だった。
「救われた。ありがとう、名も分からぬそこの人よ」
凪は手を合わせて拝む。
「爪戯だ」と即答。
「つーか、あんたこそ名乗れや!」
「匿名希望です」
「殺すよ?」
ふたりはすぐさま言い合いに転じる。
辛はその様子を横目に、夜の匂いを嗅いだ。
木々が揺れる。闇が深くなる。
“放さず”掴んだ手の温度が、まだ掌に残っていた。
風が鳴り、闇がほどける。
月は薄く、獲物の行く手に鋭い影を落とした。




