No.26「蝶妖Ⅶ」
北王は、辛を丁の母親から離れるよう促し、自室の椅子に座らせた。
肘に負っていた怪我は北王の処置ですぐにきれいに治療できたが、辛はその後もひたすら謝罪の言葉を繰り返している。
「ごめんなさい」
あの女がどう言おうと、辛に非などないだろう。それに自分が辛を責めるなんてあるわけがない。
「なあ……辛、何故そんなに謝っているんだ?」
北王は膝立ちになり、椅子に座って小さくなっている辛の目を見つめた。
辛は両手で顔を覆って黙ってしまった。
そのまましばらく沈黙の時間が続いたが、北王が辛抱強く待っていると、辛はやがてポツリポツリと口を開いた。
「……人が沢山居ると思って……行ってみたら妖もいて……人を食べてて……妖に気づいて無かったから……オレのせいで丁を危険な目に……」
辛が普通と違って人間の気配を敏感に感じ取れるからこそ、行く方向を誤ってしまったということらしい。
とはいえ北王からしたら辛だってまだまだ守られるべき子どもであるのに、小さいながらに必要以上の責任を感じているようだった。
「まあ、確かに判断ミスや失敗が仲間を危険にさらすことはあるし、最悪の場合“死”だ」
能力があるとそれが逆に身を危険に晒すということも往々にしてある。
確かにそれは辛も理解しておかなければならないことなのかもしれない。でも。
「でも今回、お前たちは生き残った」
それがどんなに北王の心を安堵させたことか。辛にはそれを分かって欲しいと思った。
「次に活かせ。お前はよくやった。頑張ったな」
「……」
北王は辛の頭を撫で褒めてやると、辛は涙で濡れた目で北王を見つめ返した。ようやく父の気持ちが伝わったのか、辛は謝るのをやめた。
「そういえばまだ脚の治療をしていなかったな、いま……」
北王が視線を落とすと、辛の左脚に、広範囲に渡って今までになかったはずの複雑な幾何学模様が浮き出ていることに気づいた。
見覚えのあるこの模様。それは辛の母である、蟲人の妖の左肩や左脚にあった模様によく似ていた。
北王の表情は一瞬にして凍り付いた。
「……? ……父さま?」
辛は自分の変化に気が付いていないようだった。
「あぁ……何でもない!」
怖がらせてはいけないと、北王は慌ててその場を取り繕った。
もう一度辛の脚を見ると、不思議と辛の脚はいつも通りの状態に戻っていた。
模様はない。さっきのは気のせいか。
いや、そんなはずはない。嫌な予感が胸をかすめる。
◇
怪我の痕もすっかりなくなり、日常を取り戻していた辛は、自室の勉強机でいくつか本を広げ、自分の能力を小さく試していた。
「うーん……」
利き手の左は簡単に金属を生成できるのに、右手は相変わらず小さな欠片しか出すことができない。
『あら辛……勉強中?』
声をかけたのは、今日はまた蝶の姿で訪れた蝶神だった。
「……能力をうまく使えるようになりたい──……でも巧くいかない」
丁を助けようとしたとき、右手で能力を操ることができていたら、蜘蛛の妖に出くわすこともなかったかもしれない。辛はそれがずっと気がかりだった。
『分かったわ』
蝶神はそういうと、その場で硬質な音を立て、蝶から人間へと姿を変えた。
「私が教えてあげる」
近頃は辛も蝶神の存在に慣れてきていた。
「……でも、蝶神は忙しいって聞いてるけど……」
「良いのよ。辛が困ってるんだもの、助けになりたいのよ」
遠慮気味な辛に、蝶神は本心からそう言い、そっと目を細めて慈愛に満ちた微笑みを向けた。
◇
三日月が鋭く光る静かな夜。
丁の母は、こそこそと一人で壁に向かって何者かに呼びかけていた。
「ねえ……」
丁の母は通信符としての機能を持つ、淡く光る木の札を手に握りしめている。
「何とかしてよ。あの人、私に冷たいし化け物は居るし」
『あはははははは?』
札からはけたたましい笑い声が響いた。下卑た女の声だ。
『はあ? 何で私が?』
「“あの時”は協力してくれたじゃない!」
思い通りにならない返答に、丁の母は声を荒げた。
「もういいわ! あんたなんかに頼らない!」
その様子を、暗い廊下から辛が密かに聞き耳を立てていた。丁の母は会話に夢中でそのことには気づかず、札に向かってヒステリックに怒鳴り続けていた。
◇
数日後。丁は家からほど近い村の集落に来ていた。
村人たちは、北王の家に丁とその母親が一緒に暮らし始めたというのを既に把握しているようだった。
「出ていけよ!」
「化け物の弟!」
丁自身は妖の子ではないが、辛の弟というだけで村の子ども達から罵詈雑言を浴びせられ、小石を投げつけられた。
「聞いたぞ! あの化け物は死んだ妖の中から出て来たって」
「流石化け物、気持ち悪い」
「消えろ!」
「出ていけよ、化け物とその家族!」
偶然、そこを辛も通りがかり、丁が数人の子どもたちに囲まれているのを目撃した。
助けなければ。そう思い辛が一歩踏み出そうとしたその時、丁は毅然とした態度で言い返した。
「キミたちが何を知ってるの?」
その声には静かな、けれど確かな怒りが滲んでいた。
「は?」
「化け物じゃないよ」
村の子は反論しようとするが、丁は拳を握り力を込めて断言した。
「同じ“人間”だよ!」
立ち聞きしていた辛は、丁の迷いのない物言いに、胸の奥から熱い塊が込み上げた。出会ってまだ日の浅い人間の子に、そんな風に言ってもらえるのは初めてだった。
「何が人間だ、化け物だろ!」
