No.1「出会う」
──ザンッ。
斬撃音が、森の静寂を裂いた。
――玖の国。
濃い霧と古木に包まれた山間の地。
その薄闇の中に、ひとりの青年が立っていた。
青い髪。薄い緑の瞳。
手には、妖の血を払うように滴る刀。
名は、辛。
その足取りの先には、果たさねばならない約束がある。
「待ってろ、丁……必ず連れ戻す」
誰に向けるでもない言葉は、霧に溶けて消えた。
足元には、小さな“妖の眼”が転がっている。
微かな光を灯したそれを、辛は一瞥し、無造作に踏み砕いた。
そのとき、森の奥から甲高い悲鳴が響く。
「きゃああ! 来ないでええええ!」
声の方へ風が揺れ、木々が道を開く。
霧の切れ間を、ひとりの少女が駆けていた。
名は、凪。
肩までの黒髪。うさぎのようなリボンの髪飾り。
和服を簡素に着崩しながらも、その身のこなしは軽く、森に馴染んでいる。
だが、その背後には、巨大な妖が迫っていた。
蜘蛛にも似た異形。
人の顔を模した仮面めいた頭部が、不快な呻き声を上げる。
「ご、ごめんなさいあやかし様ぁぁ!」
凪は息を切らしながら、枝を掴み、木々を蹴り、必死に逃げる。
転びかけても体勢を立て直し、なお前へ――
しかし、足がもつれた。
視界が揺れ、背後の闇が牙を剥く。
その瞬間。
――ザシュッ。
風が裂けた。
黒い影が妖の懐を抜け、次の瞬間、異形の身体が斜めに裂けて黒い霧と化す。
呆然とする凪の前に、青年が立っていた。
長刀を携えたその姿。
辛。
「……」
彼は何も言わず、血糊を払うように刃を振り、手の中の刀を消す。
冷えた瞳だけが、散った闇の名残を静かに見つめていた。
「あ、ありがとう……」
凪がようやく絞り出した声も、彼の背を引き留めるには足りない。
辛は振り返ることなく歩き出す。
木の葉が舞い、二人の間を風が通り抜けた。
「えっ、無視……? べ、別にいいけど!」
強がるようにそう言って、凪もまた別の方向へ歩き出す。
***
凪は拳を握りしめた。
目指す先は、小さな集落。
やがて視界が開け、木柵と低い屋根が見えてくる。
「祝! 初の村、到着〜!」
両手を広げて宣言しながらも、その胸の奥では静かに燻っていた。
(……お母さま。私、必ず見つけ出す。犯人を)
路地の先で、子どもの泣き声が耳に届いた。
見ると、小さな子が転んで膝を擦りむいている。
凪は迷わず駆け寄り、しゃがみ込んだ。
「大丈夫! 私の能力で治してあげる!」
優しく笑い、そっとその傷に手をかざす。
掌に柔らかな光が灯り、淡い癒しの輝きが擦り傷を包み込む。
「いたいの――飛んでけ!」
光が消えたとき、傷は跡形もなく消えていた。
「すごい……!」
周囲から驚きの声が上がり、村人たちの視線が凪に集まる。
凪は少し照れながらも笑ってみせる。
凪の能力は治癒。
人を助ける異能。
「治った〜!」
子どもの弾む声。
母親が泣き笑いの顔で子を抱きしめ、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます! 本当に助かりました!」
「いや〜、お礼もらえると助かります〜」
冗談めかした一言に、母親が瞬きをする。
「……お金、とるの!?」
「え? えっと、気持ち程度で……!」
凪が慌てて頭をかく、その背後。
いつの間にか、辛が立っていた。
その無言の存在感に、母親は顔を強張らせ、子どもをきつく抱き寄せる。
「出ていってくれ。」
誰かの短い声。
それだけで、さっきまでの温度が嘘のように冷めていく。
「ちょ、ちょっと待って!」
凪が手を伸ばすが、母親は子を抱えて足早に去っていった。
恐怖をにじませた横顔だけが印象に残る。
胸の奥が、冷たく締め付けられた。
──その瞬間、凪は思い出す。
『ごめ〜ん。もう凪ちゃんとは遊べないよ』
『え……どうして?』
問いかけても、返事はなく。
代わりに、戸が閉まる音だけが響いた。
『住む世界が違うんだってさ』
隣の子が、気まずそうに目を逸らして呟く。
『でも、私たち……友達だったよね?』
『友達? もう、同じ人間じゃないんだよ』
その言葉が、刃のように胸を刺す。
笑おうとしても、口元が震えて上手く形にならない。
──なぜ。
「──みんな、同じ人間じゃないの?」
今と過去が重なるように、凪はぽつりと呟いた。
その横で、辛が静かに視線を向ける。
無表情のはずの瞳に、かすかな痛みが滲んでいた。
***
日が暮れ始めた頃。
