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 夢から覚めていく感覚の中で、はじめに思い浮かべたのはナターシャだった。


 彼女は気が弱く、心優しい性格をしている。エレノーラの顔色が少し悪いと、泣いてしまうほどの心配性だ。

 目の前で倒れたのだから、精神的な負荷をかけただろう。もしかすると怒られるかもしれない。


「いい加減──たら、どうです?」

「──といって、嫌──生きて、い────」

「もう充分──ると思いますが」


 聞き慣れた声が傍にいる。言い争うような会話はところどころが抜けており、ぼんやりとしか耳に届かないものの、ナターシャではないようだ。


 重たい瞼を持ち上げれば、アイスブルーの瞳と目が合った。バッチリ視線が交わされ、両者の間にどんよりした重苦しい空気が流れはじめる。

 静まり返った室内で秒針の音だけが響いて、耐えきれずエレノーラから口を開く。


「あの……」

「その……」


 被った。これはやらかした。瞬時に口を噤むが時すでに遅し。

 キリアンといえば、下を向いて固まったまま動かない。横になった格好では失礼と思い、起き上がって顔を覗き込む。

 すると、スッと避けられた。部屋の隅に逃げるほど、エレノーラが嫌いなようだ。


「なにしてるんです? 今日こそはちゃんと話すんでしょ。本当に逃げられますよ」


 逃げたいのはキリアンのほうだろう。今まさに距離を取られているのに、ローレンスは勘違いをしている。


「ああ……そう、だが……その……エ、エレノーラ……身体は、大丈夫……か……」

「わたしなら問題ありません。ご迷惑をおかけしました」

「そ、そう、か……」


 キリアンが壊れた通信機みたいだ。

 祖国は金銭的に余裕がなかったため、高価な魔導具を揃えるのは厳しく、安物の通信機で連絡を取り合えば音声がぶつ切りで再生される。


 魔力が足りなくなれば、雑音まで入る始末。今のキリアンは安価な通信機であった。

 キリアンが遠くにいることもあり、聴き取りづらくて仕方がない。

 ローレンスはずっと、腹を抱えて笑っている。


「……え、あ、その……君に……謝り、たくて……」


(謝れ……?)


