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 髪を掻き上げつつ、浴槽に浸かってきたキリアンは、当たり前だが全裸である。

 鍛え上げられた肉体美を惜しげもなく披露して、お湯の中を一歩、また一歩と進んできた。


 今は会いたくない。キリアンにだけはどうしても、背中の傷を見られたくなかった。

 気づかれる前に逃げよう。反対側に回り、一切目を逸らさず、そっと距離を取っていく。

 今のエレノーラは魔獣に出くわしたときと、同じ極限状態であった。目を離したら死ぬ。見失っても死ぬ。


 じっと耐えて息を潜めていると、不意にキリアンが目元を覆った。見えていないタイミングで波を立てずに、後方へと下がったものの、バランスを崩し足を滑らせてしまう。


「ッ……あっ……!」


 縁にぶつかると思い、ぎゅっと瞼を閉じた。けれど、襲ってきたのは痛みではなく、逞しい腕の感触。

 いつの間にか目の前に、眉根を寄せて息をつく、キリアンの相貌が迫っていた。


 端麗な顔立ちを歪ませながらも、片手で抱きとめ、大理石の縁に手をついている。

 しっかりと絡みつく手のひらが、ゆっくりと背中を撫でる感覚に、血の気が引いていく。


「ぁ、っ……」


 声が出せない。過去に浴びせられた罵声が脳内に木霊して、全身に震えが走った。

 鞭で打たれる衝撃がよみがえり、吐き気まで込み上げる。


『醜く穢れた、役立たずめ』


 フラッシュバックにより、エレノーラは無意識に逃れようと暴れていた。

 荒い呼吸を漏らす身体を、キリアンが優しい手つきで抱き締める。宥めるよう背中を擦って、名を呼び続けた。


「大丈夫だ、エレノーラ」

「は、ぁ……っ、は……」

「これは君が生きようと頑張った証だ。私はこの傷を含めて、君を愛している」


 ハッと動きを止めた。包み込むよう熱が広がり、呼吸が楽になっていく。

 傷を受け入れてくれたのも、最も欲しかった言葉をくれたのも。エレノーラを嫌っているはずのキリアンだとは、なんという因果か。


 ずっと、誰かに愛されたかった。居場所のない人生に疲れ果て、死を覚悟したこともある。いつもギリギリの道を歩んでいて、幸せを感じたことはない。

 エレノーラにとってキリアンとの出会いは、青天の霹靂といえる。祖国が敗戦しなければ、エレノーラは生きていなかっただろう。


 気づけば、嗚咽を漏らして泣いていた。堰を切ったようにあふれる涙はとまらず、縋りたくてキリアンの胸元に擦り寄る。身を預けたエレノーラを、落ち着くまで腕に囲ってくれた。


「……申し訳、ありません……殿下」

「キリアン」

「っ、ぅ……キリ、アン……もう、大丈夫です」


 子どもみたいに泣いて、みっともない姿を晒してしまった。今さら、羞恥心に苛まれてうつむく。

 離してくれと訴えてみるが、キリアンはエレノーラを囲ったまま動かない。首筋に顔をうずめて、深く息を吐いている。


「……私は先に上がっているよ。君はゆっくり浸かるといい」

「いえ、わたしが」


 言い募ろうとすれば、手で制される。顔を背け視界を覆うキリアンは、よく見ると首まで真っ赤に染まっていた。


「大丈夫だ。その、用意ができたら部屋に来てくれないか? 少し、話がしたい」

「え、はい……」


 改まって言葉にされると恐怖が襲う。けれど、今後の話し合いは必要不可欠だ。

 遠ざかる水音を聞きながら、エレノーラは力強く両手を握り締めた。





 扉の前で深呼吸を繰り返す。ノックをするだけなのに、凄まじく身体が強張ってしまう。最後に大きく息を吸って、軽く音を鳴らした。

 エレノーラの声に反応するよう、瞬時に扉が開く。


「エレノーラ、会いたかった……!」


 太陽のような微笑みに、目が焼かれそうだ。しかし、明るい態度とは裏腹に、アイスブルーの瞳が切なげに揺れている。

 1時間も待たせてしまったせいか、罪悪感が芽生えた。


「すみません、お待たせしてしまっ……きゃっ!」


 不意に抱き上げられ、鼓動が跳ねる。爽やかな香りと体温は、エレノーラの全身を紅潮させていく。

 けれど、負荷をかけない歩き方が優しさを表していた。微かな振動が気持ちの良い波に誘う。

 身を任せていると、目の前に広がる光景に、圧巻させられた。


(わぁ、すごく素敵な部屋ね……)