夕焼けが村の屋根を朱に染め、風が軒を鳴らしていた。
その屋根の上に、ひとりの影が立っていた。
茶色い髪をおさげに結い、黒い着物に白の帯。
細い唇が弧を描く。
「……見つけたわ」
その声は、夜の始まりを告げる鐘のように冷たく響いた。
***
同じころ。
凪は縁側に腰を下ろし、ぶらぶらと足を揺らしていた。
木の香りがする夕暮れ。
鳥の声が遠くで鳴いている。
「はぁ〜……あんみつ食べたい〜」
のんきに呟きながらも、どこか落ち着かない。
胸の奥に、微かなざわめきが残っていた。
振り向くと、そこに昼間の母親が立っていた。
子どもの姿はない。
「あの、すみません」
母親は少しうつむき、柔らかく笑った。
「先程は急に立ち去ってしまい、申し訳ありませんでした。お詫びとお礼をさせてください。」
「いやいや、別にいいよ。」
「いえっ! ぜひ、あんみつでも!」
その言葉に、凪の目がぱっと輝く。
「食べたい!」
二人は顔を見合わせて笑い合い、そのまま並んで歩き出した。
***
夕暮れの村道。
風が通り抜け、木々の葉を揺らす。
並んで歩く二人の足音が、かすかに重なる。
凪は少しだけ迷いながら口を開いた。
「ねぇ……どうして、あの時“化け物”なんて言ったの?」
母親は立ち止まり、少し俯いて答える。
「え……? 知らないんですか? この辺りでは有名なんですよ」
その声には、怯えと哀れみが混じっていた。
木々の隙間から吹き抜ける風が、冷たく頬を撫でる。
「あの青年は、妖と人間の間に生まれた子──そう噂されてるんです。
死んだ妖の胎内から生まれたとか。」
凪は足を止めた。
唇がわずかに震える。
「……そんな」
「隣の村では実際にそう言われていました。
まさかこちらに来ていたなんて……」
母親の声が細く、風に溶けた。
***
同じころ、辛は村外れの細い路地を歩いていた。
薄闇の中、湿った土の匂い。
足元には、黒ずんだ染みが点々と続いている。
それは血。
まだ乾ききらない跡を、辛は無言で見つめた。
「……」
風が髪を揺らし、沈黙が森に溶けた。
***
凪は考え込んでいた。
(だから“化け物”か……。話しかけても無視されるし。
でも、妖に襲われた私を助けてくれた。悪い人じゃないと思うんだけどな……)
そんな思考の隙間を、冷たい風が通り抜ける。
握られた手の感触に、ふと違和感を覚えた。
母親の掌が、妙に冷たかった。
「あれ……?」
気づけば、あんみつを食べに行くはずだったのに、
村を抜け、森の外れへと足を踏み入れていた。
「え、どこ行くの?」
凪が問いかけても、母親は答えない。
まっすぐ前を見つめたまま、足を止めることなく進む。
やがて開けた場所に辿り着いた。
そこは人の気配のない、枯れ草の広場。
母親が足を止め、ぽつりと呟いた。
「……いいえ。ここで、いいの」
その声が震えていた。
凪が眉を寄せた、その瞬間――
――ピキン。
空気が凍るような音がした。
足元の地面が、まるで生き物のように盛り上がり、
裂け目から黒い根が這い出す。
「なっ……!?」
凪の身体を、黒い蔓が絡め取った。
腕を締めつけ、脚を引きずり込む。
「ちょ、ちょっと!? なにこれ!?」
背後の闇から、別の女が歩み出た。
茶色の髪をおさげに結い、黒い着物に白の帯。
唇には不気味な笑み。
「連れてきたわね。偉い偉い。」
「良いから早く! 娘を返して!」
母親が叫んだ。
その声を嘲笑うように、茶髪の女が懐から何かを放る。
――ドサッ。
凪の目の前に、それは転がった。
昼間、凪が癒したあの子どもの――頭。
「どう……して……」
母親の膝が崩れ落ちた。
震える手を、我が子の亡骸へと伸ばす。
茶髪の女は指を鳴らす。
地面が唸り、無数の蔓が女の足を絡め取る。
「大丈夫よ。ちゃんと娘のところに送ってあげるから」
にやりと笑うと、地面が爆ぜた。
巨大な食虫植物のような口が現れ、母親の悲鳴ごとその身体を飲み込んだ。
「──あんた!!」
凪の叫びが森に響く。
だが女は、楽しげに肩を揺らして笑った。
「あんた……なんてことを!」
「はぁ? 別に良いじゃない」
唇に笑みを浮かべ、淡々と告げる。
「こいつらは能力発動源、“シン”を持たない無能力者。
私たち、“神”に選ばれし者が支配すべき存在なのよ」
「能力があろうが無かろうが──」
凪が叫ぶ。
「同じ人間よ!!」
女は小首を傾げ、面白そうに笑った。
「同じ? あんたが言うの?