それでも丁に強く当たる子どもに、辛はその場から思いっきり石を投げた。
石は狙い通り、悪態をついた子の頭に直撃し、額から血を流させた。
「痛っ!」
「あ! あいつは……!」
「お前らもっと大怪我してみるか……?」
辛は子ども達に近寄り、両手から能力で作った鋭利な刃物を生成した。
蝶神のお陰で、最近は右手からも左と同じように金属を作りだせるようになっていた。
「例の化け物だ、逃げろ!」
本物の凶器を持つ辛に脅え、村の子たちは蜘蛛の子を散らすように走って逃げだした。
「ありがと!」
丁は両手を挙げて喜び、辛に駆け寄った。
「あれ? でも蝶神さんと修行に行ってたんじゃ?」
「……その帰り」
「そっか、兎に角ありがと! じゃあ一緒に帰ろ!」
「……」
村の人も丁の母親も辛を化け物扱いで忌み嫌うのに、丁だけはまるで同じ人間同士の普通の兄弟のように接してくれる。
丁は辛にとって、ただ父親が同じ異母兄弟というだけではなくなっていた。守りたい、大切な存在。
◇
夜も更けた頃。
丁の母親は、狂気を宿した目で家の中を徘徊していた。
丁は寝たわね。
女は忍び足で廊下を歩き戸をそっと開け、居間で座って本を読んでいる辛へと近づいた。
女の目は虚ろで、手には台所から持ち出した包丁を固く握っている。
「ねえ……どうしてあんたみたいなのが存在しているの?」
女が辛の前に立ち塞がり見下ろすと、辛は殺気を感じて青ざめ、息をのんで読んでいた本を手から落とした。
「あんたのせいで私は村で白い目で見られ、丁は毎日怪我をして帰ってくる」
誰にも庇ってもらえず日々積もる苛立ちと恨みを、女はまだ子どもの辛に向けた。けれど自分も同じように辛を化け物と罵っておきながら、その化け物を包丁一本で殺せると考えている矛盾に、女は気づいていない。
「親の決めた結婚相手だったけど私は──……でもあの人は私を避けた……やっと会えたのに、いつもいつもあんたの味方をしてばかり」
積年の恨みつらみを述べ、女は自分で自分の言っていることにだんだん感情を昂らせ、金切り声を張り上げ包丁を振り上げた。
「あんたさえ、いなければ」
逆手に持った包丁を、辛めがけて女は力強く突き出した。
自分が包丁で刺されそうになっていても、弟の母親相手にどうしたら良いのか、辛は分からなかった。
でも、死にたくない。ただその一心だった。
辛は気づいていなかったが、死にたくないと強く思うと同時に、辛の左頬から首にかけて妖の模様が発現した。そして瞳も左だけ、模様が辛の母と同じになっていた。
次の瞬間、血飛沫が部屋に散り、畳の上に鮮やかな赤が広がった。
え?
倒れたのは、辛ではなく丁の母の方だった。
辛には何が起こったのか、自分が何かをしたのか何も分からなかった。
ただ、刺されると身構えた後、なぜだか丁の母は軌道を変え、辛ではなく自分の胸に包丁を深々と突き刺したのだった。
『ふふふ……』
辛が恐怖で震えていると、背後から妖の母が笑う声がした。
『私達の“妖の能力”は人間を操作するものなの。安心して辛、このチカラで守ってあげるから』
その言葉で、今しがた起きたことが妖の能力によるものなのだと理解し、辛は愕然とした。
『全員、皆殺し』
そんなことなど望んでいなかったのに。辛の思いとは裏腹に、母の声色はこの状況を楽しむかのような響きをしている。
丁の母が勝手に自分で死んだのではないということを理解し、辛の震えは大きくなった。
自分の手についた返り血と、目の前に広がる畳の血だまり、丁の母の死体。逃げられない状況に心が乱れた。
母さまが。
そう、これは自分の意思なんかじゃない。勝手にそうさせられただけで。
違う。オレが……オレの妖の能力が……殺した。
人のせいにしてしまいたかった。事実そうだと叫びたい。けれど今この場に実在するのは辛のみで。
自分が殺してしまった。丁の母親を。
現状に狼狽えながらも、辛は次のことを考えた。父や丁がこの場にやってきたらどうなる?
意識的に殺したわけではないとすれば、次は。このままじゃみんなが死ぬ? それだけはどうしても避けたかった。辛は左手に小刀を作り出し、震える手で自分の首にそっと近づけた。
このままじゃ駄目だ。オレが今ここで死ねば。
◇
北王は今日も仕事で帰りが遅かった。
家の前に着いた時、その日はただならぬ気配を感じた。濃密な死の気配。
「これはまさか!」
走って玄関を開け廊下を走り、気配の感じる居間へ駆け込んだ。
「辛!」
そこに見えたのは、刃物を首に当てて座り込んで泣きながらぶつぶつと謝る辛、床に大きく広がる血の跡、そして胸に包丁が突き刺さったまま事切れている丁の母親だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
異様な光景に言葉が出ず、北王は静かに辛に近寄ると、辛は血に汚れた手で顔を覆い、ただひたすらに謝り続けた。
「……生まれてきて……ごめんなさい……」
自分の存在を肯定できない辛に、北王はこれまでそんなことはないと、態度で示し続けてきたはずだった。だが、運命は残酷にそれを否定する。
「……オレだけが……生き残って」
畳にぼたぼたと辛の涙が垂れ落ちる。手で覆われた隙間から、片方の頬に妖の模様が禍々しく浮き出ていた。
「……死にたく……なかった」
それは今まで父である北王にすら遠慮していた辛の、初めての、そしてあまりに悲痛な本心からの心の叫びだった。




