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 香水のような強い香りが鼻をつく。匂いに誘われ起き上がると、目の前の光景に唖然とした。


(な、なにこれ……)


 無駄に広い部屋が、真っ赤な薔薇で埋め尽くされている。ベッドの上から床まで、足の踏み場もないほどだ。

 リビングと見紛う空間に蔓延る薔薇。何処を見ても薔薇。頭が痛くなってきた。


 一体、何千本あるのだろう。嫌がらせにしては、丁寧に棘が抜かれている。

 花びらが幾重にも重なり開花する様は見事だが、部屋一面に密集していれば匂いもきつい。

 しかも、視界が真っ赤である。いくら薔薇が好きでも、血の色で染められていたら綺麗と思うより恐怖を覚えた。


(考えすぎ、なのかしら……)


 おそらく、寝不足のせいだろう。慣れてきたとはいえ、帳簿の確認や手紙の整理。加えて、暇さえあればミステリー小説に手を出している。


 最近のお気に入りは『君を殺す者』シリーズ。犯人が主人公に「君を殺してあげる」と毎度手紙を送りつけてくるが、殺されるのは彼女の周りの人間だけ、という奇行ものだ。


 読み始めると止まらず、ちゃんとした就寝時間が取れていない。

 不可思議な現象を受け流そうとしていたが、ドレッサーに置かれた箱を見つけて、エレノーラは固まった。


 丁寧にラッピングされた箱に、無数の薔薇が突き刺さっている。

 そえられたメッセージカードを貫く様は、呪われた品のようで気持ちが悪い。『エレノーラへ』の達筆な文字が呪詛に見えて恐れ慄く。


(呪ってやる、ってこと……?)


 ローレンスより忠告を受けた日から1週間。平和な日常が嘘のように崩れ去った。




 当主キリアンが管理するレティノアール公爵家は、皇都から馬車で3時間ほどの場所にある。

 広大な領地に佇む城を思わせる外観と、公爵の名に見合った豪華絢爛な内装。

 祖国では考えられないくらい良い待遇で迎え入れられ、もちろん危害を加える者もいない。


 半年も経てば環境にも慣れてきて、悪夢を視ることなく眠りにつけるようになった。

 皆が優しく接してくれるし、エレノーラにとって天国にも等しい場所だ。けれども、己が妻である限り、キリアンに安息は訪れない。


 復讐に燃える彼は、安全であると隙をみせつつ、緩んだところを叩こうとしている。

 飴と鞭を上手く使い分けて、悟られずに仕留めようとは、さすが騎士最高位のグランドマスターの称号に相応しいやり口だ。

 おそらく、薔薇はキリアンからのメッセージなのだろう。


『お前をいずれ、同じ色で染めてやる』


 はじめて出会ったときの姿が脳裏を過る。

 氷のような銀色の髪と白い肌が、返り血で赤黒く染まり鉄の匂いが漂っていた。長めのペリースを靡かせながら近づくにつれ、鋭利な剣から赤い液体が滴り落ちていく。


 乱れた銀糸も気にせず、エレノーラを見下ろすアイスブルーの双眸は、すべてを凍らせるほど冷たいものだった。

 薄暗い城の中で顔を合わせたときは、言葉こそ交わさなかったものの、曇った瞳は正直に語っていたのだろう。


 『お前を殺してやりたい』と。



(……仕方ないわ、父が裏切ったのが悪いんだもの)


 顔を洗って着替えようと、せっせと薔薇をかき集める。ぜんぶは無理だから、足場の確保だけでいい。

 妙な景色に身を置いているから、いつまでも余計なことを考えるのだろう。

 波打つ金色の髪を結って浴室へ向かった。扉を開けて中を覗き、そっと閉める。


(……わたし、まだ眠ってるの……?)


 目元を覆って深呼吸を繰り返す。もう一度、浴室を覗いてみるが、やはり夢ではないようだ。

 何故なのか。浴槽が薔薇の花びらで占拠されている。


(こ、これは、もしかして……)


 自殺に見せかけてお前を殺す、という意味か。

 お湯は血行を良くするため、急所でなくても深い傷を負えば死に至る。エレノーラの意識を奪いさえしたなら、簡単に処理されるだろう。


 和平条約の人質といえど、エヴァレスト帝国は国を5つも落とした難攻不落の強国である。

 敗戦した祖国が条約を破ったと喚いたところで、痛くも痒くもないはずだ。


(いえ、まだ決めつけるのは軽率よ……)


