12
庭園まで小走りで駆け抜け、手入れが行き届いた花々の陰に隠れる。
耐えられず逃げ出してしまったが、キリアンに恥をかかせたも同然だ。謝って、許してくれるだろうか。
(どうしよう……まだ、ドキドキしてる……)
今朝の出来事を思い出して、エレノーラは火照った頬を両手で包んだ。意識するほどに、胸の高鳴りがひどくなる。
触れたときに感じた、体温と胸板の逞しさ。手のひらだけじゃなく、全身が覚えている。
芳醇な花の香りを堪能するよう、深く息を吐いて深呼吸を繰り返す。甘さに酔いしれていたところ、不意に身体が後ろへ引き寄せられた。
「あ、っ……」
「……見つけた、エレノーラ」
(っ……キリアン!?)
声がするほうへ振り向く前に、しっかりと両腕が巻きついてくる。
悪戯に耳朶を弄ばれ、熱い吐息が鼓膜を揺さぶった。キリアンから伝わる高いぬくもりが、全身に浸透していく。
生垣の隙間に隠れていたのに、どうしてエレノーラの居場所がわかったのだろう。
「何故、わたしが此処にいると……」
「わかるさ、君が何処にいても探し出せる」
こめかみに柔らかな熱が触れる。離れていくのが惜しくて身を預けると、無骨で長い指がゆっくりとエレノーラの指先を撫でていき、やがて交わり合った。
指の隙間を縫って包まれたかと思えば、薬指に輝きを放つサファイアブルーがあてがわれる。
細身のシルバー色のリングに、透き通った小さな宝石。シンプルながら可愛らしく、一瞬で目を奪われた。
「わぁ、ありがとうございます。綺麗ですね」
「実は君をエヴァレストに連れてきたときには用意をしていたんだが、その」
「陛下に無理やり用意させられたのですね?」
「なっ、違う! 私の身勝手で縛りつけてしまうのではないかと怖かったんだ」
アイスブルーの眼差しが、哀しげに揺れていた。
キリアンの胸元に身体を倒して凭れると、空に向かって手のひらを翳す。陽の光が反射して、サファイアブルーの宝石が爛々と存在感を放っていた。
じっと眺めていたところ、キリアンが顔を覗き込んでくる。
「この指輪は一度つけたら外せない。君はもう私のものという証だ、愛している……エレノーラ」
「はい、わたしも愛しています」
左手を取られ、手の甲から薬指へ、唇が触れていく。誓いのようで、祈りにも似た動き。
ふせられた睫毛が震えて見えて、キリアンの繊細さが伝わる。ゆっくりと、丁寧に。艷やかな指輪の表面を、キリアンの息づかいが撫でた。
甘美なひとときに満たされていく感覚。抱きしめて体温で囲いながら、キリアンが全身全霊で求めてくれる。
幸せとはなにか、ひとつひとつを教え込まれている気分だ。
無意識に見惚れていたものの、エレノーラはハッと大事なことを思い出す。
「あの、陛下とお話をしたいのですが……謁見をお願いできませんか?」
「は……? 何故、私以外と話す必要が?」
恍惚とした表情を浮かべていたが、エレノーラの発言で瞬時に顔色を変えた。
キリアンはスッと目を眇め、畏怖を感じさせる声音を漏らす。
「手紙をお送りしたのです……その、離婚について相談をしたくて」
「ああ、大丈夫だよエレノーラ。その手紙なら魔獣の餌にした」
(なんて?)