 誠心誠意をもって謝罪しろ、ということか。キリアンの訴えは尤もである。

 思い描いていたはずの幸せを、奪ってしまったのはエレノーラだ。


 本当ならば顔を見るのも嫌なのに、部屋の片隅で縮こまって床を眺めながらも、謝罪を求めるくらいには恨みが募っているのだろう。

 キリアンの想いに応えるべく、ベッドから降りて膝をついた。


「申し訳ありません、殿下。すぐに話をつけるつもりなのでご安心を」

「ま、ままま待っ、ちが、エレ、エレノーラ……!」


 目の前で頭を下げてみたものの、キリアンの脚がガタガタと震えていた。

 チラリと視線を巡らせたところ、触れようと伸ばした手をすぐに引いたり、言いたげに口を開いたかと思えば眉根を寄せている。

 謝罪だけでは、納得がいかないのだろう。とうとう目元を覆って唸りだす。


「と、とにかく……立って、くれ……」

「赦してほしいとは言いません。ですが、離婚ではダメでしょうか……」

「は…………?」


 声を絞り出して願い出てみるが、地を這う低音がキリアンから漏れる。殺されても文句は言えないものの、やはり本音は命が惜しい。


 しかしながら、命乞いがキリアンの逆鱗に触れてしまったようだ。

 呆れて物も言えないのだろう。キリアンは深いため息をつくと、頭を抱えたまま崩れ落ちた。


「なんて? 離婚……? ははっ……そんな……まさか…………離婚とはなんだ?」

「現実逃避とかやめてくださいよ、みっともない」


 仁王立ちしたローレンスが、キリアンにうんざりした眼差しを向ける。

 息を詰めたキリアンは、恐る恐るエレノーラに向き直った。

 アイスブルーの瞳を眇め、唇を噛み締めている。薄目で見るほど嫌なのか。


「その……傷つけた謝罪を、させて、ほしい……」

「殿下が謝る必要はありません。すべてわたしが悪いのですから」

「ま、待ってくれ……私が……嫌いか……?」

「嫌いなのは殿下のほうでは?」


 嫌いなんて生易しいものでは、片づけられない感情だろう。

 愛する人がいながらエレノーラとの結婚を強いられ、じわじわ追い詰めて殺したいほど憎んでいる。

 エレノーラが妻として傍にいる限り、キリアンは幸せになれない。邪魔な女が消えさえすれば、不憫な救世主を救えるはずだ。


 覚悟を決めて勢いよく顔を上げると、間近に美貌が迫る。鼻先がつきそうなくらい近い。

 ふと、キリアンの額が赤く腫れていることに気づいた。


「あ……あ、の……エレ、ノーラ、ち、近い……ちか」

「殿下、怪我をされてます。わたしに治療をさせてください」

「いや、あの、な、ふぉあっっ!」


(ふぉあ……? 異国語?)


 額に触れた途端、キリアンから悲鳴が轟く。怪我のことばかりですっぽ抜けていたが、触れられて嫌悪感が増したのだろう。

 申し訳ないことをしてしまった。すぐさま神力を放出して怪我を癒す。

 触れなければ治せないのが難点だけれど、目映い光はキリアンの肌を滑らかな姿に戻した。


「へぇ……夫人は神力を使えるのですか」

「ええ、そうなんです。誰にも言ったことはないのですが」


 言える人が居なかった、というのが正しい。祖国でエレノーラの居場所はなかったし、神力が使えたと知れば、おそらく父は金のために搾取しようとしたはずだ。

 神力は無限に湧いてこない。生命力と引き換えに、力を発現できる。

 もしも父に知られていたら、今ごろエレノーラは生きていなかっただろう。


「綺麗になりましたよ、殿下」


 満足したエレノーラは、綻んだ表情を浮かべた。良いことをすると、不思議と心が満たされる。

 少しくらい恩を返せただろうか。ドキドキしながらキリアンを見たところ、額に筋が浮いた顔は真っ赤で、瞳孔が開いた目はギラつき血走っていた。

 エレノーラは、サッと顔色を青白く染める。凄まじく怒り心頭の様子だ。


「あの、申し訳」

「エ、エレノーラの、ゆ、指が」

「……触れてしまい、申し訳ありません」

「は……ははっ……やわら、か」


 ふらりと意識を飛ばしたキリアンは、そのまま後ろへ倒れて壁に激突する。

 ぴくりとも動かず気絶した姿に、エレノーラは全身の血を抜かれているような心地だった。


「いやぁ、まさかここまで耐性がないとは」


 キリアンは白目を剥いて倒れているにもかかわらず、ローレンスは大笑いである。

 相手は皇族なのだが、ひどい扱いようだ。


「あ、あの、医者を」

「要りませんよ、自業自得ですから。夫人の仕事は堂々と構えていることです」


 長身かつ鍛えられた身体を軽々と担ぎ、ローレンスは扉の前で振り返る。

 すごい怪力の持ち主に射抜かれ、小さく肩が跳ねた。すべてを見透かすような瞳が、ゆっくりと細められる。


「忘れてませんよね、俺の言ったこと。本気にさせた罪は重いですよ」


(本気にさせた、罪……?)


 微笑みながら遠ざかる背中を、ただただ眺めていた。

 ローレンスから2度目の忠告を受けたものの、エレノーラはどんな罪を犯したのか記憶にない。

 離婚を申し出たせいか、触れたからか。なんにせよ、キリアンの復讐心に火をつけた責任を、取れと言っているのだろう。


(いっそ、ひと思いに殺ってくれないかしら……)


 過去を思い出して、疼いた背中が痛みをもたらした。

 叩かれる恐怖と痛みは、心の傷痕として残り、何年経っても忘れられないだろう。

 エレノーラには神力が宿っているものの、自身に使用することは不可能だった。幼い頃から受け続けた鞭打ちの痕は、未だに刻まれている。


(ああ、そうか……きっと殿下は傷痕のことを知っているのね)


 歪に皮膚が盛り上がり、見るも無惨な醜い身体。知っているからこそ、触れられたくないといえる。


(わたしの、勇者さま……)


 国を救った勇者は愛する姫と結ばれ、幸せを掴んだ。キリアンも同じ道を辿るべきだろう。

 おそらく敗戦が決まったとき、国と一緒にエレノーラも、滅びたら良かったのだ。

 何故、生きているのか。どうして生まれてきたのだろう。なにも分からない。


 翌日、視界いっぱいに広がる異様な光景にも、エレノーラは理解する気が失せていた。


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