だって、あんたも“上に立つ者”じゃない? 地位の違う人間でしょ?」
その言葉が、凪の胸に鋭く突き刺さる。
確かに、彼女は“姫”として育てられた。
けれど――。
「……それでも私は、同じだと思ってる!」
凪は蔓に絡め取られながらも、真っ直ぐに睨みつける。
その瞳の光が、女の嘲笑を一瞬だけ止めた。
「ふーん……別にいいわ。捕まえられたんだし」
女が凪に背を向けた、その瞬間――
風が鳴った。
閃光のような刃が走り、女の左腕が斬り裂かれる。
「──っ!?」
血が宙に舞い、赤が夕闇に散った。
振り返った女の目に映ったのは、無言の青年。
「なっ!?」
女が悲鳴を上げ、振り返る。
怒りに顔を歪めながら、腕を振る。
地を這う植物が蠢き、無数の蔓が辛に向かって襲いかかる。
だが、辛は微動だにしなかった。
迫る蔓を、流れるような動きで切り裂いていく。
金属の軌跡が閃光となり、断面から黒い液が散った。
「……あんた、いったい……? こいつの何?」
女が、痛みに顔を歪めながら問いかける。
辛は一瞥するだけで、冷たく答えた。
「……知らん。名前も、何も」
その声は氷のように淡々としていた。
だが、確かに何かがその奥に沈んでいた。
凪は、その言葉に息をのむ。
無表情の青年の瞳に、かすかな揺らぎを見た気がした。
──白い光。
幼いころの記憶が、辛の胸の奥で揺れる。
遠い声が、霧のように浮かんだ。
“ねぇ、辛”
長い金髪の女が、微笑んでいた。
「あなたのことを、たとえ正体を知っても“人”として見てくれる人は、きっといる。
だからその力は──そういう人のために使って」
やさしい声。
掌からこぼれた光が、いまも心の奥で燃えていた。
辛はゆっくりと息を吐き、呟く。
「……“人”と言ってくれた。それだけで十分だ」
再び刀を構える。
その姿を見て、凪は一瞬、息を止めた。
背に宿る意志の炎が、風に揺れる木漏れ日のように確かだった。
「はぁ? 意味わかんない!」
女が叫び、地を叩く。
蔓が地中から再び這い出し、蛇のように辛を囲む。
だが、その瞬間。
――キィィン。
金属の鳴る音。
辛の腕から光が走り、刀身が形を成した。
黒鉄のような輝きが空気を裂き、蔓を一瞬で粉砕する。
「金属生成……能力者……!?」
凪が驚愕に目を見開く。
辛は疾風のごとく駆けた。
地を蹴り、一閃。
鋭い斬撃が女の前を走る。
女は身を捩って避けたが、頬をかすめた刃が血の線を描く。
「ちっ……! このっ!」
怒りの声。
女は懐から黒い煙玉を取り出し、笑みを浮かべた。
「特製の“毒”よ!」
爆ぜる音とともに、濃い煙があたりに広がる。
視界を覆い、辛の姿が掻き消える。
「これで終わり……!」
勝ち誇った笑いが、森に響く。
だが次の瞬間――風が裂けた。
女が振り向いたときには、すでに遅かった。
背後から伸びた刃が、彼女の腹を貫いていた。
──ズ、と重い音。
女の身体が痙攣する。
瞳が大きく見開かれ、信じられないという色が浮かぶ。
「な……なんで……動けるのよ……!?」
血を吐きながら問う女に、辛は低く言い放った。
「化け物だからな。この程度の毒は効かない」
その声は静かで、感情を感じさせなかった。
だが、言葉の奥に宿る何かが、凪の胸を締めつけた。
「この……化け物……!」
女は最後の言葉を吐き捨て、地に崩れ落ちた。
赤い血が地面に滲み、やがて森に吸い込まれていく。
***
風が止む。
鳥の声も、虫の鳴き声も消えた。
凪はゆっくりと歩み寄り、胸に手を当てた。
「……ありがとう」
凪が深く頭を下げる。
その顔に、安堵と感謝の色が混じっていた。
「妖に襲われたときも、今回も……あなたがいなかったら、本当に──」
「……別に」
辛は視線を逸らす。
無表情のまま、風に揺れる髪だけが動いた。
「妖と人の間に生まれたって聞いた。けど──」
凪は微笑んだ。
「やっぱり、私には“化け物”なんて思えないや」
その言葉が、風のように静かに落ちる。
辛は何も言わない。
ただ、空を仰ぎ、木漏れ日の差す方向を見つめていた。
森の葉が揺れ、遠くで鳥が鳴く。
「ねぇ」
凪が一歩近づく。
両手を胸の前で合わせ、にこりと笑った。
「私の“目的”に付き合ってくれない?」
その真っ直ぐな瞳に、辛は思わず足を止めた。
振り返ると、彼女はまるで祈るように言葉を続けた。
「お願い。お金は払えないけど……」
少し照れたように、凪は笑う。
「お金とはおさらばしたくないの」
その冗談に、風が小さく鳴った。
辛は答えなかった。
木漏れ日の下、ふたりの影が重なる。
──この出会いが、運命の始まりだった。
漫画版から小説化




