No.13「消セズ」
畳の上に、重い静寂が落ちていた。
軒先を渡る風が障子をかすかに揺らす。その中心で、ひとりの女――爪炎が膝を折って座っていた。
橙色の髪を撫でる風は、死を予感させるようにやけに冷たい。
「……来ましたか」
背後に音もなく現れた気配に気づき、彼女は静かに呟いた。
襖の向こうから、重い足音が近づく。
声は低く、感情の起伏を押し殺している。
「潔いな、爪炎。……しかし、失敗は失敗だ。この意味、わかるな?」
返事の代わりに、爪炎の喉が小さく鳴った。
言葉はいらない。掟は絶対なのだから。
そして次の瞬間、空気が裂けた。
乾いた銃声が響き渡る。
衝撃で爪炎の身体が弾かれ、畳に叩きつけられた。血が舞い、赤い華が散る。
薄れゆく意識の中で、彼女は最後にただ一人の名を想う。
気をつけなさい、爪戯。
部屋には、冷ややかな硝煙と声だけが残された。
◇
場面は変わり、別の屋敷の一室。
障子を開け放つと、眩い陽の光が畳に長く伸びた。
その上を、無造作かつ威圧的な足取りで男が歩く。
白髪に鋭い眼光。その名は北王。
重い空気を引き裂くように、雷のような怒号が響いた。
「蝶神!!」
情けない悲鳴を上げて、金髪の女――蝶神が身をすくませた。振り返ると、北王が鬼のような形相で立っている。
「オレがいない間、辛を見張ってろって言ったよな?」
「い、言ったけど! でもあの子、言うこと聞かないし!」
「……」
「怒らないで! だって、辛の気持ち、汲んであげたかったし……!」
北王の表情がますます険しくなる。
蝶神は身の危険を感じ、すぐに畳に座り込み、両手を合わせて拝むポーズをとった。
◇
「で?」
北王は呆れたように腕を組む。
「現状、辛は一人なのか?」
「それがねえ……二人ほど、仲間が出来たみたい」
蝶神は苦笑しながら肩をすくめた。
「二人とも、辛のこと知っててついていってるから!」
その言葉に、北王の目が一瞬だけ細まる。
息子に、仲間。化け物と呼ばれるあいつに。
握りしめた拳が無意識に鳴った。骨がきしむ音がする。
北王の脳裏に、忌まわしい記憶がよみがえる。
幼い辛が泣き、自分の力に怯え、苦しむ姿。
ごめんなさい。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
脳裏に焼き付くのは、ひたすらに泣きながら謝る幼子の声。
黒い血が滲み、自分がその赤黒い惨劇の中に立ち尽くしている。
◇
「無理だ」
北王は吐き捨てるように言い、静かに部屋を出た。
裸足で縁側を踏みしめる足音が、硬く板を鳴らす。
「ちょ、ちょっとー!」
蝶神が慌てて呼び止めるが、北王は振り返らない。
強く握りしめた拳に、行き場のない怒りと焦燥が滲んでいた。
辛。
ふと、耳に懐かしい声が蘇る。
『ねえ、北王。人間って名前をつけるのでしょう? なら、この子にも――』
『私、この子の名前、決めたの……』
過去の幻影。花びらの舞う中で、彼はただその愛しい声を聞いていた。
そして、現実に戻る。
廊下の天井から、ぬっと顔を出したのは、奇妙な仮面をつけた男。
「北王くん! 北王くん!」
「……なんだ。今、構ってる暇はない」
「接触してしまったよ」
「……何と?」
「彼、“蟲人”と」
男の仮面には一文字――“玖”の印が淡く光っていた。
北王の脳裏に、さらに深く忌まわしい記憶が蘇る。
妻の妹。母親の片割れの妖――。
同じ妖気を放ち、同じように壊れていった哀れな存在。
「……一度目は六年前。次は、一年もたなかったな」
男は静かに呟き、障子越しの光を見つめる。
「今なら、外せるんじゃないか? あの枷を」
