No.25「蝶妖Ⅵ」
日は落ち、夜の静けさに風が木の葉を揺らす音だけが響く山道。
「はー……どうしよう」
慣れない家に引っ越してきたばかりで土地勘の無い丁は、一人途方に暮れていた。
道が分からない。
気づけば山道を随分と登ってしまっていたようで、今居る場所からは森の木々を上から見下ろせるほどになっていた。
「絶対この道違う……」
行けば行くほど道幅は細くなり、山の反対側は切り立った崖になっている。
しかもこんな時に限って使えない、この能力。
丁は不安な気持ちを抱えながらも、立ち止まってもいられず適当に進み続けた。
どうしよう。
手がかりを探すように視線を彷徨わせていると足元への注意が疎かになり、ふらついた足が道の端を踏み外してしまった。
「えっ……!」
体重をかけた左足を乗せた部分の土は運悪く脆くなっていた。
丁は態勢が斜めになり、重力に従って体は崖下に落下していく。
景色は時を止めたかのように緩慢に映り、このままでは助からないと脳が警鐘を鳴らした。
◇
辛はいなくなった丁を探しに山へ来ていた。
崖から落ちていく瞬間に間に合わず、辛は自らの危険も省みず強く地を蹴って崖から飛び降り、左手を伸ばし丁の腕を掴んだ。
「……!」
丁は落下中の衝撃で声も出なかったが、自分を助けようとする辛に目を見張った。
能力で。
辛は空いている手で能力を出して崖に掴まれば助かると踏んで、崖の方に視線をやって空いている手を岩肌にかざした。
「……あ……!」
しかし手を広げてから、それが自分の利き手ではない方だということに気づいてしまった。
右手。
辛は元々、右手から能力を出すのは苦手だった。
案の定、試してみても弾けるような音を立てて金属が散らばるだけで、自分たちを支えるほどの物体を出すことはできなかった。
とっさに利き手の左手を丁に出してしまったから。
態勢を立て直すことは叶わず、二人は鈍い音を立てて地面に打ち付けられた。
◇
「……ん」
皮膚に当たる小石が傷を作り、強打した衝撃で少しだけくらりと眩暈がした。
「わ! 生きてる! 奇跡的!?」
丁は頭がはっきりすると身を起こし、体の無事を確認した。擦り傷程度だ。
「……」
傍には何も言葉を発しない辛が座っており、痛そうに腕を抑えていた。
「あ……ご、ごめんねお兄ちゃん、ぼくのせいで……」
腕以外にも、辛もあちこちに擦り傷ができている。
「……」
辛はすぐには返事をしなかったが、少し間を置いて神妙な面持ちで言った。
「あんたも父さまの……子どもだから、いなくなったら……父さまが可哀想」
家に居てもほとんど喋ることがなかったので、丁には辛がそんな風に話すのが意外に思えた。
「……ぼくのお母さんが勝手に言ってるだけかもよ? 子どもっての」
突然押し掛けた人間に、なぜ彼が責任を感じてくれるのか、丁は不思議に思った。
「気配ってか雰囲気っていうか……似てるから嘘じゃないと思う」
辛はにこりともしないが、兄としての自覚を行動で示してくれていたようだった。
「そっか、良かった……! ぼく、ちゃんと認められてたんだね! ありがと!」
丁は満面の笑みで礼を言った。しかし辛は表情を崩すこともなく、ふいと顔を反らした。
「……良かったって言うのは無事に帰ってからに……」
「そ、そうだね。……えっと、ここが何処か分からないよね……?」
「……分からない……けど、向こうから人の気配を感じる」
辛が指さした方向。
その時、枝葉の隙間を押し分けるように、巨大な蜘蛛のような妖がぬっと顔を出した。
「……走れ!」
「……あ、妖……!」
辛は丁の手を、今度はちゃんと利き手を塞がぬようにもう一方の手で取って駆けだした。
◇
仕事から帰宅した北王が玄関に手をかけたとき、何事かが起こっているのを察した。
「……!」
戸を開けると、丁の母親が床に這いつくばっていた。
「丁が! 帰って来ないの!」
