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「もういいですから、そういうの。はやく目を開けてください」
「いや、ちょっ、待っ、ま……」
見た目麗しい顔を掴んで、なおも追い詰める。意地になっていたが、キリアンの整った顔立ちを目前にすると、想像より心臓に悪かった。
滑らかな肌と長い睫毛。眺めているたけで、胸の高鳴りがひどくなる。
じっと耐えていると、ゆっくりと開かれた瞼から、水のように透き通った瞳が現われた。
高貴なアイスブルーの双眸に、胸を鷲掴みにされる。
「ど、どうですか……この、ドレっ……んぅ……!?」
気づけば唇に、柔らかいものが押しつけられている。驚いたエレノーラはキリアンを押し退けようと、無意識にもがいていた。
しかし、相手は鍛え上げられた肉体を持つ騎士だ。後頭部と手首を掴まれ、エレノーラに逃げ場はない。
ようやく熱が離れて、大きく息を吸い込む。びっくりしたけれど、嫌じゃないことが不思議だった。
首筋に身を寄せられたかと思えば、そっと指先が肌の表面を這う。愛おしげに、何度も、何度も、感触を刻まれていく。
「あの、キリア……ひゃっ……!」
ぐっと腕の拘束が強くなった。逞しい身体に包まれて、エレノーラの全身が紅潮していく。
抱き締められている。キリアンから伝わる鼓動も、あたたかさも、揺り籠のように心地良い。
はじめて知る人肌のぬくもりに、エレノーラの薄紅色の瞳が潤んでいた。
「キ、キリアンっ……」
「……君は、男を知らなさすぎる」
解放してもらったものの、呼吸が落ち着かない。おぼろげな視界いっぱいに、キリアンの相貌が映る。
眉間に深い皺を刻んで、エレノーラを見るアイスブルーの瞳は、瞳孔が開いていた。
光を宿した瞳を細め、耐えるよう唇を噛み締める仕草。いつもとまるで違う。
エレノーラと同じく、今のキリアンは耳まで真っ赤。冷徹な美男子が、少年のように愛らしい香りを漂わせていた。
「すまなかった……頭を冷やしてくる」
前髪を掻き上げつつ、そっと離れたキリアンは、振り返りもせず去って行った。
リビングにひとり取り残されたけれど、エレノーラの思考はキリアンで埋め尽くされている。
(な、なに……いまの……)
身体中に、まだ感触が残っている。力強い抱擁ながら痛みもなく、優しさで溢れていた。
くちづけまで思い出して、鼓動が早鐘のように脈打つ。
ドキドキがおさまらず、床にへたり込んだまま動けなかった。
◆
昼食は流れたものの、キリアン自らお茶の誘いに訪れた。
「庭園に用意させている。お詫びに、エスコートをさせてくれないか……?」
顔色を窺いながら、キリアンが腕を差し出す。未だ混乱していたが、断る理由もないので、エスコートの申し出を受けるため腕に手をそえた。
触れた瞬間に、ぴくんと反応を示したキリアンは、すぐさま顔を背ける。覗き込むと、目許が微かに色づいていた。
絆されている気がしなくもないけれど、可愛く見えてなにをされても許してしまいそう。
数分ほど歩くと、手入れが行き届いた薔薇園が見えた。多種多様の薔薇で彩られた景色の中央には、ガゼボが設置してあり、キリアンの案内で席につく。
テーブルに次々と運ばれてくるケーキを見て、エレノーラは絶句した。
(なんなの、これ……)
ショートケーキの中心に、薔薇が一輪ぶっ刺さっている。盛りつけられたイチゴを貫通しており、悲鳴を上げている様が痛々しい。
他にも、カップケーキやチョコレートケーキもあるが、すべてに薔薇が刺さっていた。嫌がらせにしては悪趣味だろう。
気を抜いた途端にこれか。刺し殺してやるというメッセージか。
キリアンのことを、少しは理解してあげられたかと思ったけれど、勘違いだったようだ。
見せてくれた弱みは、籠絡するための演技だろう。また、キリアンがわからなくなって、ひとり取り残された気分に陥る。
「エレノーラ、気に入らなかったか……?」
眉尻を下げて不安げに見つめても、騙されてやるものか。
