No.14「幼児化」
冷たい風が崖の上から吹き下ろし、三人の髪を揺らした。
戦いの後、血の匂いがまだ残る大地の上で、辛は黙って手の汚れを見つめていた。
叔母だったものを貫いた感触が、指先にこびりついている。
「……上から水を流したい」
唐突に言った彼に、爪戯が目を丸くする。
「え? 血を洗うために? マジで?」
凪も苦笑いを浮かべながら首を傾げた。
そんな軽いやりとりの中でも、三人の背後では枯れ葉が乾いた音を立てて風に舞い、次の嵐を予感させていた。
しばしの沈黙。
凪が自身の頬を叩き、拳を握りしめる。
「……次こそは、頑張る!」
その声には、先ほどまでの迷いや、操られていた時の弱さが消えていた。
爪戯が半眼で見つめ、呆れたように言う。
「マジでいいの? 本気で行くよ?」
次の瞬間、地面が低く呻くように震えた。
森の奥から、湿った重い足音が近づいてくる。
巨大な黒い影が姿を現す。四肢に岩のような異様な装甲をまとい、額には不気味に光る「幼」の印。
妖だった。
「死んでしまうとは、何事よぉ……」
唸るようなしゃがれ声。
だが口元には、赤黒い液体がべっとりと滴っている。
その足元には、先ほど辛が倒した叔母の亡骸――いや、食い荒らされた残骸があった。
妖は共食いをしていたのだ。
「……食ってる!?」
凪が青ざめて叫ぶ。吐き気を催す光景。
「見た目は人間なのに、不味いねぇ」
妖は下品に喉を鳴らして嗤った。
次の瞬間、その獣のような身体が低く構える。
空気が一気に張り詰めた。
「ってわ――人間がいる!」
その叫びと同時に、妖が口から桃色の甘い煙を吐く。
光が炸裂し、視界を覆うほどの土煙が上がった。
視界が真白に染まる中、辛は息を飲む。世界が、急速に巨大化していく感覚に襲われたのだ。
煙が晴れたとき、三人は互いを見つめ合って絶句した。
目線が低い。着物がぶかぶかだ。
三人は幼い姿になっていた。
現実感がなく、声すら出ない。
「あっ……」
辛が慌てて自分の腕を見る。細く、頼りない子供の腕。
凪も同様に、自分の小さな手を確認して顔を上げた。
爪戯が反射的に顔を触る。
前髪に隠れていたはずの右眼も、幼少期の状態に戻っていた。
だが、驚きは束の間だった。
「へっへぇ……人間を食うなら、やっぱり子どもだよなぁ!」
妖が狂ったように笑い、涎を垂らして巨大な牙を開いた。
辛は咄嗟に腕を構える。
右手のひらの感覚が変わる。金属の結晶が一瞬で走り、掌から白い光がほとばしった。
しかし、情けない音がして、光が消える。
不発だ。
身体だけでなく、能力の出力までもが未熟な子供時代に戻されている。
しかし音もなく、目の前の妖が凍りついた。
凪と辛が目を見開く。
「……凍った……!」
爪戯の氷だ。
氷の彫像となった妖は、そのまま静止していた。
「二人とも、無事?」
息を切らしながら、子供姿の爪戯が駆け寄る。
「うん、なんとか……」
しかし次の瞬間、氷の表面に亀裂が走った。
甲高い砕け音が響き、氷像が内側から爆ぜた。
「――あー、冷たっ!」
飛び散る氷片の中から、再び妖の影が姿を現した。ダメージはほとんどない。
「いやー、幼くなって能力の練度も戻っちゃったぽいね。甘かったかぁ」
「これ、氷使いでおなじみのやつだ!」
爪戯の軽い言葉に、凪が必死に突っ込む。
「……って、あんた殺されたいの?」
爪戯が鋭く返す。
辛は小さな手を握りしめる。
先ほど金属を放った感覚、うまくいかなかった違和感を思い出しながら呟いた。
「練度が関係してるなら……利き手で――」
辛は左手を構える。
その瞬間、妖の目が鋭く光った。
額の「幼」の文字が黒く脈打つ。
凪が息を呑む。
空を切る音がした。
一枚の葉。風に舞っただけのように見えたそれが、辛の能力によって硬化し、まるで刃のように鋭く閃いた。
そして何故か妖の動きがぴたりと止まる。
凪が見上げた。
空の向こう、何かの気配。
風が鳴る。
次の瞬間。
辛の生成した長刀が風を裂いた。
子供の身体とは思えぬ速度。鋭い金属音が響き、妖の身体が一刀両断される。断末魔もなく、黒い霧が弾け、森の静寂が戻る。
「うおおお! やった! 辛君が!」
凪が両手を上げて歓声を上げ、隣で爪戯もつられるように拳を突き上げた。
「すげえ……やっぱ辛君って強いな! 子供でも関係なしかよ」
けれど当の本人は、無言で両手を見つめていた。
何かを確かめるように、掌を見つめ、ただ黙り込む。
今の攻撃の手応えに、違和感を覚えているかのように。
「あれ? 今回もいいところなし?」
「え? オレ、居る意味ある?」
凪と爪戯が同時に肩を落とし、力なくうなだれる。
その光景に、森の殺伐とした空気が少しだけ和らいだ。
◇
気がつけば、三人は幼い姿から元の姿へ戻っていた。
妖の消滅と共に術が解けたのだ。
霧も晴れ、昼の陽ざしが穏やかに流れている。
「次行こ! 次!」
凪が明るい声を上げて手を振る。
その背中を追って、爪戯が軽く手をポケットに突っ込みながら歩く。
辛は一番後ろ。無言のまま、左手を見つめていた。
その表情が、ふと険しくなる。
殺気。血の匂い。それに、この感じは。
風の流れが変わった。
辛は即座に立ち止まる。
「辛?」
爪戯が振り返り、首をかしげる。
だが辛は応えず、周囲を鋭く見回した。
あの妖たちの時もそうだった。感知が遅れている。
辛は特殊な感知能力を持つ。
しかし、いま自分の感覚が鈍っている、あるいはノイズが走っていることに気づいた。
胸の奥に嫌な予感が広がる。
一方その頃、凪も同じように違和感を覚えていた。
あれ……この感じ……なんだろう?
次の瞬間。
後方にいた辛の身体が、糸が切れたようにふいに崩れ落ちた。
「辛君!?」
凪と爪戯が同時に駆け寄る。
地に膝をついた辛の呼吸は荒く、額には脂汗が滲んでいた。
ただの疲労ではない。内側から何かが食い破ろうとしているような、異様な気配。
凪は必死に思考を巡らせる。
この感じ、どこかで知ってる。確か、身近なところで。
「ちょっと待って……多分──」
言いかけたその時、辛がかすれた声で言った。
「オレのことは放っておいていい」
地面を強く握りしめ、歯を食いしばる。
全身に力が入らず、それでも立ち上がろうとする姿に、凪の胸が締めつけられた。
「何言ってんだよ!」
爪戯の怒声が響く。
だが辛は、焦点の定まらない目で静かに首を振った。
「まともに動けそうにない……それに……外れそうなんだ……」
言葉が途切れる。
その瞬間、辛の脳裏に鮮烈に蘇ったのは――母親の妖の気配だった。
あのおぞましくも懐かしい、闇の匂い。
血の匂い。
あのときと同じ、妖の気配が確かに漂っていた。




