No.10「妖の蝶」
岩肌が牙のように露出した林に、生暖かい夕風がさわりと吹き抜けた。
木々の隙間を渡る風が、白い帯を大きく結んだ長い髪の女の裾を、生き物のように揺らす。
女は手にしていた小さな何か――まだピクリと動く人間の手のようなもの――を、ゆっくりと口元へ運んだ。
舌先がそれを愛おしげになぞり、次いで自らの手の甲をぬらす。
紅を引いた唇の端が、ゆるやかに吊り上がる。
「……また人間が来たようね?」
囁くような声。
女は唇の笑みを深めながら、霧の立ち込める森の奥を見やった。
その眼差しは、獲物を待つ獣のように冷たく、そして飢えていた。
* * *
「私の母親を殺したのは誰!?」
崖際の小道に、凪の声が響き渡る。
焦燥と苛立ちのこもったその叫びは、乾いた風に吸い込まれ、虚しく溶けていった。
隣で爪戯が、心底うんざりしたようにこめかみを掻く。
「は? ってかそれ、前にも聞いてなかったか?」
凪は焦るように一歩踏み出し、爪戯に詰め寄る。
その瞳は真剣で、縋るようでもある。
「殺し屋なら何か知ってんじゃないかなって! もう一度よく思い返して? みて! ほら!! 人相書きとかないの!?」
爪戯は肩をすくめ、降参のポーズで苦笑を浮かべた。
「いやいや~、こんな世界だよ? 人殺しなんて星の数ほどいるじゃん? 特定無理だって」
彼らのやり取りを黙って見ていた辛は、何も言わずに視線を地面へ落とした。
足元に伸びる影が、風に揺れて歪んでいる。
◇
「じゃあ……まあ、仕方ないか。――それを探す旅だし……」
凪は重いため息をひとつつき、やがて気を取り直したように顔を上げた。
「そーいや辛君は誰を探してるの?」
風が木々の葉を撫で、ざわざわと鳴らす。
辛は背を向けたまま、わずかに間を置いて答えた。
「……弟」
「……弟? 弟君も妖との……?」
凪は戸惑いを含んだ声で尋ねる。
妖と人の間に生まれた辛。ならば弟も、同じ業を背負っているのだろうか。
その問いに、辛は短く否定した。
「異母兄弟だから、あいつは人間だ」
その声音には、弟が人間であることへの安堵と、自分だけが異質であるという微かな哀しみが混ざっていた。
辛の視線が遠くの曇った空を捉える。
「……あいつらが連れて行った」
「あいつら?」
凪と爪戯が同時に首をかしげる。
しかし、辛は口を閉ざし、それ以上言葉を続けなかった。
◇
「兄弟で探してるって言えば……オレの兄も人探しで出て行ったよ」
爪戯が、重い空気を払うように何気なく口にした。
その言葉に、凪が興味を示す。
「お兄さんが? 誰を?」
「んー、よく知らないけど確か……」
爪戯は指先で空を指し、あやふやな記憶を手繰るようにゆっくりと口を開いた。
「――悪魔」
その一言が、場の空気を変えた。
凪の表情が一瞬で強ばる。
胸の奥に、これまでかすめた断片が次々と浮かび上がる。
あんみつ兄妹のこと。
この世界では人も神も悪魔も等しく人――蝶神が残した謎めいた言葉。
風が止まり、葉擦れの音が遠のく。
凪は無意識に、着物の裾を握る拳に力を込めた。
彼女の中で、バラバラだったピースが、何かがゆっくりと形を取り始めていた。
* * *
凪は首を振り、ぱっと気持ちを切り替え、勢いよく辛の方へ向き直った。
「……あ! そうだ! 話は変わるんだけどさ! 辛君、金属で私用の短剣か何か作ってくれない?」
「図々しいよ女ぁ!」
「うっせー片目野郎」
軽口が飛び交い、張り詰めていた霧の中の空気が少しだけ和らいだ。
凪は肩をすくめ、悪びれもせず言い訳を並べる。
「いやさ~、こいつの家でも襲われて思ったわけよ。少しぐらいは自分で身を守ろうかなって! 護身用、大事!」
「殺すよ?」
爪戯の冷ややかな突っ込みを、凪は完全にスルーする。
辛は無言のまま掌を上げた。
その指先に、ぴんと張りつめた空気が集まっていく。
銀色の光の粒が芽吹くように金属を形作り、数秒後には黒い鞘に収まった一本の短剣へと変わった。
「これでいいか?」
「さんくす!」
凪は嬉々としてそれを受け取り、腰帯に丁寧に差し込んだ。
風が木々を渡り、梢が再びざわめく。
遠くの森の陰で、誰かが舌打ちするような音が微かに響いた気がした。
◇
さらに歩を進め、一行は霧深い樹海へと足を踏み入れていた。
足もとでは湿った落ち葉が音もなく沈み、白い霧が蛇のように低く流れている。木々の輪郭がぼやけ、まるで夢の中を歩いているような浮遊感。
前後左右の感覚が麻痺していく。
居ない。
辛は立ち止まり、眉をひそめた。
隣を歩いていたはずの凪と爪戯の気配が、ふいに消えている。
音もなく、何の前触れもなく。
胸の奥がずきりと疼いた。
「……」
振り返った凪もまた、異変に気づいていた。
「二人は!? さっきまで傍にいたはずなのに……。はぐれた? 何で……?」
周囲は真っ白な壁。
霧の向こうから、ふっと香りが流れてきた。
甘く、濃厚で、脳髄を痺れさせるような花の香り。
思わず、凪の足が動く。
導かれるように走り出した視界の先、白い靄の切れ目に、ひらひらと光る翅が浮かび上がった。
「あら、今度の人間は女の子なのね? とてもおいしそう」
声の主は、長い髪の女だった。
白い帯で結った髪が揺れ、あらわになった肩口には奇妙な紋様が燐光を放っている。
背には、透けるほど薄く巨大な翅。
唇を舐め、微笑んだその仕草は、ぞっとするほど美しい。
こいつは何者。
あれ? この模様……色は違うけど……。
脳裏をよぎったのは、今朝見た、辛の背に刻まれた橙の紋章。
辛君のに、似てる。
女は、宙を滑るように距離を詰めてきた。
凪の足が止まる。逃げなければいけないのに、動かない。
霧の中で、思考が甘く霞んでいく。
「あれれ? 私は何を……していた……ん、だっけ……」
頭の奥が白く溶けていく。
女の手が、凪の頬にそっと触れた。氷のように冷たく、それでいて心地よい指先。
「そう、良い子ね」
女が満足げに笑った、その直後。
湿った音がして、女の掌に、唐突に鋭い痛みが走る。
黒い血飛沫が弾け、短い刃――凪が腰に差していたはずの短剣――が、その手のひらを深々と貫いていた。
「誰だ!?」
女が驚愕に振り返る。
霧の外縁、歪んだ空間の輪のような裂け目の向こう側に、辛が立っていた。霧を切り裂くように、その鋭い眼光が浮かび上がる。
「……!」
女の目が細くなる。
「何故、攻撃ができ……その顔! 貴様! あの時の人間か!」
怒りと警戒、そして確かな怯えが混ざった絶叫が、白い森にこだました。




