No.16「あくま」
深い森の奥。
木々の影に紛れ、爪戯と辛を遠くから見つめる影があった。男は木陰に身を潜め、苛立ち紛れに舌打ちをひとつ落とす。
懐から「伝」と刻まれた木札――通信用の呪具を取り出す。
結界は張れたようだが、戻ってこない。あいつら、何をしている。
先行させた部下たちの気配が消えた。
男は苛立ちを押し殺し、札に向かって声を落とす。
「おい、お前ら何をしている? 捕獲はお前らの──」
しかし、次の瞬間。
札の表面が不吉に揺らめき、耳障りなノイズが走った。応答はない。
「……チッ、通信障害か」
男は役立たずの札を睨みつけ、再び舌を鳴らす。
風が、微かにざわめいた。死臭を運ぶ風だ。
◇
その頃――爪戯の屋敷。
門を抜け、静まり返った廊下を二つの影が進んでいた。
北王と蝶神。
辛の行方を追って、この人里離れた屋敷まで辿り着いたのだ。
しかし、屋敷の中には辛の姿はなく。
代わりに、客間に冷たく横たわるひとつの遺体があった。
爪戯の母、爪炎。
「……誰が、こんな……」
蝶神が息をのむ。
白い手で口元を覆い、その神々しい姿がかすかに震えた。
頭部を撃ち抜かれ、無残な姿になったかつての契約者の姿。
北王は無言のまま、遺体の傍らに膝をついた。
その鋭い眼差しが、焼け焦げた衣の痕跡と、頭の傷跡を冷静に見据える。
「北王? あのー……北王さん?」
蝶神が遠慮がちに声をかけるが、反応はない。
北王はただ、目を閉じ、静かに息を吐いた。
脳裏に鮮烈に蘇るのは、過去の光景。
最愛の妻であり、辛の母である妖が死んでいたあの日の記憶。
同じように身体の一部が焼け焦げ、同じように頭を貫かれていた。
同じ犯人、か。
北王の眉間に深い皺が寄る。
思考の底で、ずっと忘れていた、あるいは忘れようとしていた何かが引っかかっていた。
「無視しないでくださいませんかね?」
蝶神がふくれっ面で北王の肩を軽く叩く。
「無視してないよ? 聞こえないふりをしていただけで」
「それを無視って言うの!」
蝶神が抗議の声を上げるが、北王の視線は一点を見据えたまま動かない。
屋敷の空気が、硝煙の匂いと共にぴんと張りつめる。
「何よ、私と貴方の仲でしょ? 何かわかったの?」
蝶神が再び問う。
けれど、その言葉もまた北王の耳をすり抜けていった。
彼の意識は、ここではない場所へと飛んでいた。
この感じ……まさか、あいつの。
北王の瞳が閃いた。確信めいた殺気。
迷いなく立ち上がり、扉の方へと駆け出す。
「急ぐぞ、蝶神!」
その声には、普段の冷静さを欠いた緊張と焦燥が混ざっていた。
「え? え、ちょ、ちょっと待って!」
蝶神は事態を飲み込めぬまま、慌ててその広い背中を追った。
屋敷の静寂が、二人の足音を呑み込む。
◇
場面は再び、森の中――辛と爪戯へと戻る。
辛は崖を背に、座り込むようにして荒い呼吸を整えていた。
体内のバランスが崩れ、冷や汗が止まらない。
だが、その眉がかすかに動き、風に乗ってきた何かを感じ取る。
「爪戯……オレのことはいい。それより、今すぐあいつを追ってくれ」
崖に添えた指先に力がこもる。
凪が向かった方角から、異質な気配がする。
その声音に尋常でない焦りを感じ取ったのか、爪戯は息をのんだ。
◇
一方その頃――凪。
凪の背後で、片腕を斬られた男が膝をつき、肩で息をしながら、呪詛のように呟いた。
「悪魔め……」
「……あくま?」
凪が振り返った瞬間。
「あはは! ボクは悪魔の一人、名前はヤナギ。好きな物はトマトで、嫌いな物は神さまとその手下!」
少年――悪魔のヤナギが、無垢な笑顔で自己紹介した。
血飛沫を浴びた頬をそのままに、まるで公園の遊びに誘うような表情だった。足元の鮮血さえなければ。
「悪魔って結局何?」
凪が素朴に首を傾げると、ヤナギは「あれ、知らないの?」と言わんばかりに肩を揺らし、楽しそうに続ける。
「ん~? そうだね~“神に対しての存在”みたいな?」
軽い口調のまま、ヤナギは血のついた指を立てて語り出した。
「厳密に言うと悪魔ってのは、能力発動源のシンとは別の“マナ”を持つ者のこと。シンと違ってひとつしか持てないけど、そのマナによって身体に特徴が出る人もいるよ! 能力の種類で呼ばれ方も変わるんだ」
凪は少しだけ目を丸くする。
整理しよう。
神の持つシンはオリジナル。
一般能力者のシンはコピー。
そして悪魔はシン以外にも“マナ”という別の源を持つ者のことを言う。
このマナの種類でさらに分類がされる、と。
そう説明されてもなお、一般人の凪には曖昧なままだった。
「えっと……とにかく神と対立してて、その仲間を殺す存在?」
「そーだよ!」
ヤナギは正解をもらった子どものように嬉しそうに笑い、胸に手を当てる。
「だって神に仕えれば、次は自分が神になれるかもだし。なれなくても、神から能力を与えてもらえる」
その声音は無邪気ですらある。欲望すらも、遊びの一部のように語る。
「だから、神に仕える人間は何でも言うこと聞いちゃうんだよね。ボクら悪魔と敵対してるから、殺そうとしてくるし」
そして。
「だからボクは殺すの! 皆殺し♪ ところでお姉さんは関係者? それとも無関係?」
その笑顔はあまりに純粋で、逆に恐怖を刺激した。
しかし凪は、ふと蝶神の言葉を思い出していた。
神も悪魔も、等しく人。
なんで今、それを思い出してるんだろ。
凪が黙ると、ヤナギはつまらなそうに肩を揺らして笑った。
「もうなんかいいや、めんどいし。みんなまとめて斬ってしまおう」
「っ……!」
凪の背筋に冷たいものが走る。殺気だ。
ヤナギが左手を前に出すと、虚空から無数の刃が出現した。
「トマトの調理の開始だよ!」
刃が、殺意の嵐となって凪へ迫る。
しかし、次の瞬間。
硬質な音が響き、凪の目の前に分厚い氷の壁が生まれた。
「氷の壁だ!? おお~冷凍トマトかな?」
刃が跳ね返ったことすらどうでもよさそうに、ヤナギは無邪気に跳ねる。
氷壁の向こう側。凪の背後に、頼もしい人影が立っていた。
「なんで?」
凪が驚いて振り向くと、そこにいたのは爪戯だった。
「辛が言うから……」
辛に付き添っていた爪戯。
だが辛は、凪の危機を本能で察知し、自分を置いてでも行くように強く指示したのだ。
「なんかごめん」
凪がほっとして息を整えながら言うと、爪戯は地面の血溜まりを指差し、眉をひそめる。
「それより、コレ。あんたの血?」
「違うよ? って、あれ? あの人は?」
凪は腕を斬られた男を探す。
しかし、そこにいたはずの彼の姿は――もうなかった。
逃げたのだろうか。いや、あんな傷で?
血痕だけを残し、跡形もなく消えていた。




