No.12「化け物」
人を操り、人を食う妖。
人を惑わし、人を誘い込み――それが“蟲人”。
「私が……死なせてあげる」
白い靄が引きつつある森道に、女が草履の踵を鳴らして現れた。
背中から生えた巨大な黒い翅をゆらめかせ、彼女は辛が作り出した金属の壁へと視線を向ける。
壁の手前には、焦点の合わない瞳で凪が立っている。
「来たわね」
女は、壁の向こう――辛に向けて唇を歪めた。
「ねえ、ねえ。聞こえる? 半端者……」
女は凪の背へ腕を回し、短剣の細い刃をその白い喉元に押し当てる。
凪の手元、刃の先から、赤い雫が重力に従って落ちた。皮膚が裂ける微かな音が聞こえそうなほどの静寂。
「この子が殺される前に、出てきなさい」
女は凪の耳元でささやき、愛おしげにその頬を撫でる。
「死ぬわよ? この子」
金属壁の裏側では、辛と爪戯が向かい合っていた。
壁一枚隔てた向こうで、人質が刃を突きつけられている。
「どうする、辛……」
爪戯が苦渋に眉をひそめる。
「あいつを見たらダメってんなら、この右眼も使えないか」
辛は答えず、自身の首筋に触れる。
先ほど凪を庇った際、女に爪で引っかかれた痕が熱く脈打っている。
「……なあ」
壁越しの殺気と空気を読んで、辛は決意と共に一歩踏み出した。
◇
辛が壁の陰から姿を現す。それを見た女が、歓喜に表情を歪めた。
「やっと来たわね」
女が嬉しそうに目を細める。
「直ぐに出て来ないから、この子を殺すところだったわ。――まあ、いいわ。私の目の前で死んでくれれば、それで……」
黒い翅が大きく羽ばたく。鱗粉のような光が舞い、甘い香りが漂う。
「……そうねえ。今ここで、自害してくれる?」
辛は無言で女を見据える。
視線が絡んだまま、一歩も退かない。その瞳に魅了の色はなく、ただ冷徹な意志があるだけだ。
女はむっとして、刃を凪の手に強引に握らせた。
「無理と言うのであれば、先にこの子を自害させるわ」
命令が下る。凪の手が震えながら持ち上がる。
切っ先が、凪自身の喉へ向く。
刃から落ちる血が、土に黒い花を咲かせる。
それは先ほど、凪が辛を刺したときについた、辛自身の血だ。
これは。
辛の胸裏で、何かが繋がった。
その時、凪の掌が小さく震える。
視界の端で、彼女の虚ろだった瞳が揺れた。
血。これは誰の。
女が不審げに首を傾げる。
「動きがおかしい……?」
凪の喉が詰まる。
刃を握る手に、ぬるりとした感触と、辛との記憶が鮮烈に蘇る。
優しくしてくれた彼。守ってくれた彼。その彼の胸に、この刃を突き立てた感触。
そうだ、私――刺したんだ。刺した……私を助けてくれた人を……なんて酷いことを。
涙が、あふれ出した。
頬を伝って落ちた雫が、刃の上の血を薄める。
「……ごめん……なさい……」
凪が首を振って抵抗する。刃は上がらない。
女が苛立ち、凪の肩を爪が食い込むほどきつく抱き寄せる。
「!? 何故!? 私の思い通りに動かない!?」
◇
金属の壁は、月光を受けてかすかな唸りを上げて光を返す。
その壁の陰で、数瞬前――辛は爪戯に小声で策を授けていた。
「なあ爪戯。お前、水の状態変化ができるよな。……応用は? 少し離れた相手の“周囲”を凍らせるとか」
「出来るよ、一応。相手の周囲の水分子を凍らせて氷にできる。……でも俺、あいつは目を見たらダメなんだよね?」
「見る必要はない。凍らせて“一瞬”動きを止めて隙を作ってくれれば、あとは何とかする。ただし――凍らせるのは……」
◇
そして現在。
凪の抵抗で女が隙を見せた、その一瞬を辛は見逃さなかった。
辛は息を整え、短く叫ぶ。
「爪戯!」
「了解!」
壁の裏からの声。
次の瞬間、凪と女の足元で霜が走る音がした。
地面に含まれる湿気、空気中の水分が瞬時に白く凍りあがる。
「っ……!」
女の肩が跳ねた。
「氷……!? なにを――操れない? なぜ、人間に……!」
足首を絡め取る氷に、女の身体がわずかに縛られ、動きが鈍る。
その刹那。
辛が疾風のごとく走った。
魅了は半分妖である辛には効かない。
懐に滑り込み、逆手に持った鋼の短剣を女の胸へ突き出す。
肉を裂く鈍い手応え。
女の背で、透明の翅が大きく震え、膝が砕ける。
「貴様は……なぜ動け……凍っていない……?」
女が呻くより早く、辛はその身体を地面に押し倒し、柄に体重を預けた。
心臓を貫かれた女が、血の泡を吹く。
「――一つ答えろ」
辛の声は低い。
握る刃の震えが止まない。それは恐怖か、それとも。
「貴様は“どうやって”生まれてきた?」
女の瞳が大きく揺れる。
瀕死の脳裏で、ある矛盾が弾けた。
「だって……! 確かにあねさまは――人間の子を……。しかし、あねさまは“生む前に”人間に殺された! なのに、どうやって……!」
辛は目を伏せる。
その問いへの答えを、彼は知っているのか、知らないのか。
「……オレは」
喉の奥で言葉がつかえる。
脳裏に、幼い頃から夢に見る、掠れた声が甦った。
うまれてきて……ごめんなさい。
オレだけが、生き残って……。
死にたく、なかった……。
それは、死した彼女の腹に宿った何かが残した、生への執着の残響のようだった。
母を捨ててでも生きようとした、業の音。
「……あれは――」
女が悟ったように、うわ言のように呟く。
目の前の青年は、甥ではない。もっとおぞましい何かだ。
「化け……」
言葉はそこで途切れた。
黒い飛沫が、白い世界に咲く。
辛は柄を強く握り込み、刃を最後まで押し込んだ。
女の身体から力が抜け、冷たい氷の上に崩れ落ちる。
静寂と耳鳴りの中で、辛はただ短く息を吐いた。