 レティノアール公爵邸に似た、白をメインに取り入れられた開放感あふれる内装。豪奢なシャンデリアと、ベルベットのカウチソファー。

 壁側には天蓋つきの大きなベッドが鎮座しており、無駄のなさはキリアンの性格を表しているかのようだ。


「ここは、キリアンの部屋ですか?」


 落ち着かなく見渡していると、キリアンからクスッと吐息が漏れた。

 そのままソファーに直行したかと思えば、エレノーラを抱いたまま腰を下ろす。


「気に入ったか? 誰かを迎え入れたのは君がはじめてだ」

「え? わたしが居てもいいのですか?」

「君以外を傍に置くつもりはないが?」


 紡がれた言葉が、あまりにも甘くて、自身には不釣り合いに思える。素直に受け止めきれず、キリアンを避けるよううつむいた。

 すると、恐る恐る首筋に触れてくる長い指。骨張って少し硬さがあるのに、優しく歪に刻まれた傷をなぞっていく。


「エレノーラ、聖剣で受けた傷は消えることがない」

「いい、です。自業自得なの、で……」

「これは、私がつけた痕だ。君が、私のものだという……そうだろう?」


 首筋の傷はエレノーラ自身がつけたものだ。キリアンは関係ないのに、責任を感じているのだろうか。

 くすぐったさに身を捩ると、ぎゅっと腰に腕が絡みつく。まるで、逃げるなとでも言われているかのようだった。


「あの……」

「かわいい、私のエレノーラ」


 額にぬくもりが落ちてくる。蠱惑的なささやきと、柔らかな眼差し。

 銀糸から覗くアイスブルーの双眸に嘘はない。


「私の心臓の音を感じるか?」

「えっと……?」

「こんなにも高鳴っているのに、君に触れていると暴走しないんだ」


 おそらく、暴走は魔力を指しているのだろう。帝国一の魔力を誇ると云われており、その強さは国を滅ぼすに値するほどだ。

 確かにキリアンの心音は、忙しなく動いている。不安に駆られて、エレノーラは頬に手を伸ばす。

 滑らかな肌をゆっくり撫でると、甘えるようキリアンがすり寄ってきた。


「苦しいのですか?」

「いや、魔力暴走を起こしても私自身を傷つけることはない」

「でも、傷だらけだったじゃないですか」

「ああ……私は、君になにかあれば、正気じゃいられないようだ」


 テーブルには色とりどりのデザートと、ワイングラスがふたつ。華やかに盛りつけられたクッキーを手に取り、キリアンが口に運んできた。


「ぅ、自分で……」

「ほら、くち開けて」


 表情が綻んだキリアンは、眩しいくらいに輝いて見えた。ジャムがのったクッキーが、口内でとろけて、甘酸っぱさだけを残していく。

 恥ずかしいけれど、安らぐひととき。キリアンと同じ時間を共有していることが、未だ現実味がない。


(……甘いわ)


 苺の酸味を堪能していると、腕の中に囲われる。呆気に取られて固まっていたが、すぐに解放してくれた。

 キリアンの視線は、首元に注がれている。


「うん、似合うな」


 微笑みにつられて、そっと触れた。ネックレスと変わらない軽さだが、幅があり首を覆うよう取り着けられている。


「あの、これは?」

「チョーカーだ。これで傷痕が隠せる」

「あ……」


 聖剣で斬ったために、皮膚は盛り上がり、鞭打ちのごとく腫れている。目に余るくらい醜いのだろう。

 サッと血の気が引いていく感覚がして、ドレスの裾を握り締めた。


「追々、届くから気に入ったものを着けるといい」

「やっぱり、傷痕が気になりますか……?」

「まさか、人目に晒すつもりだったか?」


 呆れるような、叱咤するような。低い声音に身体が震えそうになる。

 何故、思い至らなかったのか。目立つ場所に傷を負った女を、傍に置きたがらないだろう。


「も、申し訳……」

「その傷痕は私だけのものだ。目にするのも触れるのも、私しか許されない」

「はい……?」


 傷痕を、私物と同じ扱いをしているように聞こえる。聞き間違いか、そうであれ。

 唸って考え込んでみるものの、やはりエレノーラの頭脳では理解できない。


「傷痕を見たくないから着けろってこと、ですよね?」

「なんのことだ? 私のものなのに、他の人間が見ていいわけないだろう」


 小首を傾げて、さも当然とばかりに言ってのける。こんな傷痕を我が物にして、なんの得があるのか。

 とはいえ、細められた瞳は真剣そのものだ。本人は至って真面目なので、要望に応えるのが正解だと思う。


「わかりました、誰にも見せません」

「ああ、ありがとうエレノーラ。私は君のものだから安心するといいよ」


(なんて?)


 我慢ならず、とうとう目元を押さえた。キリアンといえば、愉しそうにワインを嗜んでいる。

 もはやエレノーラは疲弊していた。力なく項垂れたところ、腰に腕が巻きついてくる。


「エレノーラ、その……で、で」

「え? キリアン?」


 覗き込むが、顔を背けられた。口籠るキリアンは、耳まで赤く色づいている。

 酔ったのかと心配になり、手を差し出すと、すぐさま掴まれた。素晴らしい反射神経である。


「あ、その……デートを、してくれないか……?」


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