No.11「人操作」
記憶の中の風景。
あねさま。
澄んだ声が、木々のあいだから跳ね返った。
振り返る影は、白い袖を翻し、美しい蝶の翅を揺らして駆けていく。
幸せな追いかけっこ。けれど、世界は唐突に反転する。
次の瞬間。土の上に、毒々しい黒い花が咲いたように、おびただしい血が広がっていた。
あねさま。
道の真ん中に、翅の女がうつ伏せに倒れている。
指先ひとつ動かない。
呼びかける足音だけが、どこまでも続く長い並木道に吸い込まれていった。
◇
現在。霧の林。
辛の背に冷たい気配が落ちるや、白い影が一直線に飛びかかってきた。
「貴様が! あねさまを誑かさなければ!」
怨嗟の込められた鋭い叫びと同時に、女は辛の胸に体当たりし、そのまま首に腕を絡める。
勢いで土がはね、二人は地面を転がった。
「貴様のような人間のせいで!」
喉を締め上げられながら、辛は女の顔を見据える。
至近距離で見るその顔立ち。
誰だ、貴様。半端な妖気ではない。
いや、何か違和感がある。それに、その髪色は。
自分と同じ系統の色。そして、懐かしさを覚える面影。
女の視線が、辛の目の奥を覗き込むように揺れた。彼女もまた、辛の中に誰かを見ている。
「お前は……母さまの……」
辛は言いかけて、女は激しくかぶりを振る。
「嘘だ。だって、あねさまは――」
景色がひずむ。
女の脳裏で、過去と現在が混濁する。
白い道、倒れ伏した翅の背中。
そして、雨のように降る黒点の中で、その言葉が絶望と共に落ちた。
「子を産む前に、死……」
◇
暗い胎内。
辛の意識が一瞬、遠い過去――あるいは記憶以前の場所へと飛ぶ。無数のざわめきが、水面下で泡立つようにあふれた。
焦燥、嘆き、祈り。形の定まらない声の残滓が、どす黒い川へと流れ落ちていく。それは、“妖の子”として生を受けた瞬間の業。
霧が、引いていく。
「…………」
辛が何かを言っているが、錯乱した妖の耳には届かない。
木々の間に白く垂れていた帳が、潮のように急速に薄れた。
視界が開けた途端、金属を打ち付けるような衝撃音が地面に響く。
「辛!?」
背後で水色髪の青年──爪戯が叫んだ。
霧が晴れた視界の先、辛は地面に押し倒されている。
馬乗りになっているのは翅を持つ妖。
白い腕が辛の喉をぎりぎりと掴み、顔を覗き込んでいる。
「こいつを見るな!」
辛が叫んだ。
次の瞬間、空気がめくれ、巨大な円形の壁が地面から生える。
高い鉄板のような金属の幕が周囲を囲い、妖と、辛たちとの視線を物理的に断ち切る。
「! 霧が、なくなったぁ……? か、壁が……」
爪戯が状況についていけず唸る。
辛は喉元に残る痺れを押さえながら、じり、と妖の手を払いのけた。
そして、呆然と立ち尽くす凪の手を引き、壁の向こうへと連れていく。
壁際へと後退した妖は、ふっと力を失ったように動きを止めた。
ふいに両腕で胸元を押さえ、黙り込む。
「……」
凪の瞳は、虚ろだった。
焦点が合わず、硝子玉のように光がない。
壁の内側に立つ三人は、動けずにその様子を窺った。
「何が起きてる? この女も様子が変だし」
爪戯が眉をひそめる。
「……何か知ってる?」
爪戯の問いかけに、辛は答えなかった。
指先に、湿った感触が蘇る。
掌に残る、黒い、ぬるりとしたもの。
喉の奥で脈打つ痛み。母の妹であろう女からの殺意。
無意識に首筋へと手が上がる。
「……辛?」
爪戯に名を呼ばれても、彼は短く首を振るだけだった。
「……知らない」
そう言いながら、気配が跳ねた。
凪の視線が、吸い寄せられるように辛の胸元一点に定まる。
「――!」
彼女は反射で飛んだ。
辛の胸に体当たりするように抱きつき、そのまま腕を振るった。
肉を穿つ鈍い音が響く。
腰に差していた短刀を、辛の横腹めがけて突き刺したのだ。
それは数刻前、辛自身が彼女を守るために作り出した刃。
凪は虚ろな目のまま短剣を引き抜いた。
遅れて、鉄臭い匂いが噴き出す。
辛の身体がぐらりと揺れた。
凪はそのまま、操り人形のような足取りで壁の外側──妖のもとへと向かった。
判断を誤った。甘かった。
辛は胸を押さえ、膝をつきながら考えを巡らせる。
肉親かもしれないという迷い。事情を知りたいという欲。それが隙を生んだ。
情けは不要だ。
あの妖を、躊躇なく斬るべきだった。
爪戯が駆け寄る。
「あの……」
戸惑いを浮かべる彼に、辛は短く息を吐いて応えた。
「――これでいい」
血濡れた掌を強く握り直す。
首筋の痛みと、胸の焼けるような痛みが、むしろ意識を鋭利に澄ませる。
「痛みで、痛みを忘れられる。……次は、確実に殺す」
「いたみで……いたみ?」
爪戯が理解できずに首をかしげる。
壁の向こう、翅の女はなおも沈黙し、凪を取り込んで、抱きしめる空虚だけを胸にたたえていた。
決着は、もう先送りにできない。