ちょっとでも隙を見せたら殺されてしまう。ぐっと拳を握り締め、キリアンに視線を向けた。
「キリアン、話があります」
「うん?」
「陛下に申し出をしました……離婚を、認めてください」
薔薇の香りにのって、緊張感が漂う。じっと顔色を窺っていると、キリアンが唇を緩めて微笑んだ。
プレートを手に持ち、クマやウサギ型のクッキーと、ジャムがついたスコーンをのせていく。
ひとつひとつの動作に、一切の無駄がなく優雅だ。見惚れていると、取り分けられたデザートを差し出される。
「他のものが良ければ用意させよう」
「要りません……わたしは話を」
「なにが食べたい? それとも、ドレスやアクセサリーか。欲しいものがあるなら遠慮なく言ってくれ」
聞く気がないのか、キリアンは取り合おうとしない。
人間は、不明瞭なものに恐怖を抱く生き物だ。ぶつけられた感情が、あからさまな憎悪や怒りであれば、相手の考えが読みやすくなる。
けれど、優しさとはなんだろう。人は必ず見返りを求めたがる。エレノーラに品物を買い与えて、キリアンになんの得があるというのか。
優しさには慣れていないから、優しくされると逆に怖くなってしまう。
「わたしの希望は離婚だけで……」
「君は私を好きだと言った」
「言いました、けど……ですが、今は関係な」
「私は一度でも触れたなら離せないとわかっていた。でも君は、私が好きだと言う……我慢をする必要があるか?」
陽の光を浴びて輝くシルバー色の前髪が、風に拐われ美しく波打つ。
カップに口づける姿は一枚の絵画のように洗練されているけれど、謎解きならば他所でしてほしい。
エレノーラが好きだと伝えたから、レティノアール公爵邸を墓場にしてやるとでも言いたいのか。
(……わたしに、責任を取れとおっしゃっているのね)
そっとカップに視線を移す。思考を巡らせながら、中の液体を眺めた。ふと、薔薇の花びらがふわりと舞って、カップの中に落ちてくる。
薄い葉の色に鮮やかな赤が混ざり合い、エレノーラの視界が血の色で染まっていくようだ。
よくよく考えれば、離婚はどんな理由であれ家門の名に傷がつく。
人質としての価値もない女のせいで、レティノアールの名が穢されるのは許せないのだろう。
だが、死別となると話しが変わってくる。
人間はいつしか死を迎えるもの。神の前で誓いを立てるときも、『ふたりが死を分かつまで』とされている。
死んだ理由なら幾らでも作れるし、殺人を犯したとしても、レティノアールほど大きな権力を持ってすれば揉み消すのも容易い。
エレノーラが亡くなれば、キリアンは心置きなく想い人と添い遂げられる。当たり前の単純な話だ。
(本当に……わたしの居場所なんて、何処にもないんだ……)
もう、疲れてしまった。人の顔色を窺って怯えながら生きることに、なんの意味があるのだろう。
いっそ、この場で殺されたほうが楽になれる。スッと背筋を伸ばして、キリアンを見つめた。
はにかむキリアンに、強烈な一撃をお見舞いする。
「もう、いいので。殿下の好きなようになさってください」
「ど、どうしたんだ……エレノーラ……」
「わたしは、殿下が嫌いです……大っ嫌い!」
さっさと嬲り殺しにするがいい。人間とは諦めた瞬間に、解放されて清々しい気持ちになれるのだと、はじめて知った。
いつ殺してくれるのか。微動だにせず待っていたものの、キリアンは固まったまま動かない。持っていたカップが滑り落ち、高い音を響かせながら粉々に砕け散る。
音で我に返ったらしいキリアンが、焦ってテーブルに足をぶつけつつ、エレノーラの前に跪いた。
今のエレノーラに怖いものはなく、冷ややかな眼差しでキリアンを見下ろす。
「なんですか、殺さ……えっ……な、なん」
反射的に立ち上がり、勢いに押された椅子が後ろに倒れた。散乱する破片と、ひっくり返った椅子。阿鼻叫喚と化した場に、異様な空気が流れはじめる。
サッと血の気が引いていく。その場で立ち尽くすエレノーラは、キリアンから視線を外せなかった。
(ど、どうして……)