 蓄積された疲労が、思考回路をネガティブにさせているのだろう。

 気を取り直して、ベルを鳴らす。今日はキリアンの遠縁にあたる子どもたちを、預かる予定が入っていた。


「お呼びでしょうか、奥さ……うっわ、なんですかこれ」

「忙しいときにごめんなさいね、ナターシャ」


 部屋に入るなり、殺人現場のような有り様にナターシャが引いている。

 大きな丸いフレームの眼鏡にそばかすのついた、可愛らしい顔が台無しなほど歪む。だが、ナターシャは瞬時にキリッとした顔つきに戻り、エレノーラの元へやって来た。


「そんな、奥さまのことより優先すべき仕事なんてないです!」

「ありがとう、いつも助かるわ」


 礼を言いつつ、頭の中は薔薇でいっぱいだった。ナターシャが知らないということは、間違いなくキリアンの仕業だろう。

 悩みは尽きないが、身支度を整えるべく椅子に腰を下ろした。





「ごめんなさいね、エレノーラ。どうしても外せない用事があって」

「いえ、お会いしたいと思っていたので嬉しいです」

「あら、そう? 面倒かけさせるわ……お礼は必ずさせてもらうから」


 麗しい貴婦人に連れられ、ふたりの子どもたちを出迎える。

 貴婦人ことフリージアは、キリアンの遠縁で侯爵夫人だ。30歳間近とは思えない美貌の持ち主で、エレノーラが帝国に来て特に世話になった人でもある。


「エレノーラ、子どもが好きならはやく作るべきよ。貴女も20歳になるのだし……で、キリアンとどうなのよ!」

「え、えっと……殿下は忙しいようで……」

「まぁ! あの子ったらいい歳してまだ逃げてるのね」


 子作りはおろか、殺害予告を受けているとは言えない。キリアンの心情を知らないのか、フリージアは納得いかない様子で顔をしかめた。


 だが、フリージアの心配も理解できる。25歳にもなる公爵当主が世継ぎも作らず、仕事ばかりとなれば身内としては不安だろう。

 とはいえ、触れることすら嫌悪しているのに、身体を重ねる行為は拷問と同じに違いない。


「言っておいてあげるわ。こういうのは、女から言わないとわからない男がいるんだから」

「な、なるほど……?」

「もういっそ、貴女から希望を伝えてみたらどう?」


 フリージアの言うことも一利ある。いずれ話をしなければ、とは考えていた。

 背中を押してもらったし、エレノーラから離婚を申し出てみようと思う。

 ただ問題は、キリアンが話し合いに応じてくれるかわからないことだ。


 ──その前に殺されたら終わりなのだが。







「それで、どうなったの?」

「ドラゴンを倒した勇者さまは、お姫さまと結婚をして幸せに暮らしたのよ」


 客間に絵本やぬいぐるみをたくさん用意し、エレノーラは子どもたちに読み聞かせをしていた。

 勇者と姫の物語が気に入ったようで、ふたりして目を輝かせている。

 あまりの愛らしさに、思わず微笑みが漏れていた。


「けっこんって、好きなひととするのでしょう?」

「そうよ、良く知ってるわね」

「おじちゃまが言ってたもん、けっこんは好きなひととするものだー! って」


 おじちゃまとはキリアンのことである。たまに遊びに来た子どもたちに、構う姿を遠くから眺めていたが、結婚なんて話題を口にしていたとは驚いた。

 だが、子どもたちの話を聞いてエレノーラは確信する。キリアンは好きな人との結婚を望んでいるのであって、エレノーラとの結婚は不本意であると。


「ねぇ、おばちゃまはおじちゃまのこと好きなの? だからけっこんした?」

「あ、えっと……そうね、好きよ。わたしの勇者さまなの」


 好きの意味合いが違うかもしれないが、子どもたちの夢を壊すわけにもいかない。

 良心が痛むが、望むままに答えた。その瞬間、ドンッと凄まじい音が廊下に響き渡る。


(なんの音かしら……)


 そっと扉を開けて確認するものの、誰も居ない。子どもたちも気にした感じはなく、エレノーラの勘違いだったのだろう。

 少し過敏になり過ぎているようだ。


「ごめんね、話の続きをしましょうか」

「うん! おばちゃまの勇者さまがおじちゃまなら、おばちゃまはお姫さまだね」

「おじちゃまも好きなひといるって言ってたよ! 絵本といっしょかも!」


(そ、そうなの……?)


 まさか、キリアンに好きな人がいたとは驚愕だ。なおさら罪悪感に苛まれる。


(わたしは恨まれて当然の存在なのね)


 協定を破り、先に戦を仕掛けたのは祖国のほうだ。

 国を討ち取った褒賞として、下賜されたものが復讐の対象だったのだから、理不尽にもほどがあるだろう。


 愛する相手がいるにもかかわらず、引き離された痛みは計り知れない。

 敵国の王女で価値のない女が、好きな人を差し置いて夫人の座におさまっている。キリアンからすれば、殺意も芽生えるはずだ。


(皇帝陛下に謁見の申し出をしないと)


 実の兄弟なのだから、話くらいは訊いてくれるだろう。翌日には行動に移し、用意した手紙を届けて返事を待つのみとなった。


 ここのところ疲れが溜まっていて、思うように頭が働かない。寝不足のせいもあってか、動悸もはやくなり強く脈打っている。


(知ってる……この、感覚……)


 何度も経験した。倒れる前に起こる、身体の悲鳴だ。

 案の定、エレノーラは椅子から崩れ落ちた。視界に靄がかかり、吐き気が込み上げてくる。

 すぐに駆けつけたナターシャが、泣きそうな表情でエレノーラの身体を支えた。


「奥さま! エレノーラさま……! すぐ医者を呼びますからっ」

「……だい、じょうぶ……だから……誰にも、言わないで……」


 いつものことで、眠っていればおさまる。だから、誰にも気づかれたくない。

 これ以上、迷惑な存在だと思われたくないから。


 意識が沈む寸前に、身体が浮遊する感覚に見舞われた。ふわふわしていて、心地良い体温に包まれている。


「私が運ぶ、君は治療師を呼んでくれ。すぐに来るよう伝えろ!」


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