女は北王の帰宅に気づくと、北王の肩を両手で掴み叫んだ。
「……」
気配を感じないと思ったら。
北王が一言も声を発しないのに痺れを切らし、女は金切声をあげた。
「ねえ! 丁が!」
辛もいないな。丁を探しに行ったのか。
「何処に……あぁ……」
「……」
「ねえ」
「ねえってば!」
女のうるささに、北王はようやく口を開いた。
「黙れ。今探しているところだ」
「……」
一喝すると女はようやく黙った。
北王は神経を研ぎ澄ませ、近隣の山々にまで範囲を広げて二人の居場所を探った。
この感じは。
微かだが、血の匂いと妖気が混じる。
◇
「こっちに人がいるの?」
丁は辛に引っ張られるまま、森の中を走り続けていた。辛だけが何かを感じ取っているようだった。
「結構沢山……集落かも……?」
走り続け、少し開けた場所に出ると目の前に凄絶な光景が広がっていた。
「……!」
「……」
「あ……妖が……人を──……」
先ほど見た巨大な蜘蛛の妖が二体、人を頭から食っている現場だった。
あたりには血が飛び散り、すでに食われて頭部のない死体が転がっている。
その奥には妖の吐く粘着質の糸にからまった人間たちが少なくとも十人ほど捉えられており、糸でぐるぐる巻きになった彼らにまだ息があるかは分からない。
判断を誤った。妖気に気づいていなかった。
辛の心臓は早鐘のように鳴った。
人の気配だと思ったのは、捕食される人間たちの断末魔だったのか。
オレのせいで。
「あっ!」
失態に気を取られ、反応が遅れた。妖はいくつも生えた鋭い歯をむき出し、大口を開けてこちらに迫った。
反射的に辛は丁を突き飛ばし、妖から守った。
しかし、妖の歯は辛の右腕にがぶりと食いつき、食い込んだ皮膚からは派手に血が噴き出した。
「そんな……」
このままでは食い殺される。
そう思った瞬間、爆発音が響き妖の上半身が吹き飛んだ。
「お父さん!」
丁が見上げると、北王が拳を握り、人差し指と親指だけを立てた構えをして立っていた。
指先から硝煙が立ち上る。
「……っ……!」
間一髪助かった辛だったが、北王の姿を見るなり震えだし、怪我を負った腕を庇いながらその場から走り去った。
「おい! 辛!?」
北王は驚き、大きく声をあげた。丁も何がなんだか分からないようだった。
辛の腕は広範囲に歯を立てられており、血は止まることなく滴り落ちていた。それでも腕をだらりと下げたまま、辛は息を切らし走り続けた。
どんどん森の奥深くへ進んでいったが、やがて地表に大きく張り出した木の根に足をとられ転倒し、辛の足はようやく止まった。
北王は丁を抱えたままでも、あっという間に辛の元に追いついた。
「辛、何で逃げ──……」
「ごめんなさい」
北王の言葉を遮るような言い方だった。
辛は顔も上げずその場に突っ伏したまま、泣きながら震えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
丁を守れなかったこと、父に迷惑をかけたこと、妖の気配を見誤ったこと。
辛はしばらくそうして必死で謝罪の言葉を繰り返した。
◇
北王は傷の深い辛を抱き、丁と三人で山を降り帰宅した。
「丁、怪我してるじゃない!」
丁を見るなり、女は慌てて歩み寄った。
「う、うん。ぼくは大丈夫」
丁は問題なく歩けるほど軽傷だが、辛は一目で分かるほど深い傷を負っており、服に血が滲んでいる。
それでも辛は北王の腕の中で、うわごとのように小声で謝罪を繰り返し続けている。
「そいつのせいね! その化け物が!」
この期に及んで辛を糾弾する言葉は、北王の逆鱗に触れた。
「お前に辛を責める資格はない」
北王は怒りを露わにし、女を睨みつけた。
「黙ってろ」
北王の低く鋭い声に場の空気は凍り付き、怒気に圧された女はそれ以上何も言えなかった。
ただ、その瞳には辛への憎悪がさらに深く刻まれた。