エレノーラの髪を梳きつつ、真摯な相貌で答えてくれた。手つきは優しいけれど、ピリピリとした圧がキリアンから漂う。
破いて捨てたならともかく、わざわざ魔獣に食べさせる意味があったのか。やっぱりキリアンの思考回路がわからない。
しかも、手紙の話題になった途端、とても不機嫌だ。黙って離婚の相談を持ちかけようとしたエレノーラに、怒り心頭の様子である。
「申し訳ありません、手紙を出したことを怒っていますよね……?」
「怒っているよ、君がはじめて書いた手紙をもらうのが兄上なんだから。殺してやろうかと思った」
「はい……?」
やはりエレノーラの予感は当たっていたのだろう。すぐさま頭を地につけようとしたところ、キリアンが焦って止めに入る。
「あ、違うんだエレノーラ……っ、君じゃなくて…………殺すのは兄上だから」
大問題であろう。反逆と見做されるし、なにより実の兄弟で啀み合うのはやめてほしい。
エレノーラの送った手紙1通が、エヴァレスト帝国を地獄に叩き落とすところだった。怖くて無意識に身体を反らせていたものの、キリアンによって胸元に押しつけられる。
「ん……あの、陛下への手紙は謁見の要請で」
「駄目だ、絶対に駄目だからな。君のはじめてはすべて私が奪いたい」
上目遣いで赦しを乞い、『ダメか……?』と視線で訴える。
小首を傾げて甘える仕草は卑怯だろう。胸を撃ち抜かれたエレノーラは、忙しなく脈打つ鼓動と戦った。
(ずるい人……)
見渡すと、足下に小さな花が咲いている。名もなき花は昔の自分のよう。ひっそりと息を殺していたあの頃みたいだ。
でももう、ひとりじゃない。振り返ると凍りついていたキリアンの表情が、雪解けの季節に相応しく、晴れやかに綻ぶ。
風にのって白い花びらが、ひらひらと舞い散った。祝福されているようで、エレノーラは口許に美しい曲線を描く。
「わかりました。手紙も贈り物も、キリアンに差し上げます」
「贈り物……?」
「ええ、そうですよ。わたしは誰かの誕生日を祝ったりパーティーへ出席したことがありませんから、キリアンがはじめての人になります」
幼い頃の記憶はあまりないものの、祖国での暮らしは辛いものばかりだ。誕生日など、祝うどころか祝ってもらったこともない。
けれど今は、キリアンが傍にいてくれるから、過去は忘れて大切な居場所を守りたいと願う。
「はじめての人か……嬉しいよ、エレノーラ」
「はい、よろしくお願いしますね。旦那さま」
ずっと夢見ていた微笑みが目の前にある。それだけで、エレノーラは救われるから、キリアンの妻である限り幸福だ。
「それから、またデートがしたいです」
皇城の隅でのんびりした時間を過ごしただけのものだったが、エレノーラは気に入っていた。
誰にも邪魔をされず、何事にも囚われない。ふたりきりのひとときは、飽きない魅力がある。
キリアンの胸に寄りかかり、素直に甘えてみせた。上から見つめていたキリアンが、陽の光に負けない笑みをこぼす。
ふと、いつ用意していたのか。真っ赤な薔薇がこめかみを通り、髪に彩りをそえる。
「私の美しい妻、何処か行きたい場所が?」
「ぅ、え、えっと……」
改まって口にされると、すごく恥ずかしい。きっと、大輪の花に負けじと、耳まで薔薇色に染まっているだろう。
誤魔化したくて、しどろもどろになりながらも、声を絞り出す。
「その、キリアンと、一緒にいたくて」
「え?」
虚を突かれたよう、キリアンが目を見開く。瞬く間に目尻が色づいて、ふたりして真っ赤になっていた。
キリアンはサッと顔を背け、口元を押さえている。少し長めの前髪から覗く、蒼白い瞳が潤んでみえた。
「……参ったな」
呟かれた声音が脳内にこだまする。困らせてしまったのか。不安に襲われ、エレノーラはキリアンの手をそっと両手で包む。
眉尻を下げて見つめていると、ますますキリアンの顔が紅潮していく。
「エ、エレノーラ……?」
「無理にとは言いません、から……」
「あ、ちが、そうじゃなくて……君が、あまりにも、かわいい、から……」
(かわいい?)
ハッと気づきを得たエレノーラは、ぎゅっと手のひらを握り締めた。ぴくっとキリアンの肩が跳ねたが、気にせず唇を緩める。
「もしかして、薔薇が似合いますか?」
「え、ああ、綺麗だ。食べたいくらいに」
「なんて?」
思わず声に出てしまった。薔薇は食べ物ではないし、妙なことを口走るキリアンが悪い。
「いや、間違えた、間違えてないが……その薔薇が気に入ったなら、またたくさん贈ろう」
「え、要らないです」
「え? なんで……?」
キリアンはパァッと明るい笑顔のまま固まった。首を傾げて疑問符を浮かべているけれど、もう薔薇は懲り懲りなのである。
完結までお付き合いくださった皆さまへ、心より感謝を。