北王の唇が震えた。
「それを、なぜ……オレに伝え──」
仮面の男は遮るように、あっけらかんと言い始めた。
「え? 今、彼に不幸が起きて、戦えませんじゃ困るからに、決まってんじゃん! ……それ以外の理由が?」
悪びれもせずに、軽い調子で言う。
人の情など欠片もない、純粋な利害。
「……ああ、そうだった。お前は、そういう奴だったな」
北王は言い放ち、頭の奥で別の響きが生まれる。
『君は知ってる? 本物の“神”を殺す方法――』
北王は決意と共に立ち上がる。
拳を握り、視線を前へ。
「……辛」
その名を呼ぶと、足元に冷たい風が流れた。
◇
森の中。
辛の身体は、内側から灼けるように熱かった。
地面に両手をつき、荒い呼吸を整える。
「……っ!」
口の端からドス黒い血が滲む。
氷を溶かした瞬間、熱が逆流してきたのだ。
妖を凍らせたときに、自らが凍るのを防ぐため、禁忌としていた火の能力を無意識に使った代償。
妖の血が混じる身体が、火の能力を拒絶して悲鳴を上げている。
「……体質に、合わないのか」
誰に言うでもなく、自嘲気味に呟いた。
そこへ駆け寄ってくる影がある。
「辛ぉー!」
叫びながら飛びついてきたのは、爪戯だった。
「無事!? 無事なのか!?」
「……」
そのとき、凪の目に光が戻る。
操りの糸が切れ、正気を取り戻したのだ。
「えっ、妖の頭がない!?」
凪が驚愕し、爪戯も目を丸くして、すでに事切れた妖の骸を見ていた。
無惨なその姿に、凪の顔色が青ざめる。
「ごめん、私、私……!」
短刀を握りしめたまま、凪が泣き出しそうな顔で俯くと、辛は首を振った。
「別に、あんたのせいじゃない。妖に操られていただけだ」
「治療する! だから!」
凪はパニックになり、慌てて辛の服を脱がそうとした。
それを見た爪戯が怒りをあらわにする。
「……お前!」
爪戯が強引に凪を辛から引き離す。
「す、すみません! 焦りました!」
「まったく……」
空気が少しだけ、柔らかくなった。
◇
「で、辛。あの後、どうするつもりだったんだ?」
一息ついてから、爪戯が問う。
「オレが凍らせた後のこと」
「……適当に動きを封じて、それから妖を殺す」
爪戯の問いに、辛は無表情に淡々と答えた。
凪を傷つけずに済むよう、計算していたかのように。
「何される予定だったの、私!?」
凪がじと目で睨む。
「いや……結果的には助かったけど」
凪は安堵し、へらりと笑みを浮かべた。
「……もう一つ。短刀は辛の意思で、消せたんじゃないの?」
爪戯のもう一つの問い。
核心を突く質問。
辛は凪に短刀を作って渡した。辛の能力で生成されたものならば、当然、辛の意志一つで粒子に戻して消せるはずだ。
そうすれば、刺されることもなかった。
「あれは、あげたものだから。消したくなかった」
辛は視線を逸らして答えた。
一度贈ったものを、自分の都合で奪いたくなかったという、不器用な誠実さ。凪の手元の短剣は、主に応えるように淡く光を放った。
「……ごめん」
凪は小さく俯く。
その光景を見つめながら、爪戯は空を仰いだ。
柔らかい風が吹き抜ける。三人の絆が、また一つ深まった気がした。
◇
少し離れた丘の上。
ひとりの青年が、無造作にパンをかじりながら、彼らを見下ろしていた。
機械のような無機質な耳を揺らし、淡々と呟く。
「ふーん。あれに対して被験体たちは、どこまでやれるのやら」
青年は、実験動物を見るような冷たい眼差しを向けた。
「もし、あれ程度にやられるなら……」
パンを噛み切り、唇の端を歪める。
「弱いあいつらが悪いだけだ」




